第93話 バグは扉を叩く
風が、枝葉を揺らしていた。
あの呟き――「অন্ধকারে ডুবে থাকা, অদৃশ্য」――その意味はわからなかったが、声の余韻は耳の奥に残っていた。私が目を向けた先には、ただ“唸る男”が立っていた。
何も言わない。ただこちらを見ている。
けれど、その眼差しは、さっきまでの“敵”のような荒々しい眼差しではなかった。
ダチュラの肩にかけられた男の腕は、意外なほど自然だった。彼女は驚いてはいない。むしろ、頼るように、その腕に身を預けている。
「……あんた、ホント何者なんだよ」
その半分呆れのような問いかけは風に流されて消えた。
“唸る男”は何も言わないまま、ゆっくりと背を向け、森の奥を指し示した。
ダチュラの手が、私の袖を引いた。
「……帰ろう、カルロのことは絶対に何とかする。まずは、家に。少し、休みたい……」
ダチュラは頷き、三人で歩き出した。
月明かりの下、森を抜けていく。風が冷たい。だが、不思議と孤独ではなかった。
先ほどの開けた野原とは異なり、中世ヨーロッパ風の建物が立ち並ぶ見慣れた街並みへと変わっていた。
中は、想像よりも整っていた。本棚、薬棚、乾いた布団。壁際に吊された乾燥したハーブの束が、微かに香る。
やっぱり、何故だろう。
ここに来るのは、大して多くないのに、やっぱりどこか懐かしい。
“唸る男”は無言のまま、ダチュラを近くのベットに寝かせ、火鉢に火を入れた。
ぱちり、と薪が弾けた。
赤く染まる部屋の片隅で、私は彼の背を見つめていた。
彼は何者なのか。なぜ、私たちを助けたのか。
言葉はない。
けれど、確かに今――私たちは、生きている。
そしてこの夜の静寂が、全てを覆い隠すように、ゆっくりと降り積もっていった。
そして、階段から物音が響いてくる。
その音の正体を私は知っている。




