第八話「ただの菓子屋に過ぎん」
夏の終わりが近づき、エルザート家の領地に秋の気配が忍び寄っていた。
森の木々がわずかに色づき始め、朝夕の風に涼しさが混じる。「菓子工房リリー」はその小さな領地で確かな存在感を放ちつつあった。
リリアナのスイーツは評判を呼び、近隣の集落からも客が訪れるようになる。店の前には毎日のように笑顔が溢れ、「癒しのレモンタルト」「勇気のチョコレートケーキ」、そして新作の「希望のストロベリームース」は、領民の心を掴み、リリアナ自身にも小さな自信を与えていた。
☆
その日、店はいつも通りの穏やかな賑わいを見せていた。
リリアナはカウンターでムースを盛り付け、ソフィアが領民に笑顔で渡している。市場の日ではない平日の昼下がり、訪れる客は少ないが、常連の農夫や子供たちが顔を見せていた。
彼女は苺の甘い香りに包まれながら、「もっと多くの人に届けられたら」と夢を膨らませていた。カルディスとの対立以来、彼らの影は遠ざかり、平和な日々が続くかに思えた。
だが、その静けさを打ち破るように、遠くから馬蹄の音が響く。
重々しい音が近づくにつれ、領民たちの会話が途切れ、皆が道の先を見つめた。
土埃を巻き上げて現れたのは、王都の紋章が刻まれた馬車と、それを護衛する数人の騎士たち。馬車が店の前で止まり、扉が開くと、中から黒いローブをまとった男が降りてきた。40代ほどの厳つい顔立ちで、手には羊皮紙の巻物を持っている。リリアナの胸に嫌な予感が走った。
「エルザート家のリリアナ・フォン・エルザート、ここにいるか?」
男の声は低く、威圧的だった。リリアナがカウンターから出て「はい、私です」と答えると、男は冷たく彼女を見据え、
「王都からの勅令だ。『魔力なき者は商売を禁じる』との帝国法に基づき、この店の営業を即時停止とする。第二王子カルディスの名においてだ」
その言葉に、店内がざわついた。ソフィアが「何だって!? そんな理不尽な!」と叫び、領民が「何言ってんだ!リリー様の店を閉めるなんてありえねえ!」と抗議の声を上げる。
リリアナは一瞬言葉を失い、震える声で聞き返した。
「帝国法? でも、私のスイーツに魔力はない。貴族の私が商売をするのに、そんな法律は関係ないはずです」
男――王都の役人――は鼻で笑い、羊皮紙を広げて読み上げた。
「魔力がなければ、貴族といえどもただの菓子屋に過ぎん。この店が帝国への貢物を妨げるとして、王子が直々に命じた。異議は認めん」
彼が護衛に目配せすると、騎士たちが店の入り口に立ち、木の板と釘を持って封鎖の準備を始めた。
「ちょっと、待ってください! 私のスイーツはみんなを幸せにしてるだけです。貢物と何の関係が……」
リリアナの必死の訴えを、役人は冷たく遮る。
「黙れ。王子の命令は絶対だ。お前の菓子がどれだけ評判だろうと、帝国の利益を優先する。それが分からんのか?」
その言葉に、カルディスの嘲笑が重なって聞こえ、リリアナの膝が震える。
領民たちが前に出て、「リリー様をいじめるな!」「この店は俺たちの誇りだ!」と叫んだ。
農夫が役人に詰め寄ろうとすると、護衛の一人が剣を抜き、「下がれ! 王命に逆らう気か?」と威嚇。
子供が泣き出し、母親が抱き寄せる中、ソフィアがリリアナの手を握り、「こんなの許せません! リリアナ様、何とかしましょう!」と涙声で訴えた。
だが、リリアナの心はすでに折れかけていた。
「私が無能だから……私が魔力を持たないから、こうなるんだ」
舞踏会の夜、カルディスに「気高さがない」と言われた記憶が蘇り、彼女の視界が涙で滲んだ。
領民の声も、ソフィアの「そんなわけないです!」という励ましも、遠くに聞こえる。
「ごめんね、みんな。私のせいで……」
彼女は小さく呟き、カウンターに手を突いて俯いた。
役人が「さあ、店を空けろ」と命じ、護衛が扉に板を打ち付け始めた。鈍い釘の音が響くたび、リリアナの心が締め付けられた。領民たちは抗議を続けるが、騎士たちの剣に押され、次第に後退していく。ソフィアが「リリアナ様、諦めないで!」と叫ぶが、彼女にはもう立ち上がる力が残っていなかった。
「やっぱり、私には何もできないんだ……」
その思いが頭を支配し、涙がぽろりと床に落ちた。
封鎖が終わり、役人と護衛が馬車に乗り込むと、領民たちは散り散りに去っていった。店先に貼られた「営業停止」の札が風に揺れ、冷たい現実を突きつける。
リリアナは店を閉め、裏庭に一人座り込んだ。夕陽が沈み、薄闇が広がる中、彼女は膝を抱えて泣いた。
「スイーツで人を幸せにしたいなんて、元々無理な夢だったのかな……」
涙が止まらず、エプロンに染みを作った。
その時、森の木々の間から一つの影が動いた。ルカスだ。彼は遠くからリリアナの姿を見つめ、静かに目を細める。
「まだ終わってないよ、君の物語は。ここからさ」
と呟くが、その声は彼女には届かない。裏庭に静寂が満ち、リリアナの嗚咽だけが小さく響いていた。