第88話 灰の夜に歩む
雨はとうに止んでいた。だが、空にはまだ重たい雲が垂れ込めていた。
月の光さえ届かない灰色の夜。ぬかるんだ地面を踏みしめながら、二人の影がひっそりと佇んでいる。
場所は、旧市街の裏路地。
かつて貴族たちが秘密裏に使っていたという、忘れ去られた地下通路の入り口。
湿った石造りのアーチの下、微かな焚き火の灯りが、冷たい空気をかすかに照らしていた。
アザミと――ダチュラ。
アザミは膝をつき、静かに布を絞る。濡れた冷水を吸った布が、しっとりと彼女の手を濡らした。
それを、ぐったりと横たわるカルロの額にそっと当てる。
彼の呼吸は浅く、かすかな呻きが喉の奥から漏れるたびに、アザミの心が締めつけられる。
「……大丈夫、私がついてる」
そう呟いても、それで何かが変わるわけじゃない。ただ、自分に言い聞かせるように。
傍らでは、ダチュラが不安げに膝を抱えていた。
その目は揺れ、今にも涙がこぼれそうだった。
今のダチュラは、何故か記憶を無くしてしまっている。前の世界では、何かのきっかけで、戻ることもあるって言っていたけど、その前に、何故彼女は、生きている?
確実に、心臓を刺されていた。
いや、それよりもまずは、カルロを助けることが大切だと自戒する。
けれど、ただ一つだけ確信がある。
――アザミとカルロは、大切な人。
「ごめん、私……何もできなくて」
「いいの。今はそれで」
アザミは小さく微笑んだ。優しく、けれど痛々しい笑みだった。
カルロの傷は深い。能力を無理に使った代償も重い。このままでは、夜を越えられないかもしれない。
「アザミ……あの子、本当にカルロのこと、助けられるのかな……?」
その問いに、アザミは答えなかった。
ただ、カルロの荒い呼吸を聞きながら、唇を噛みしめる。
――その時だった。
焚き火の炎が、ふっと揺らいだ。
風はない。にもかかわらず、影が静かに歪んでいく。少しの足音が響く。
空気が確実に変わった。
「誰かが言った。この世には運命がある、と。そして、それから逃げることは絶対にできないと」
足音とその美しいような哀しいような声は、尚多く響いた。
どこからともなく響いたその声に、アザミの目が見開かれた。その声に、憶えがあったからだ。
焚き火の奥、暗がりの中から、一人の影が静かに歩み出てくる。
「……なんで……」
「君は、運命を信じるかい?」
その姿を見て、アザミはすぐに名を呼んだ。
彼はただ笑っていた。
「なんで……ここにいる!!
エーデル――!!」
影が焔に照らされ、ようやくその顔が露わになる。
白銀の髪が月もない夜に白く浮かび、少年のような柔らかさを帯びた顔立ちには、どこか人を惹きつける奇妙な静けさがあった。
名を、エーデルという。
そして今、その存在は、この夜の静寂を一瞬で凍りつかせた。




