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17) 空のページ

鋭い風が金色の髪を乱す。

アイロンヘイヴンの街が、眼下に広がる。

輝く塔、そびえる壁、秘密に満ちた街。

アマンダの胸に、重い氷のような塊が沈む。


(——全部、嘘だった。)


その考えが、頭を突き刺す。

吐き気が喉を締め付ける。

白い石の欄干に、思わず手をかける。

(私が…最初から、騙していただけだなんて。)


背後でロレンツの声。

「アマンダ、待ってくれ!」

彼の顔には、安堵と興奮が混じる。

だが、彼女は振り返らない。

「後で。」

一言だけ。

冷たく、突き放すように。


足は勝手に動く。

階段を上る。

どこへ?

わからない。

ただ、上へ、上へ。

そして、たどり着いた——城壁の展望台。


風が頬を叩く。

勝利の余韻は、消えていた。

残るのは、苦い嘘の味。

そして、心を凍らせる恐怖。


(私は…何をやってきたんだ?)


街を見下ろす。

アイロンヘイヴンは、まるで手のひらの上。

だが、その美しさは、彼女を救わない。

胸の重さは、消えない。


過去の記憶が、頭をよぎる。

ロレンツとの初対面。

酢と蛍光石。

あの時、運が良かった。

前世の知識が、たまたま一致した。

(でも、もし…)


もしロレンツが、話だけで終わらず。

「やってみろ」と。

試験管とフラスコを手に持たせたら。

(…私は、できなかった。)


理論は知っている。

まるで、料理番組を眺める観客のよう。

だが、錬金術師の「感覚」はない。

手が覚える、動きの記憶はない。


(そして、今日——)


心臓が締め付けられる。

帝国を相手に、すべてを賭けた。

オリハルコンの幻腐蝕。

「クロニクル」の中で、学者が呟いた一言。

ただの、言葉。

本に書かれた、ただの名前。


(私は…何も知らない。)


作り方?

知らない。

安定剤の配合?

知らない。

実践の知識は、ゼロ。


彼女の「天才的な提案」は、砂上の楼閣。

ギルドの威光を盾に。

知識の「深さ」で、帝国を驚かせた。

だが、それは時間稼ぎ。

一時しのぎの、虚勢。


彼らが戻ってくる。

必ず、戻ってくる。

その時、必要なのは「アイデア」じゃない。

動く試作品。

結果そのもの。


(もし、できなかったら——)


追放?

そんな甘いものじゃない。

帝国の軍事力を愚弄した罪。

待つのは、処刑。

詐欺師として、死。


胸の凍える恐怖が、ますます重くなる。


欄干を握る手。

指の関節が、白くなる。

(私の計画…全部、崩れた。)


本の知識。

それだけが、彼女の武器だった。

でも、本は地図でしかない。

歩き方は、教えてくれない。


理論屋。

それが彼女だ。

この世界は、実行者を求める。

戦場に投げ込まれた、歴史学者。


(私、何してるんだ…?)

(錬金術師じゃない。戦士でもない。)

(ただの…学生だ。)

(何も、できない。)


鉄の意志で抑えていた恐怖。

そのダムが、決壊する。

体が震える。

二十歳。

異世界。

知らない体。

背後には、何もない。

ただ、本の山。

今、ただのゴミに思える。


「時間…稼いだだけ。」

虚空に囁く。

声が、震える。

「次は? どうする?」


(誰かの研究を盗む?)

(本物の天才を探して、その成果を自分のものにする?)


そんな考えが、頭をよぎる。

即座に、吐き気を覚える。

(そんなの…最低だ。)


無意味だ。

物語の主人公なら、違う。

三ヶ月で、安定剤を作り上げる。

皇帝の目に留まる。

輝くヒロインになる。


(でも、私には…無理。)


風が、冷たく頬を刺す。

胸の恐怖が、ますます重くなる。


もう、道は一つしかない。


アマンダは背筋を伸ばす。

頬を伝う涙を、力強く拭う。

風が、濡れた跡を乾かす。


(——いい。)


決意が、心に響く。

虚勢じゃない。

ただ、必死の覚悟。


(学ぶしかない。)

(覚えるだけじゃ、ダメだ。)

(理解するんだ。)

(理論を知るだけじゃ、足りない。)

(使えるようになるんだ。)


風が、彼女の髪を揺らす。

恐怖はまだ、そこにある。

でも、今、彼女の目は燃えている。


(…しまった。)


突然の閃き。

まるで雷に打たれたよう。

帝国や幻腐蝕のことは、一瞬、頭から消える。

(そうだ…ノートを作らなきゃ。)

(「クロニクル」の出来事を、全部書き留めるんだ。)


アマンダは、かつてそうしていた。

夜中、ひっそりと。

粗末な小屋の床板の下。

こっそり、紙に書き留めた。

「クロニクル」の地図を模写した。

名家の名前。

大戦の年号。

王国の滅亡の日付。


それが、彼女の盾だった。

未来を知るための、ささやかな備え。

変えられない運命に、立ち向かうための。


(でも…全部、あそこに置いてきた。)


あの村。

今は、きっと灰の山。

ハンの戦士たちの怒りに焼かれた。

そこには、彼女の努力の結晶。

煙に染まった、過去の記録。

そして、母の誕生日に贈るはずだった、未完成のドレス。


胸が、締め付けられる。

(全部…失った。)


それでも、彼女は目を閉じる。

(もう一度、始めるんだ。)

(新しいノートを。)

(新しい盾を。)


風が、彼女の決意をそっと包む。


記憶が、洪水のように押し寄せる。

体が震える。

額を、冷たい石の壁に押し当てる。

静かな、苦い嗚咽が漏れる。


(失った知識じゃない。)

(失った…人生だ。)


母の小屋の、暖炉の温かい光。

カエレンの、粗野だけど本物の優しさ。

素朴な喜び。

あの村での、半年。

あの村は、家族になった。

あの人は、家族だった。


(全部…過去になった。)


彼女は、一人。

完全に、一人。

頭は、誰かの物語でいっぱい。

心は、縫い目から裂けている。


涙が、涸れる。

唇に、塩の味だけが残る。

ルビーの瞳が、ゆっくりと上がる。

アイロンヘイヴンを見下ろす。


もう、輝く尖塔じゃない。

路地。

工房。

市場。

そこに、飾らない「本物の」命が息づく。


記録は、燃えた。

村は、消えた。

家族は——考えるのも怖い。


(でも…それが意味すること。)


古いページは、終わった。


(新しいページを、始めるんだ。)


拳を、ぎゅっと握る。


もう、物語の読者じゃない。

筋書きを追いかけるだけじゃない。

これから、彼女自身が書く。

自分の「クロニクル」を。


異邦の魂が、ただの記憶の欠片と、鋼の意志だけで。

帝国を、ギルドを、迫る闇を。

この世界すべてに、彼女の存在を認めさせる。


(その第一章は、今、始まる。)


空のノート。

インク。

それを探すことから。


風が、彼女の背中を押す。

この未知なる物語の旅路に、

「ブックマーク」という道標を頂けますと幸いです。


そして、もしその旅が少しでも貴方の心に響いたなら、

「5点評価」という最大の賛辞を賜りたく。


何卒、宜しくお願い申し上げます。

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