135話 欠落
ラミエルの指先がわずかに動いた。
ナイフの刃先が、白いシーツの上を滑る。ジュリの喉元まで、あと五センチ。いや——四.....
(こいつ....このままこいつを見捨てるつもりか?)
ダチュラは、倒れるかのように、その場にあった椅子に座り込んでいるだけだ。
(てっきり、こいつがダチュラにとって唯一無二の存在だと思っていたんだが)
ラミエルは、つまらなそうに目を少し細めた。
(まぁいいか——殺そう)
ラミエルが、手に少しの力を加えた瞬間——
——世界が揺れた。
ラミエルは、今度は目を見開いた。
何も起きていないのに、起きたはずの光景だけが、周囲の空間から剥がれ落ちた。
ラミエルのナイフが、
リアナの皮膚に触れた“はず”だった。
その“はず”が、刹那、空気ごと消えた。
感覚が遅れて届く。
刃の感覚が消えた。血の臭いもない。
ラミエルが、何かを見失ったように目を細める。
確かに動かした腕。握っていたはずのナイフ。滑った刃。皮膚の手応え。
その全てが、「なかったことにされた」のだ。
なのに、床の上には“なにかを終えた”音だけが燻っていた。
“未来”が、ここから一枚だけ、破り取られた。
まさか、こいつの能力は!
今度は、ラミエルのこめから一筋の汗がつたる。
時間が進むことで訪れる「結果」を消すものでなく、
時間の道筋そのものを消すことができるのか!?
「破られた運命は、まるで存在したことさえなかったように消え去る」
「お前……今……何をした?」
ラミエルは、質問したが、全てを判っていた。
その問いに、ダチュラは初めて微笑みを本物にした。
虚勢ではない。怯えでもない。断絶の力に手をかけた者の、冷静な確信。
「……未来は、たったひとつじゃない。
でもね、“あったはずの未来”を、私は欠落させることができる」
成る程なぁ。
恐らく、この力は時間を遡るわけでもなければ、因果を捻じ曲げるものでもねぇ。
ただ、未来という一続きの現象の列から、“結果”という一点だけを切り落とす力。
未来は確定せずに残る。
いいや.....“確定していた未来”が、決して来ないという形で消え去る。
ラミエルは、ナイフの方へと目をやる。
そこに血がついていないのを再確認する。
静寂の中で、ダチュラの声が落ちる。
「君がナイフを振り下ろした“その未来”は、もうここには存在しない......」
ラミエルが小さく息を呑んだ。
けれどそれは恐怖ではない。
飢えが、より深くなった音だった。
「フッ.....
やっぱり……お前、面白いな」