第80話 再開
瓦礫の影が揺れた。
風の音と、アザミの鼓動だけが響いていた。
ダチュラは動かない。ただ、そこに立っている。
アザミは息を詰め、足を一歩――踏み出しかけて、止まった。
胸の奥がざわつく。懐かしさでも、安堵でもない。言葉にできない何か。喉元までこみ上げてきた問いが、どうしても口に出せなかった。
やがて、静かに。
「……あなた、誰?」
ダチュラが、そう言った。
その声に、アザミの身体が凍りつく。
低く、落ち着いた声。確かに、あの頃と同じ音色だった。けれど――その目に、微塵も“知っている”色はなかった。
「……え?」
思わず、声が漏れた。カルロの身体が背中でわずかに揺れる。
ダチュラは、顔を僅かに傾けた。
その仕草も、かつての彼女と変わらない。だが、そこにあるのは空白だった。
「私の名前……
それ、今、初めて聞いた気がする」
アザミは口元を引き結んだ。視界の端が歪んでいく。
あらゆる感情が喉に詰まり、言葉にできない。
(忘れてる……?)
確かにそこにいるのに。確かに、彼女なのに。
目の前のダチュラは、自分を知らない。記憶を、全て喪っている。
「あなた、本当に……“ダチュラ”な、の……?」
「それが、私の名前なら……そう、なんでしょうね」
ひどく他人事のように、彼女は言う。
まるで自分という存在すら、どこか遠くの出来事のように。
その時、アザミの中に、怒りとも悲しみともつかない感情が渦を巻いた。喉元まで届いていた何かが、破裂するように溢れ出す。
「ふざけないでよ!」
叫んだ瞬間、喉が焼けるように痛んだ。
驚いたように、ダチュラの目がわずかに見開かれる。
「私たちは……あなたのために……!」
でもその先は、続かなかった。
崩れ落ちるように、アザミは膝をついた。背中のカルロがずるりと滑り落ち、地面に倒れた。
「――ッ!」
慌てて体を支えようとしたその瞬間、ダチュラが動いた。
速かった。かつての彼女と同じ、隙のない動き。
カルロの身体が落ちる直前、その腕が彼を抱きとめていた。
「……!」
目の前に、ほんの一瞬、昔の彼女が重なった。
冷たく、鋭く、けれど誰よりも強く――誰かを守ろうとする、その姿が。
アザミは、放心したようにその光景を見つめた。
そして、その時気づいた。
たとえ記憶がなくても、彼女の“核”は――まだ、そこにあるのかもしれないと。
静かに風が吹く。夜の闇が、二人と一人を包むように揺れる。
始まりは、ここからだった。
記憶を喪った“ダチュラ”と、彼女を知るアザミ。
その間に横たわる、埋めがたい断絶。
けれど、運命はまた、彼女たちを引き合わせた。
――死んだはずのダチュラが、生きている。
それだけでも、この世界は、まだ終わっていない。




