第81話 走れ
カルロの呼吸は浅く、喉の奥でひゅう、と小さく空気をかすめた。
アザミは震える手で彼の額に触れ、唇を噛む。
熱い。脈が早い。――このままじゃ、もたない。
彼をここまで連れてきた意味が、失われてしまう。
全てが、無駄になる。そんな言葉が、頭の奥で響いた。
だが、ふと視線を上げた先に――彼女がいた。
カルロを抱きかかえたまま、ダチュラは黙ってこちらを見ていた。感情の読めない瞳。けれど、その手だけは、揺るがずに温もりを与えている。
「……お願い。助けないと......」
アザミは、絞り出すように言った。
彼女は記憶を失っている。あの頃のすべてを、忘れてしまっている。
でも、それでも。
この人は、誰かを守るために動ける人だった。だからこそ、信じたかった。
「カルロは……あんたが知らないかもしれない“私たち”の仲間よ。
今、死にかけてる。だから、お願い……!」
沈黙が落ちた。
風が瓦礫を鳴らし、どこか遠くで鉄骨がきしむ音がした。
その中で、ダチュラは静かに目を伏せた。
「分かった」
「……本当に?」
「あなたのことは分からないけど、カルロのことは知っている」
その言葉は、まるで自分に言い聞かせるようでもあった。
記憶のない彼女が、それでもどこかで迷っている。選ぶことを、恐れながらも踏み出そうとしている。
アザミは、かすかに目を見開いた。そして、こくりと頷いた。
「……一人、当てがある。カルロを救える可能性がある人。
遠いけど、今から向かえば……間に合うかもしれない」
「なら、行ごう」
ダチュラは立ち上がり、カルロを背負い直す。迷いのない動作だった。
アザミは彼女の横に並び、走り出す準備をする。
あの頃と同じ並び方だった。
違うのは、ただ――記憶が、彼女にないということ。
けれど、再び交差したこの運命が、何かを変えると信じて。
瓦礫の街に、足音が鳴り響く。
遠く、夜が明け始めていた。




