第二話「不思議だな……」
エルザート家の領地は、王都から馬車で半日ほど離れた森のほとりにある。リリアナが到着した頃にはもうかなり夜も更けていた。
古びた石造りの屋敷は、かつての栄華を偲ばせる装飾が残るものの、苔むした壁やひび割れた窓枠が時の流れを物語っている。
リリアナが馬車から降りると、冷たい夜風がドレスの裾を揺らし、彼女の心をさらに冷たくさせた。
使用人のソフィアが慌てて出迎え、暖炉の火が灯された玄関ホールへと案内するが、リリアナはほとんど言葉を発しなかった。
「リリアナ様、お疲れでしょう。お部屋にお湯を用意しますか?」
ソフィアの優しい声に、リリアナは小さく首を振る。「いいよ。少し……そっとしておいてほしい」その声はかすれ、まるで消えそうなほど弱々しい。ソフィアは心配そうな顔をしたが、それ以上何も言わず、静かに下がった。
リリアナは階段を上り、自室の扉を閉めると、そのままベッドに倒れ込んだ。
水色のドレスがしわになり、花飾りが床に落ちたが、もう拾う気力すらなかった。
それから数日、リリアナは部屋から出なかった。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋で、彼女はただベッドに横たわり、天井の木目を見つめていた。カルディスの言葉が頭の中で何度も繰り返される。
「君には気高さがない」
「魔力が弱く、王子の妃として恥ずかしい」
幼い頃から、貴族の令嬢としてふさわしくあれと育てられた彼女にとって、それは存在そのものを否定される言葉だった。母には「笑顔が素敵ね」と褒められ、父には「努力家だ」と認められてきた。それなのに、すべてが無意味だったのだろうか。
両親は心配してドアを叩き、「何か食べるか?」「話したいことがあれば聞くよ」と声をかけたが、リリアナは「大丈夫だから」と返すだけだった。
本当は大丈夫ではなかった。胸の奥が締め付けられるように痛み、夜になると涙が止まらなかった。
でも、それを誰かに見せるわけにはいかない。泣けば、また「気高さがない」と笑われる気がした。
☆
「……はぁ」
ある夜、眠れずにベッドの上で身を起こした。時計の針は深夜を指し、屋敷はすっかり静まり返っている。
空腹ではないのに、なぜか体が落ち着かず、リリアナはふらりと部屋を出た。
階段を下り、誰もいないキッチンへと向かう。その場所は幼い頃、母と一緒に過ごした思い出がある。
貴族の令嬢が料理をするのは珍しかったが、母は「女の子なら一度は甘いものを作ってみなさい」と笑って教えてくれた。
あの温かい記憶が、今のリリアナを無意識に引き寄せたのかもしれない。
キッチンは簡素で、木製のテーブルと古いオーブンがあるだけだ。棚には小麦粉や砂糖が並び、隅には籠に盛られたレモンが置かれていた。
リリアナはぼんやりとそれを見つめ、無意識に手が伸びる。
何か作りたい。
その衝動は、自分でも驚くほど強く湧き上がってきた。ドレスの袖をまくり、小麦粉の袋を開ける。さらさらと流れる白い粉をボウルに注ぎ、冷たいバターを指で潰して混ぜていく。生地がまとまり始めると、彼女の手つきに少しずつリズムが生まれた。
次にレモンを手に取った。皮をすりおろすと、爽やかな酸味が鼻をくすぐり、果汁を絞ると指先が少し冷たくなる。砂糖を加え、滑らかになるまで混ぜ合わせる。
その単純な作業が、リリアナの心を不思議と落ち着かせた。
頭の中を埋め尽くしていたカルディスの声が、少しずつ遠ざかっていく。
彼女は生地を薄く伸ばし、丸い型に敷き詰め、フォークで小さな穴を開けた。そして、レモンクリームを流し込み、オーブンへ入れる。扉を閉めると、じんわりと温かさが広がり、甘酸っぱい香りがキッチンに満ち始めた。
リリアナはその場に座り込み、オーブンの小さな窓からタルトが焼ける様子を見つめた。生地が黄金色に色づき、クリームがふるふると揺れる。
幼い頃、母と一緒に作った「レモンタルト」を思い出す。あの頃はただ楽しかった。
今は、なぜか涙がこみ上げてくる。
焼き上がりを待つ間、彼女は膝を抱えて呟いた。「こんな私でも、できることがあるよね……?」その言葉は誰に言うでもなく、自分自身に問いかけるようだった。
オーブンの音が鳴り、リリアナはタルトを取り出した。粗熱が取れるのを待ちきれず、一切れを口に運ぶ。
「おいしい……」
サクッとした生地と、甘さと酸味が絶妙に混ざったクリームが舌の上で溶けた瞬間、疲れ切った体がふわりと軽くなった。
胸の痛みが和らぎ、温かいものが心に広がる。「不思議だな……」リリアナは呟き、眠気を感じたのでそのまま部屋に向かった。
テーブルの上には、食べかけのタルトが静かに残されていた。