記憶40:識と真の会話
「薬です」
「ありがとう櫻井さん」
「助かったわ。まさか二人とも置いていったことに気付かないとはね」
「私は寝てたけどね」
「そうだったわね」
「連絡事項は特にありませんので私はこのまま休憩に移らせて頂きます。お二人も食堂でなにか口に入れたらどうですか?」
空腹感はないのだけど昨日の夕飯は食べていないし、今朝も簡単な食事だけで既にお昼過ぎになっているから薬とは別の普通の栄養を取っておいたほうが良いだろう。
母の昨日からの食事走らないがお腹に手を当てて考え込んでいるのを見るに、ろくな食事をしていないかなお腹が空いているのだと思う。
「寮以外のの食堂って職員専用じゃなかったけ?」
「専用はないわよ。食堂は御空学園の職員も訓練生も全員が自由に使えるわ」
「でも他の寮での食事はダメって横瀬さんが言ってたよ」
「他の食堂で食べても罰則がないだけで推奨はされていません。各々自由に食堂で食べたら食材の在庫管理が難しくなりますから、基本的には使用する食堂は決まっています」
「なるほどぉ」
「なるほどねぇ」
「紫さんはともかくとして、識教授は知っていていください」
健康診断のときは研究室か独房かと言えるところに食事を運んでもらっていたから食堂を使っていなかったし、今年に入って訓練生として入学してからは園内をウロチョロすることも少なくなって他の食堂で食べることは思いつかなかった。
食べることは好きだし幾らでも食べられるけど、必要な栄養を取るだけだったら一日一食でも物足りる。血はつながってなくとも少食なのは母も同じで、一日の食事を子供のお菓子のゼリー一本だけを一週間続けても全く平気だった。
流石に食べなさすぎると家では弟の紫や父親から、学園では園原さんや他の研究員からお叱りを受ける。私達も流石に食べなさすぎなのは自覚しているから普段の食事の習慣は崩さないように気をつけて、私は体質故か幾らでも食べられるから食い溜めしている。
食い溜めに効果があるのかは別として、しっかり食事をしないと母子揃って叱られるからいっその事全部管理してもらう案も出たけど、自堕落な生活は駄目だと更に怒られてしまった。
「今日の献立は野菜の盛り合わせと鶏肉の盛り合わせです。野菜の盛り合わせは肉が一切ありませんし鶏肉の盛り合わせは野菜が一切ありません」
「両極端な献立だね」
「私は野菜よ」
「まだ食中毒の余波が残っているんです」
「あぁー。そういえばこの食中毒はテロ組織とは関係ないの?」
「全くないです」
食中毒が起きた原因は食材保管庫の室温湿度の調整機能が壊れて、菌が繁殖しやすい環境になっていたからだそうだ。修理業者に連絡して大急ぎで直しているけど、安全確認やこれを機会に新型の調節機械を取り付けるから工事も並行していて保存できるのはどんなに早くとも明日になるみたいだ。
大量の食材の破棄に加えて学園の外ではテロ組織がジワリと活動を活発化させているから、色々な場所が対応に追われて麻痺してたり他に優先するものがあって保管庫の修理が後回しになったりしている。改修するにしても機材の運搬や人材の派遣はテロ組織のせいでいつもより検査が厳しくて時間がかかっている。
「そのテロ組織の本拠地に軍隊を派遣して壊滅させれば本命、のテロ攻撃もされずに済むんじゃない?」
「そうもいかない事情があるのよ」
「過激な思想を持った民間人が集まった組織なら容易く潰せるんですが、アルトアプテアには他国の職業軍人が貸し出されているんです。その国はアルトアプテアの支援国ですし国際的な立場も確立しているため安易に潰す選択が取れないんです」
「よく国際的な立場が崩れないね」
「思想は危険ですが保有している技術や工業製品の生産は高いですし、政治の仕組みが二つの議会が討論の末に決定するので国全体でアルトアプテアを支援しているわけではないんです」
「政治とかには興味がないなぁ」
「やる気さえあれば紫も政治家になれると思うわよ」
「母もでしょ」
「そうね」
