第63話 欠けた名
フィンは、静かに息を吐いた。
マールの語る“其れ”の存在――それは、彼が薄々感づいていたものと、驚くほど一致していた。
「……その者の居場所は、わかりますか?」
問いかけに、マールはしばし沈黙した。霧色の瞳が、机上の茶の表面をじっと見つめる。
「正確には、わからない。だが……“痕跡”は確かに残っている」
そう言ってマールは机の引き出しから、一冊の黒革の手帳を取り出した。それは、図書館のどの書架にも見当たらない――つまり、彼が個人的に綴っていた記録だった。
「これは、私が“其れ”に関わる異常現象を記録してきた手帳だ」
彼はページをめくり、ある一項を指し示す。
「数日前、〈三光の道場〉が全焼した。
師範である三光は死亡。門弟も半分以上が..…生き残っていない」
静まり返った室内に、重い空気が立ちこめる。
フィンの眉がわずかに動いた。
「あの……道場が?」
「そう。しかも――原因は、内部からの放火だ。師範は眠っていた。逃げる間もなく焼かれたと見られている」
マールは静かに目を伏せたが、語る声に迷いはなかった。
「そうですか.....」
マールは、だが、と続けた。
「それは、あくまで世間の考えにすぎない」
「というと?」
「話す順番を間違ったね、順を追うとしよう」
「外部の侵入者の痕跡は見当たらなかった。“弟子の手によるもの”だと推定されている。だが、奇妙な点がある。遺体の状態が、燃死ではなく、斬殺されていたことだ」
ざわり、と空気が震える。
フィンは短く息を吸い、問いを投げる。
「“其れ”が、真正面での闘いで彼に勝ったということですか?」
「まず、間違いないだろう。
“三光の剣豪”は、この国でも最も優れた技を持つ者の一人だった。私の記録でも、最も“其れ”に狙われやすい“才能”だ」
マールは、壁一面に掛けられた無数の時計を一瞥した。
「……つまり」
フィンはゆっくり言葉を紡ぐ。
「“其れ”が、国最強の能力者を殺した、と」
「おそらく、そうだろう」
マールの指が、机の表面を軽く叩く。コツ、コツと、時計のように。
「次に狙われるのは、君かもしれないよ、フィン君。君ほど“強く、迷わぬ目”を持つ者は、そういない」
フィンは、その視線を真正面から受け止める。恐れはなかった。
「ご冗談を。私の能力をあなたも知っているでしょう?」
マールは、瞬きすらもせず、フィンをみつめた。
「ですが、狙われるというなら―― “其れ”を倒すしかない」
マールはわずかに微笑した。
「よかろう。“其れ”は、国すらも滅亡させる力を得ているかもしれない」
「.....そうですね」
フィンは、顔色を最後まで変えることはなかった。




