第32話 水と焔
水が、静かに蠢いていた。
セリーヌの足元で広がる黒い水面――
底の見えない水の墓穴。
彼女の意志ひとつで、獲物を沈め、二度と浮かび上がらせることはない。
「ねぇ、カルロ。もう限界でしょ?」
彼女は微笑む。
その背後では、水の刃が幾重にも形を変え、逃げ道を塞いでいた。
「おめぇも……もうさほど動けないだろ?」
カルロは歯を食いしばる。
転移の力があれば、一瞬でここから逃げられるはずだった。
だが――体力が尽きた今、それは叶わない。
「……クッ...ソが……」
片膝をついたまま、荒い息を吐くカルロ。
アザミも肩の傷から血を流しながら、じりじりと後退する。
「じゃあ……そろそろ、おしまい」
セリーヌが指を軽く振る。
水が牙を剥く――その瞬間。
轟音とともに、赤い閃光が駆けた。
ドンッ!!
水の壁が弾け、衝撃波が吹き荒れる。
「──!」
セリーヌはすぐさま後退し、水を纏って身を守る。
飛び散った水滴が熱に炙られ、微かに焦げた匂いが漂った。
「派手にやってるじゃねぇか」
闇の向こうから、容姿の整った少年が姿を現す。
私と、年はあまり変わらないだろう。
しかし、自身に満ち溢れている。
変わった髪色がいたずらにふらふらと、漂っている。
拳が微かに赤く燃え、熱気を帯びている。
「イグ……」
セリーヌが呟く。
イグニスはちらりと彼らを見やり、セリーヌに向き直った。
「悪いけど、そいつらは殺させねぇよ」
セリーヌは微笑んだまま、カイの炎を見つめる。
「へぇ……イグニスが助けに来るなんて、意外。どうして? 彼らが王宮に火を付けたんだよ?」
イグニスは肩をすくめた。
「別に助けに来たわけじゃねぇよ。ただ──」
彼は拳を構える。
「……誰かが死ぬのが気に食わねぇだけだ」
その瞬間、セリーヌの水が再び蠢いた。
イグニスの前に、鋭利な水の槍が飛び出す。
「邪魔するなら、拘束させてもらうよ?」
だが――
バシュッ!
カイの拳が炸裂し、槍ごと水を蒸発させた。
「……っ!」
セリーヌが初めて、わずかに目を見開く。
焔闘者──イグニスの能力。
彼の拳はただの炎ではない。
触れるものすべてを焼き尽くす、戦場の灼熱。
「水は確かにどこにでもある……でもな」
カイが一歩踏み込む。
「俺の炎が届けば、ただの蒸気だ」
彼の足元に火花が散る。
セリーヌは薄く微笑んだまま、静かに溜息を吐く。
「はぁ.....分かったわよ。拘束でいいわ」
「本当か!!」
イグニスが、さも嬉しそうに言う。
「──じゃあ、捕まえてくれ」
その瞬間、──私たちは拘束されていた。
「っ……!!」
カルロの両手両足を絡め取る、無数の水の鎖。
柔らかいようで、硬い。いや、掴めない。
アザミもまた、動きを封じられていた。
「もう終わってるよ」
セリーヌが囁く。
「さて……そろそろ、連れて行くね」
「....おう。俺もすぐ行くわ」
セリーヌの足元の水が、深く沈んでいく。
その中に、カルロとアザミが引きずり込まれていく。
残されたのは、静寂と、焦げた空気だけだった。




