18) 「運命の筆」
アイロンヘイヴンの大図書館。
遠くの広間は、静寂に包まれる。
ペンの擦れる音。
アマンダの、早まる鼓動。
それだけが、沈黙を破る。
目の前に、羊皮紙の束。
写本係の備蓄から、こっそり失敬した。
小さなインク瓶。
最後のコインで手に入れた。
手が震える。
深く、息を吸う。
(最初から、やり直す。)
心の中で、命令する。
ペンをインクに浸す。
最初の紙の上に、文字を刻む。
「崩塔のクロニクル。主要事件。記録その一。」
物語の始まりじゃない。
世界の説明でもない。
彼女が覚えている、「本」の第一章。
その瞬間から、書き始める。
「事件ゼロ。ランデル・フォン・アイヒェンヴァルド公爵の死。」
日付:およそ三ヶ月後。凋落の季節。
場所:囁く短剣の森。公爵領と帝国の国境。
原因:皇帝の秘密命令による、計画的な待ち伏せ。表向きは「反逆の疑い」。
実行者:精鋭部隊「深紅の爪」。
結果:公爵、激しい抵抗の末に討たれる。従者の中で唯一生き残った妹、ロクサナ姫が目撃者となり、逃亡。この事件が、物語の全てを動かし始める。
ペンが、紙の上を滑る。
彼女の息が、静かに整う。
(これが、私の新しい盾。)
ペンを置く。
アマンダは、書いた文字をもう一度見つめる。
一語一語が、魂に冷たく響く。
これは、ただの記録じゃない。
誰かの頭上に、吊るされた剣だ。
今、その人は自分の運命を知らない。
きっと、穏やかに生きている。
(…こんなの、残酷すぎる。)
ふと、記憶が閃く。
ストレスで研ぎ澄まされた頭が、昔のことを引きずり出す。
「クロニクル」のファンコミュニティ。
サガが完結した何年も後。
作者、影山氏のインタビュー。
「影山さん、なぜランデルを最初の章で殺したんですか? あんな強いキャラだったのに!」
「(笑)だって、アイツ、強すぎたんだよ! マジで。考えてみてよ。北部最強の公爵家の後継者。幼い頃から完璧な教育を受けた。生まれながらのリーダー。カリスマがあって、宮廷の侍女たちはみんなくらくら。しかも、世代最強の剣士で、天才的な戦術家。もしアイツが生きてたら、『クロニクル』は二巻で終わってた。帝国を大陸から蹴り出して、全部片付けてたよ。ロクサナに悲劇のキッカケが必要だった。ランデルは…この世界には、完璧すぎたんだ。」
その言葉が、頭の中でこだまする。
アマンダの指が、震える。
(ランデルは…死ななきゃいけない。)
(物語のために。)
でも、今、彼女はここにいる。
この世界に、生きている。
ランデルも、どこかで生きている。
まだ、知らない運命を背負って。
(私が…変えられる?)
その考えが、心を突き刺す。
危険な、でも、止められない考え。
アマンダは椅子の背にもたれる。
背中に、ぞくりと悪寒が走る。
自分の手で書いた「ランデル」の名。
それは、もはや本の文字じゃない。
(…鍵だ。)
全てを変える、鍵。
恐怖が、心を締め付ける。
バタフライエフェクト。
一つのミス。
それだけで、知っている出来事の鎖が。
制御不能の混沌に、崩れる。
(私の唯一の武器——予知が、消える。)
知っている道。
恐ろしくても、予測できる道。
それが、完全な未知に変わる。
(でも…)
考える。
(私は、何を失う?)
物語の筋書きに従った結果。
もう、死の淵に立っている。
帝国が、すぐそこまで迫る。
ギルドは、彼女を道具としか見ない。
安全?
そんなものは、幻想だ。
(なら…試してみる?)
ランデルを救う。
「最強すぎる」公爵を。
高潔な動機?
そんなものはない。
彼女の命は、あまりに高価だ。
ヒーローごっこなんて、論外。
これは、冷徹な計算。
「最強の剣士。天才的な戦略家。公爵家の後継者。」
彼は、ただのキャラじゃない。
生きて、呼吸する「武器」。
大陸の勢力図を、ひっくり返す存在。
(もし、彼が私の味方なら——)
一緒に、できる。
帝国を。
ギルドを。
全てを、変える。
心臓が、激しく鳴る。
(やるしかない。)
ペンを握り直す。
新しいページを、開く。
アマンダは、勢いよく立ち上がる。
手に握った、書き終えた紙。
ぎゅっと、くしゃっと潰す。
(…いや。)
息を吐く。
紙を、そっと広げる。
丁寧に、元に戻す。
(壊さない。)
(使うんだ。)
ペンを手に取る。
新しい紙。
新しい計画。
もう、ただの「生き延びる」計画じゃない。
「攻める」計画だ。
「目標:ランデル公爵の死を防ぐ。」
課題1:接触。スパイと疑われず、彼に待ち伏せの情報を伝える方法を見つける。
課題2:地盤作り。ギルドでの立場と、帝国の興味を利用して、足場を固める。
課題3:影響の予測。彼が生き残った後の展開を計算し、どんな結果にも備える。
手は、もう震えない。
恐怖は、まだそこにある。
でも、今、別の炎が燃える。
賭け手の、興奮。
全てを、一番危険なカードに賭ける、昂揚。
(もう、ただの読者じゃない。)
彼女は、物語の共同執筆者になる。
最初の編集は、ただ一つ。
「クロニクル」から、最重要の死を、消し去ること。
ペンが、紙を滑る。
彼女の目が、鋭く光る。
この未知なる物語の旅路に、
「ブックマーク」という道標を頂けますと幸いです。
そして、もしその旅が少しでも貴方の心に響いたなら、
「5点評価」という最大の賛辞を賜りたく。
何卒、宜しくお願い申し上げます。




