072 最初で最後の
宮殿のダンスホールに突如現れたニナ様によって、デミアン君とのムフフな写真を新聞社にリークされたくなければ、婚約破棄をしろと脅された。
他にいい案が思いつかなかった私は、殿下に嫌われなくてはならない。
しかも早急に。
「殿下のバカ、嫌い、大嫌い……好き……じゃなくて、あぁもうっ!!」
私はふかふかの枕を殴ろうとしてやめた。
なぜならここは、宮殿内にある来客用の部屋に備え付けられた豪華なベッドの上だからだ。私の拳が痛むだけならいいが、枕を破壊しても困るし、弁償しろと言われてはたまらない。
だから殴る事は諦めた。
「ニナ様は相当私が憎いのね。でも私はそこまで酷いことした?」
確かにデミアン君の家に泊まってしまい、ベッドを借りた事は事実だ。けれどあの件は、三分の一くらい彼のせいだ。
なぜならあの時の私はデミアン君に二日連続でホストクラブに行った事を「ニナに言う」と脅され、仕方なく飲まされたから。
「……って三分の一どころか、ぜんぶデミアン君のせいじゃん」
私は今更その事実を思い出す。しかし過去の事を思い返した所で意味がない。
「今は殿下に嫌われなくちゃならないんだから」
でもどうやって?
現在殿下は遅咲きの春全開といった感じで、私に甘々だ。
とにかく優しいし、言葉で愛を伝えてくるし、一ミリでも物理的に触れる距離を増やそうと、虎視眈々と狙っている。
「あーあ、こんな事ならキスぐらいしておくべきだったかな」
自分でも何を言ってるのやらと思わなくもない。しかし婚約破棄をしなければならない現状、ファーストキスくらい好きな人としたかったと願うくらいは許されるはずだ。
「もしかしたら、一生そういう機会に恵まれないまま、一人寂しく死を迎える可能性だってあるし」
ふと、私への後悔と想いを引きずりこの世を去ったとされる、メレデレクの事を思い出す。
彼の人生を思うと胸が痛む。しかし彼は英雄を終えた後、古代魔法研究所設立という立派な功績を残し、この世を去った。
その功績は現在まで続いているわけで、大変立派な事だし、英雄として語られるにふさわしい人生の幕引きだと思う。
因みに英雄を引退した後、エリオドア様とクラリス様は帝国という国を守り、繁栄が続くよう立派な子孫を残した。
その点ではウィルマーだって同じ。彼の子孫は北部方面の防衛を守る長として、帝国の為に尽力している真っ最中。やはりみな、誇れる何かを残し、この世を去っているようだ。
それに比べて私は……。
「殿下と婚約破棄をしたら、この国に何を残せるんだろう」
英雄としての人生はすでに終了し、今はただのティアリス・アルミストだ。
別にどうしても名を残したい訳ではないけれど、殿下を拐かした悪女として名が残るのは嫌だ。
「でも婚約破棄をしたら、そうなるしかないよね……切ない」
第二の人生は、とことん私に試練を与えたいらしい。
「最初の人生であまりに大きな事を成し遂げちゃったから、そのしわ寄せが来てるんだ、絶対」
クッションを抱き締めながら、だらしなくベッドに寝転がりため息を吐く。すると突然部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「え?」
こんな夜更けに私に用がある人などいないはずだ。しかもここは宮殿の寝室。つまり寝室の扉をノックするには、続き部屋となる居間を通過しなくてはならないわけで。
「やだこわい」
咄嗟に無視しようと思った。しかしここは帝国が誇る宮殿だ。陛下の寝室だってどこかにあるはず。
となると、流石に不審者が簡単に立ち入る事が出来るとは思えない。むしろ夜中に寝室のドアをノックするだなんて、何か緊急事態が起こったのかも知れない。
そう結論付けた私は、恐る恐る扉越しに声を掛けてみる。
「あの、どちら様でしょう?」
「俺だ」
扉の向こうから返ってきたのは、意外な人物の声だった。
私は慌てて扉を開ける。するとそこには見慣れた黒いスーツを着たエメル殿下が立っていた。ただし、ひらひらとシャツの襟を緩めている所はいつもと違う。
「で、でんか、あのどうしてここへ?」
私が動揺を隠せずにいると、殿下は私の姿をマジマジと見つめた。
「君の寝間着姿は、場所が変わっても愛らしいと感じるものだな」
「は?……っ、何を言って……ってちょっと殿下!?」
気が付けば、私は殿下に抱きかかえられていた。しかも横抱きだ。そしてそのまま彼は、スタスタと何事もなかったかのように歩き出す。
「ちょっと待った。もしかして酔ってます?」
ほのかに殿下からアルコールの香りがする事に気付き確認する。
「酔ってはいないが、愛しい婚約者を抱きかかえたい気分ではあるな」
「な、なるほど?」
これは相当酔っていると見て間違いない。私は抱きかかえられたまま、殿下の麗しい顔を凝視する。すると普段は凛々しい印象のする紫色の瞳が、今はぼんやりとしているようだった。
「殿下、眠いんですか?」
「あぁそうだ。眠い」
ここまで酔った姿を初めて見た。
殿下にしては珍しいと私は驚く。
「それにティアリス、俺は君が大好きだ」
殿下は優しく微笑み、私に告げる。
「ありがとうございます。私も殿下が大好きです」
思わず照れながら答え、ハッとする。
のんきに愛を伝えている場合ではない。私に許された猶予はこの夜と明日のみ。とにかく時間がないという状況なのだ。
「殿下、あの、出来たら婚約――」
