第172話 練習
「よし、喋る練習しよっか」
軽く口角を上げてみせたが、それは作り笑いだった。
胸の奥のざらつきを隠すための、ぎこちない仮面にすぎない。
レンはきょとんとしたまま、瞬きもしない。
時間が止まったような沈黙。
やがて、まぶたがゆっくりと震え、半ば重さに負けるように持ち上がった。
淡い光が瞳に差し込み、その奥で焦点が泳ぐ。
「蓮くん、わかる?
私だよ」
声を柔らかく落としても、返ってくるのは呼吸の音だけ。
それでも、かすかに唇が揺れた。
アザミは息を呑む。
喉の奥から、微かな音が零れたのだ。
「……あ……」
それは言葉というには頼りなく、今にも崩れてしまいそうな一音。
けれど、その小さな音が、この部屋の空気を変えた。
「ッ.....! もう一回、言ってみて?」
身を屈め、耳を近づける。
レンの額には薄い汗が滲み、前髪が肌に貼り付いている。
その表情は、痛みに耐える者のようでもあり、必死に何かを伝えようとする者のようでもあった。
「……ざ……」
胸がきゅっと縮む。
——名前を呼んだ。
その確信が、息を震わせた。
「……うん、それで合ってる」
できるだけ平静を装ったつもりだったが、声は僅かに掠れていた。
レンは再び黙った。
けれど、ほんの刹那だけこちらを向いたその瞳は、確かに生の光を帯びていた。
「次は……もっと長く言ってみようか」
そう言って、アザミはそっと彼の手を包み込む。
骨ばった冷たい指先が、かすかに動く。
そのわずかな動きが、胸の奥の深い場所で、消えかけていた炎をふっと灯し直した。