第57話 刃の手前
——殺すのか。
ナイフを握る手に、汗が滲む。目の前には、タイトがいる。“裏切り者”だと告げられた男。私たちの情報を敵に流し、ダチュラを裏切ったとされる男。
——それなら、私は。
「……殺せよ」
タイトが静かに言った。鋭い眼光は、私を睨みつけて離さない。
「お前が俺を殺して、エーデルに報告する。それで、話は終わる」
彼の目には、いかなる迷いもなかった。「それでいいだろ」
私は——。
ナイフを振り上げる。タイトは動かない。ただ、じっと私を見つめている。私は、その瞳から目をそらせなかった。
「……何か、言い残すことは?」
震える声で問いかける。タイトは、ふっと笑った。
「特にないな」
短い沈黙。
「……お前が生き残れ、アザミ」
その言葉を聞いた瞬間——私は、躊躇いなくナイフを突き出した。
——しかし。
刃がタイトの首元に届く寸前、私は手を止めた。
「……なぜ」
タイトが困惑したように眉を寄せる。「なぜ、止めた?」
——それは、私が知りたかった。
なぜ、私はタイトを殺せなかったのか。殺さなければならない。エーデルに従うと決めたのだから。それなのに——。
私は、心の奥から湧き上がる声を、どうしても無視できなかった。
——タイトは、本当に裏切り者なのか?
エーデルがそう言ったから? それだけで、私はタイトを殺そうとしたのか?
「……ふざけるなよ」
タイトが低く呟いた。
「ここまで来て、何もせずに帰る気か?」
彼の目が、苛立ちと怒りに染まっていく。
「お前はもう、覚悟を決めたんじゃないのか?」
——違う。
「“欠落者”を殺すってのが、そんなに簡単なことだと思ってんのか?」
私は、気づけばナイフを手放していた。刃が、乾いた音を立てて地面に転がる。
「……エーデルの言葉が、すべてじゃない」
タイトが本当に裏切ったのか——。私は、それを自分の目で確かめる必要がある。
「タイト……別に、私はあなたをどうこうしたい訳じゃない。ただ.....ダチュラが好きだっただけなの」
彼は、まっすぐに私を見つめた。
そして、はぁというため息と共にぽつりと呟く。
「分かったよ……俺は、“裏切り者”じゃない」
彼の鋭い眼光は、ようやく私を“見つけて”いた。




