特別挿話:老師の夜
夜の道場には、虫の声と畳を軋ませる風の音だけが満ちていた。
老師は薄い布団にくるまりながら、仰向けで天井を見上げていた。年齢のせいで眠りは浅く、月の光さえ煩わしく感じる。だが、今日の稽古を思い返していたせいで、特に寝つきが悪かった。
「レイス……」
あの弟子の名を口の中で転がすように呟いた。
あれほどの剣士は、百年に一人だ。おそらく、いや間違いなく、自分を超える存在になるだろう。
ただ、“受け”と“精神”がまだ甘い。
攻めることに特化しすぎている。その危うさを、今のうちに矯正してやらねば――そう思いながら、いつのまにかまどろんでいた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
不意に、畳の軋む音で目を覚ました。
老師は目を開けると、障子の向こうに人の気配を感じた。ふわりと漂う、焦げた匂い。そして――火の灯りが、障子の隙間から差し込んでいた。
「……ん?」
身体を起こそうとしたそのとき、ふすまが開いた。
立っていたのは――弟子だった。一人の弟子だ。レイスと同じ時期に入門した、あの整った顔の男。夜にも関わらず、白い道着をきちんと着て、表情を浮かべずに立っている。
「……こんな夜更けに、何用じゃ?」
老師が問いかけても、男は黙っていた。代わりに、ほんの一瞬、口元を歪めて――微笑んだ。
不気味な笑みだった。
そして、背後に見えたのは――炎。
「……まさか」
立ち上がろうとするも、布団の下に仕掛けられていた細工が作動したのか、爆ぜるような音とともに煙が立ち込める。喉が焼け、視界がぼやける。
「……貴様……ッ!」
しかし、刀で、視界にある炎を振り解いた。
「……おぬし……何故じゃ……!」
返答はなかった。
眼前には、一人の弟子が一本の刀を持っていた。
かつて無敗を誇った剣士は、彼を"敵"と認識しざるおえなかった。
「レイス……」
その名を最後に呼んだとき――
老師は、ふと笑った。
あの弟子が、己を超えようとしていること。いや、すでに超えていることを。
ならば――この命も、もはや惜しくはないのかもしれぬ。
だが――まだ導くべき存在がいる。
「全身全霊で、わしを超えにこい!!」
「ふっ」
其れは、ただ笑っていた。