食堂に着いてもすぐにお昼ごはんが出てくるわけじゃないけど、職員は講義や訓練をしている最中だから利用者が少なくて混雑している数十分後よりかは断然早くご飯が食べられる。清掃員や警備員は訓練生の時間割にあまり左右されないから、今この食堂を使っているのは混雑を見越して暇な時間に食べ始めた裏方役の人たちだ。
「鶏肉の盛り合わせをください」
「あらあら子供がこんなところに来るなんてねぇ。ちょっと問題じゃないですか」
「野菜の盛り合わせを頼むわね」
「問題はありません。鶏肉の盛り合わせをお願いします」
「そ、そう?ならササッと用意しますね」
櫻井さんが一番身長が高くて二番手は母で頭が何個分も小さいのが私だ。
教官の櫻井さんと講師の母は同じ職員の人たちも顔を知っているけど、健康診断のときは限られた信用できる人にしか会わなくて訓練生としては内部にあまり関わっていない私の顔は覚えて無くて当然だ。見たことがあったとしても廊下やグラウンドで少し視界に入ったくらいだろう。
その二人が私服の私を連れて歩いていたら何だなんだと気になってしまう。
昨日の朝から着続けて所々にシワがあるとはいえ、明来が選んでくれたカッコイイ服は遊びに来た子供のようで、園舎や訓練場ならまだしも子供が面白がる要素のない建物にいるのは不思議なことなんだと思う。
「野菜貰うよ」
「私は肉はいらないわよ」
「ササミだから太らないよ」
「太る太らないじゃなくて、肉が嫌いなのよ」
「私は野菜が嫌いですね。妹にも野菜をしっかり食べなさいと言われているんですけど、やっぱり苦手で」
「そういえば妹さんは元気かしら。学校には通えているの?」
「はい、おかげさまで今年に義務教育を終えるので、最近は入試勉強を頑張っています」
「あのままだとあなた達姉妹の両方に悪影響だったから改善されてよかったわ」
「何の話?」
「紫を拾う前の、真を拾った時の話よ」
「助けたと言ってくださいよ。本当に感謝しているんですから」
「気になるなぁその話」
「食べながら話しましょうか」
母に保護されて健康診断と名目で御空学園で暮らすことになった時はまだお手伝いさんの役割しか与えられていなかったけど、暮らして一年と半年が過ぎた時に才能を見出されて正式な御空学園の職員になった。
他人への興味が今よりもずっと薄かった頃だから覚えていることは少なくて、きちんと顔を見たのは入学してからだ。その頃は私にとって害があるのか利益になるのかでしか判断していなかったし、その判断も今の私が思い返せば良いものとは言えない。
明来の話もあまり聞いたことがないし、他の友達の過去だってあまり聞かない。興味がないのは変わらず他人に怠惰なのはずっと同じだ。
「私が任意教育学校に通って一年目の時に祖父母が土砂崩れに巻き込まれてたんです。怪我自体は大したものじゃなかったんですが心配だからと、熱を出した妹と休日で看病をしていた私以外の親戚全員でお見舞いに行ったんです。そして突発的な災害で全員が死にました」
「…あっち?」
「あっちですね。そこからは大変で、成人していたとはいえまだ小娘だった私を高い給料で雇ってくれる職場はなくて、バイトを掛け持ちしながらなんとか食いつないでいったんです」
「身体も私達みたいに少食で高効率じゃないから普通の人と同じくらいの食事を食べないといけなかったんだけど、まあほとんど何も食べてないに等しい状態だったから一年くらいで無理が祟って倒れたのよね」
「二年ですが水瀬さんが買い物に来た時に倒れてそのまま病院に運んでもらったんです」
「まだいけます店長って言っていたけど、私と男性の店長を間違える時点で相当意識が朦朧としていたでしょうね。私も医学を学んでいるから過労から来る症状だと分かって、病院で診察中に若い子が何故と思って経歴を調べていたのよ」
「権力を使ってか」
「人名のために仕方のなかったことよ」
「よく使っているくせに」
「そしたら血縁関係を持っている人間が義務教育学校に通ったばかりの妹一人でこれはまずいと思って保護したのよ」
