第91話 怪物
“唸る男”が、二歩目を踏み出した。
足音はない。なのに、大地がひび割れる。空気がきしむ。音のない地鳴りが、肺の奥を震わせた。
アザミは、咄嗟に短剣を抜いた。だがその手は震えていた。
その刃が、紙のように脆いものに思えた。武器を持っていても、自分が“裸”であることを――身体が、心の奥から理解していた。
「……戦うの?」
背後から、ダチュラの震える声が落ちてきた。
泣きそうなその声に、アザミは答えられなかった。ただ、少女を庇うように一歩、前へ出る。
その時だった。
ダチュラの小さな手が、アザミの服の裾をぎゅっと掴んだ。指先に力が入っている。彼女の震えが、そのままアザミの背中に伝わってきた。
まるで、ひとりにしないでとでも言うように。
その圧に、アザミは微かに奥歯を噛んだ。
一方でエーデルはというと、まるで“敵が来た”ということすら退屈そうに受け止め、手袋を外していた。
白い指先が、月明かりもない夜に静かに浮かび上がる。
「いいかい、アザミ。こいつは“戦う相手”じゃない」
「……は?」
「こいつは、“間違えた存在”だ。生まれも、立場も、名前すら……どこかで手違いがあって、この世界に紛れ込んだバグのようなものだ。存在してはいけない“何か”だよ。まるで、世界が何らかの意思を持って生んだ怪物そのものさ」
その瞬間だった。
“唸る男”が、手を伸ばした。
速さはなかった。ただそこに、明確な“意志”があった。
アザミの手を、掴む。
そして――唸る。
「সুন্দরভাবে লম্বা」
耳の奥で、金属をねじ切るような音が響いた。
理解不能な言語。言葉の“形”はあるのに、意味だけが世界から剥ぎ取られているようだった。
アザミの目が見開かれる。
――何を、言った?
わからない。けれど、その声を聞いた瞬間、自分の“名前”がどこかへすり落ちていくような錯覚に陥った。
重力が狂った。時間の縫い目が裂けていくような、どうしようもない違和感。
「――っ!」
アザミは本能的に手を引いた。熱い。触れられた箇所から、皮膚ではなく“記憶”が焼かれていくような感触があった。
「やめろ!」
エーデルが声を上げる。珍しく、怒気をはらんだ叫びだった。
しかし、その瞬間、疾風のように速くその男は動いた。




