第79話
風が吹いていた。乾いた、夜の風だ。
アザミはカルロを背負い、無人の街を歩き続けていた。街の明かりは既に途絶えて久しく、瓦礫と影しかない。かつて人が生きていた証は、崩れた壁と、ひび割れたアスファルトにしか残されていない。
足取りは重く、意識も朦朧としかけていた。
(……もう少し、だけ……)
カルロの命が繋がっている。その事実だけが、彼女を前に進ませていた。止まったら終わる。思考を止めたら、自分まで崩れ落ちてしまう気がした。
だが、限界は近い。身体が鉛のように重く、視界は滲み、呼吸は浅くなる。鼓動だけが、耳の奥で不規則に鳴り続けていた。
次の角を曲がった瞬間、膝が崩れた。
アザミは片膝をつき、肩で息をした。背中のカルロの重みがのしかかる。痛みも寒さも、既に感覚ではなくなっていた。
――が、そこで。
「……!」
遠くに、誰かの気配があった。
風に乗って、微かに香る。どこか甘く、どこか危うい匂い。まるで、花の毒のような。意識を刺すような、その気配は、ただの通行人などではないと、本能が告げていた。
アザミは顔を上げた。
瓦礫の向こう、壊れた電灯の下に――女が立っていた。
黒いフードを目深にかぶり、顔の半分は影に隠れている。夜の闇に溶けるような静けさ。その立ち姿には、ただならぬ“意志”が宿っていた。そこにいることを選び、そこに立つことに意味がある者の、揺るがぬ気配。
アザミは息を呑む。心臓が脈打ち、寒気が背筋を走った。
――見間違いじゃない。直感が、確信へと変わる。
「……ダチュラ……?」
声が漏れた瞬間、女の目が細められた。わずかに唇が動いた気がしたが、何も聞こえない。沈黙だけが、二人の間を満たす。
だが、その瞳は確かに――
かつてアザミが見た“彼女”と同じものだった。
冷たく、深く、それでいて何かを見透かすような。運命の底を覗いてきた者だけが持つ、恐ろしく澄んだ目。
死んだはずの“彼女”が、目の前にいた。
現実感が追いつかない。夢の中のような錯覚。それでも確かに、そこに――ダチュラが、立っていた。
薄闇の中、その姿は幻ではないと、何かが叫んでいた。
アザミの手が、わずかに震えた。
(本当に……生きてたんだ……)
胸の奥から、こみ上げてくる感情に蓋をしながら、アザミは立ち上がった。
それは、再会ではなかった。
始まりだった。