母はよく人を保護する。養子にしてまで守ろうとしたのは私一人で、そこは特別感があって嬉しく思うけど困っている人を見つけたら自分の出来る範囲で守ろうとする。その出来る範囲が大きいから助け方も大胆で中途半端に無責任に助けて終わることにもならないのは美徳だ。
本職は慶雲学園の研究室副長のはずだけど、軍事大臣の父親の権力や生まれてから伸ばしに伸ばした技能と人脈を利用しているせいで本物を見失ってくる。関係性を整理したら納得出来るものだったけど、細かいことを知らなかったら混乱してしまいそうだ。
「水瀬さんに保護されてからは本当に楽になりましたね。バイトを掛け持ちしていた時とほとんど変わらない給料で仕事の時間も仕事の内容もすごく少なかったです」
「御空学園にある部屋は荷物置き場みたいになってて、いつか片付けなきゃと思っていたから丁度良かったのよ。それに慶雲学園の研究室は助手が沢山いるのにこっちでは一人だったから書類の束や機材を運ぶのが大変だったのよ。昔は訓練場でしか魔術の使用が出来なかったからね」
「あまりに簡単だったのでバイトの掛け持ちと同じ給料を貰うのが申し訳なくなって半分返したんです。そしたらあっちが少なすぎるだけでこれが本当の労働に見合った対価って戻されたんです。勉強して分かるようになったら、バイトの給料は少なくて水瀬さんの給料は多すぎでしたね。学園で雇用されてても、されてなくとも」
「されてなかったの?」
「書類に名前を書いたので学園の職員になったかと思っていたんですが、全部水瀬さんが作った偽物でお給料も自費で渡していたんです。嬉しかったですねぇ」
書類が本物だとしても学長に提出しなければ本物の職員と認められない。学長じゃなくて人事部に提出するのかもしれないけど、そこは気にしても変わらないので考えない。
仮にも軍事学園のトップだから雇用条件は街中のバイトとは比べ物にならないくらい厳しい。義務療育を終えただけの小娘では簡単な清掃作業にさえ携われないくらいだ。
だから母は正規の手段で雇用するのは難しいし押し通しても給料や仕事量が厳しくなると判断したから、偽物の書類で就職させた気にして自費で給料を払う手段を取ったんだと思う。櫻井さんが母のことを尊敬するのもすんなり納得できる。
「また体調を崩さないか様子見の面もあったけど、想像以上に仕事ができたから慶雲学園の方も手伝いに行かせたのよ。なにせ二日で部屋とその建物の構造と物の配置を覚えたんだもの、優秀な人材は無理をさせないように働かせないとだからね」
「慶雲学園では研究生たちがある程度片付けをしていたので、御空学園にある水瀬さんの部屋よりかは楽でしたよ。それでも本文が研究だからか文句の付け所はありましたけど」
「お手伝いをしてたなら、どんな経緯で職員になったの?」
「それは慶雲学園と提携している研究所の一つの臨床実験に私が選ばれたからです。推薦したのは水瀬さんの旦那さんの凪さんで、今や私のトレードマークになっている銃型の魔導箱の初実験です」
「名称は魔弾発射装置じゃないんですか」
「ダサいので」
「そうですか」
「まあともかくとして私が被検体になって魔導箱の実験を始めたんですが、私の能力が特殊だったせいで正しいデータが取れなくなったので別の人に代わったんです。その後に水瀬さんが学長に相談して正式に御空学園の職員にしてくれたんです」
「んー、特別な能力って?」
「魔術の並列起動よ。紫とは別種の並列起動の方法だから改造をされているわけじゃないわ。私は脳の処理能力が常人より高いと思っていただけなのだけど、凪は魔術の並列起動ができることに気が付いて道を広げるために推薦したらしいわ」
「それが私が健康診断を初めて一年の時か」
「軍人の教育を受けていないから訓練生と一緒に学ぶことになったのよ」
「自分で選んだ職業じゃありませんけど、自分が幸せだと思える職業なので満足しています。だから、紫さんも諦めないでくださいね」
「…分かりました」
オーストリア・ハンガリー二重帝国
みんらい
おばちゃん
kani