第7話 名もなき部屋にて
彼――イグニスの一日は、うざったいほどに周りの騒音から始まる。
理由は単純明快だった。
彼には、3つになる弟、5つになる弟、8才になる妹、11になる妹がいた。
朝から部屋の外では、弟たちの泣き声、妹たちの言い争い、母のたしなめる声が響き渡る。
けれど、イグニスはそれを煩わしいとか苦しいとは思っていなかった。
むしろ、それこそが彼の“日常”だった。
眠気まなこを擦りながらも、彼は布団から這い出す。家族の声が満ちる家の中は、狭くて古びてはいたが、イグニスにとっては世界で一番温かな場所だった。
そんな目まぐるしい日々を、彼は懸命に幸せに生きていた。
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王宮の地下。
そこには、名もない一室がある。それを知るものは数少ない。知る者は、両手で数え切れるほどに。
何故、名前が無いのか。理由は単純だ。名付ける必要がなかった。
その存在を知る者は少なく、知ってはならない者ばかりだったからだ。
冷たい石壁に囲まれた階段を、一歩ずつ下りる足音が響く。
リズムを刻むように、淡々と。
やがて、その音は扉の前で止まる。
部屋の中には、何もなかった。
家具も装飾もなく、灰色が一面に広がる、悲哀に満ちた世界。
そこには、ただ静寂だけがあった。
だが、その寂寥を打ち消すように――天使と見紛うほどに可憐で美しい少女がそこにはいた。
透き通るような白い肌。
光を受けて揺れる、柔らかな金色がかった髪。
伏せられたまつげの先に、微かな影が落ちる。
名を、セリーヌという。
そして、イグニスは――静かに、その扉を押し開けた。
──静寂の中に、足音が溶けていく。
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彼女は静かに書を見つめていた。
書とは知の結晶であり、それを守ることは、この国で三指に入る英雄 "三光"で知を司っているマールの使命だった。本来、この古びた革表紙の書は、マールの館でしか目にすることのできない貴重な一冊のはずだった。
「よぉ、お疲れ」
イグニスがそう言い、部屋に入ると、セリーヌは微笑んだ。
「あら、イグ。こんにちは」
「おう。また書を観てるのかよ」
「ふふふ。観てるんじゃないわ。読んでいるのよ」
読んでいる――?
言葉の意味は分かるが、どうにも腑に落ちない。
観るのと同じことじゃないのか?
……まぁ、どうでもいいや。
それより、今回の作戦の話だ。
「それはそうと、“荒地の魔女”についてどう思う?」
「奇遇ね、ちょうどそのことについて書かれた書を読んでいたわ」
「成程な。それでマールさんが貸してくれたのか」
「えぇ。まぁ、彼とは友人だから。頼めば貸してくれるけどね」
「へぇ、そいつはすげぇな」
それで、見解は?
「そうね……正直、死んだという確証はないわ」
「やっぱりか」
「というか、“勇者”がまだ見つかってもいないのに、どうして死ぬのよ? それに、彼女には弟子だっていたし.....何より魔王候補だった筈でしょ?」
セリーヌは言葉を続けるのをやめ、イグニスに視線を向けた。
「さぁな」
「“王”は一体、何を考えているのかしら……」
「まぁ、行くしかねぇだろ。その"王"の命令なんだ。準備はできてるよな?」
「...えぇ。もちろんよ」
セリーヌは静かに書を閉じ、立ち上がった。
イグニスもまた、ゆっくりと歩を進めた。