「当たり前だが、俺は君の嫌がる事はしない。悲しませたくはないからな」
完全に酔っているはずの殿下の口から、ドキリとする言葉が飛び出した。まるで今から私が口にしようとしている言葉を、遠回しに「言うな」と言われているような気分だ。そのせいで、私は言いかけた言葉を飲み込んでしまった。
「到着だ」
上機嫌な殿下は私をそっとベッドに下ろした。そして自らもベッドへと上がり、私と向かい合う形になる。ギシリとベッドが軋んだ音に、私の心臓が跳ねる。
「安心しろ、ティアリス・アルミスト」
「安心とは一体……って、あ、ちょ!?」
私は殿下にベッドの上に押し倒される。すると殿下の熱い眼差しが私を捕らえた。
「安心しろ、今日は何もしない」
何もしない。その言葉の真意は分からない……いや考えたくはないが正しい。私は思わず夢であって欲しいと殿下から視線を逸らす。
これは良くない流れだと感じたからだ。しかも酔ってそういう行為に及ぶのはもっと良くないし、そもそも私はこれから婚約破棄をする予定が詰まっている。
「ティアリス……」
まるで媚薬でも飲まされたかのように、私の頬に手を添えた殿下。彼は優しく私の名を囁きながら、唇を奪おうとしてくる。
このままではキスされてしまうと確信した私は、咄嗟に両手で自分の口を塞ぐ事に成功した。しかしそれがお気に召さなかったらしく、不機嫌そうに顔をしかめる。
「なんで口を塞ぐ」
「殿下が酔っ払ってるから」
私は返事をしながら、くるりと体を回転させ、殿下に背を向ける。これで口元の防御態勢は完璧だ。
「何でそっぽを向くんだよ」
不機嫌そうな声が背後から飛んでくる。
「これ以上何かしたら、怒りますからね」
私は念入りに釘を差しておく。
「じゃあ、怒るなよ」
今度は後ろから抱きしめるように手を伸ばされ、私の背中は殿下にピタッと密着した。まさかの展開に私の頭は真っ白になる。
「で、殿下……っ!?」
「ティアリス、君は温かいな」
殿下はスリスリと背後から頬を擦り寄せてくる。その行為自体はとても可愛らしく、私の心をキュンキュンと締め付ける。
しかし酔っている今だからこその大胆な行動でもあるわけで、どうしたって私の理性を崩壊させる起爆剤にはならない。
というか、婚約破棄をしなければいけないというのに、私は一体何をしているんだと、素朴な疑問が沸き起こる。
「今はこれで我慢する。おやすみティアリス」
あちらこちらへと激しく揺れ動く私の心境など知りもしない殿下は、まるで子供のように私を抱き締めたまま眠りに入るようだ。
程なくして、スースーと寝息のような音が耳元に届き始めた。
「嘘でしょ……」
私は殿下の腕から脱出しようと少しずつ体をずらす。チビチビと動くこと数分、何とか殿下の意外とたくましい腕による拘束から逃れる事に成功した。
「疲れた」
疲労困憊の体で寝返りを打ち、殿下と向き合う形になる。
「ほんとに眠ってる」
思わず微笑み、規則正しく寝息を立てる殿下の顔をジッと覗き込むが、当然の事ながら反応はない。
しかし睫毛は長く鼻筋も通っていて、見れば見る程美しい顔立ちをしていると私は見惚れる。普段だったら恥ずかしくて正面からこんなにたっぷり見つめられないけれど、今は酔っているせいで私の存在などお構いなしに眠っている。だから安心して殿下を堪能する事が出来る。
「やっぱり好き」
無防備に眠る殿下の姿は、とても可愛い。私の萌えポイントに新たに殿下の寝顔という項目を付け加えておく。それから私は、好きな気持ち満載のまま、恐る恐る殿下の顔に近づく。そして彼の寝息を感じるくらいまで近付くと、ゆっくりと自分の唇を殿下の唇に押し付けた。
そしてすぐに、ハッとする。
「私‥‥」
慌てて殿下から距離を取り、口元を両手で押さえる。それから好きな人とキスをしたという事実に、心臓がバクバクと激しく脈打つ。同時に顔中がこれ以上ないくらい熱くなるのを感じた。
しかしすぐに、寝込みを襲うという暴挙に出た自分に対する自己嫌悪の気持ちで落ち込んだ。
「でもファーストキスは、好きな人と出来たし……」
これである意味思い残す事なく婚約破棄が出来るというものだ。
私は殿下と別れた後、人里離れた場所でひっそりと、日記を書こうとひらめく。そこには世界を救った名もなき大勢の英雄達との思い出を残し、エメル殿下への気持ちを綴るのだ。そして私がこの世を去る時デミアン君にでも郵送し、英雄たちの部分だけ公表してもらうことにしよう。
まるで遺言を考えているような寂しい雰囲気に包まれ、私は小さく頭を振る。
「もう寝よう……」
私は酔っぱらいと化した殿下をゴロリと転がし、何とか布団をかける事に成功する。そして私も殿下の隣に静かに横になった。横を向きジッと彼の顔を見つめ、やっぱり好きが溢れてくる。
「エメル殿下、大好き」
呟くと、不思議と心の中が幸せに包まれる気がした。
「なるほど。だから殿下は口に出すようになったんだ」
好きな人に気持ちを伝えるのは、恥ずかしいし、照れくさい。けれど「好き」という言葉は、言われた方だけじゃない。伝えた方も満たされるのだと気付く。
明日になったら、私は殿下にとって憎い人間にならなくてはいけない。けれど今日だけはこうして幸せな気分で寝ても許されるはずだ。
「おやすみなさい。大好き、殿下」
私は最後にもう一度だけ、眠る殿下に本音を伝える。そして時間がないと焦る気持ちを持ちつつも、幸せな気分が勝ってしまい、ゆっくりと目を閉じたのであった。




