第55話 依頼
訓練の日々が目まぐるしく続いて、あっという間に二週間が経った。
最初の頃は、筋肉痛でベッドから起き上がるのさえ苦痛だったのに、今ではもうそれすら日常になっている。筋肉は、前の世界の人に比べたらだいぶついた方だろう。でも、この世界の人たちは、生まれたときから身体を鍛えて生きているような存在ばかりで、彼らの中に混じると、私はせいぜい“普通”に見える程度だった。
朝と昼は訓練。剣、体術、そして座学。
初めは、訓練だけするのかと思っていたが、座学も結構やる。前の世界でも、勉強は得意な方だった。主に、座学では、この世界の文化やマナーなど色々な知識を教わっている。
どれも手を抜けない。夜は部屋で反省会をして、一日の成果を確認する。そんな生活にも、ようやく身体が馴染んできた。気づけば、心のどこかで“日常”として受け入れ始めている自分がいた。
その日も訓練が終わり、シャワーを浴びて部屋へ戻ろうとしたときだった。
部屋の扉を開けると、先に戻っていたディルクが私を待っていた。彼は無言で、小さな封筒を手渡してきた。封はされておらず、中には簡素なメモ用紙が一枚、たったそれだけ。
「……ありがとう」
受け取ると、彼は頷きだけを返して部屋を出ていった。気づけば彼の後ろ姿を見送っていた。妙に無口だった。
私は封筒を机の上に置いて、まだ湿った髪をタオルで拭きながら、廊下に出た。
だが、すぐに足が止まる。
誰かが階段の脇に腰掛けていた。静まり返った夜の空気の中、白い髪が月明かりに照らされて鈍く光っている。黒い上着の襟を立て、整った顔立ちに影が落ちていた。そこにいるだけで、空気が張り詰めたようになる。
――エーデルだった。
彼は、私の存在にすぐ気づいたらしい。目が合うと、緩やかに立ち上がり、歩み寄ってきた。
「夜分遅くに失礼します」
低く、静かな声。けれど、その言葉の端々には、否応なしに従わせるような、見えない重圧が潜んでいる。
「……なによ」
なるべく平静を装って返す。けれど、自分の声が少しだけ震えていた。
「あなたに少し、話がありましてね」
そのとき私は、すでに覚悟していたのかもしれない。そうでなければ、彼の後について歩こうとはしなかっただろう。
彼は、廊下の端――誰も近寄らないような、小さな物置部屋の前で立ち止まった。静かに扉を開け、中に入るよう促す。私は何も言わず、その指示に従った。
古びた机と、椅子がひとつ。小さなランプだけが、ぼんやりと室内を照らしている。外の音も届かないような場所だった。
エーデルは、ゆっくりと扉を閉めた。鍵をかける音が、やけに大きく響く。
「“殺し”の対象が決まりました。好きな方法で殺して下さい」
その言葉は、あまりにもあっさりとしていた。まるで、明日の予定を伝えるように。
私は、彼の目を見た。鋭いけれど、どこまでも冷静で、迷いがない。
そして――私は覚悟した。
人間じゃなくなる覚悟を。
「……それは、誰?」
唇が、乾いていた。けれど、はっきりと問い返す。
エーデルは、ほんのわずかに表情を動かした。静かな、けれど確かな怒りを含んだ目で、私に告げる。
「我々の陣営の裏切り者です」
その瞬間、部屋の中の空気が変わった気がした。寒気が背を這い、心が何かに囚われていく――そんな感覚だった。




