第62話 霧の図書館と其れの名
「其れは、ある静寂な村に生まれた」
その言葉とともに、マールの視線が虚空を見つめる。まるで、記憶の深層を辿るように。
「――村の名は、カノエ。今はもう、地図から消えてしまったがね」
誰かが息を呑む音がした。フィンもまた、心のどこかがざわつくのを感じていた。カノエ。聞いたことのない村の名だ。しかし、マールの声には確かに“失われた事実”の重みがあった。
「其れは、人の姿で生まれたが、人ではなかった。知性と意志を持ちすぎていた。
赤子の頃より、予言めいた言葉を発し、死者の声を聞いたとも言われている」
フィンは眉を寄せた。
「……まるで“神”のようですね」
「いいや、“神”と呼ぶには不安定すぎた。むしろ――何かが“欠落”していたのだ。心のどこかが」
その言葉に、フィンの背筋が粟立つ。マールは続けた。
「其れが十四歳になった頃、村は跡形もなく消えた。原因はわからない。ただ、其れだけが生き残っていた」
マールは手にしていた書物をぱたりと閉じる。その音が、まるで鎮魂の鐘のように響いた。
「“其れ”は今、名前を持っている。あるいは、名を持たないという噂もある。
だが、確かに言えるのは――“其れ”が、国を襲った張本人だということだよ、フィン君」
「……!」
言葉を失ったフィンの胸中に、寒気のような確信が走る。それは、彼がこの地に来た真の理由を――否、“確かめねばならない恐れ”を突きつけてきたのだった。




