肖像画の完成(4)
今日は金曜日。
北川くんには四菱銀行の前で待つように言っておいたのでいるはずだ。
案の定、銀行の前の歩道でボウッとして立っている北川くんを玲子さんが見つけて、車の後部座席に乗せてくれた。
村森先生に話を聞いて幾分か気持ちは明るくなったけれど、もやもやした気持ちは相変わらずだった。
桜小路古都はすっきりしないことを諦めて放っておくということはできない性質なのだ。
やっぱり絵を描いた本人に問いただすのが一番いいだろうという結論に達したのだ。
金曜日まで待ったのには特にたいした意味はない。
村森先生の話を聞いてから絵を見る気持ちに変化があるかもしれないと思ったのと、なんとなく北川くんを呼ぶのは金曜日がいいという気がしただけだ。
習慣みたいなものかもしれない。
北川くんは今日は絵を描く準備をしてきていない。
桜小路古都は「もしかしたら手直ししてもらうかもしれない」と伝えておいたのに、道具の準備を持ってくるのを失念しているとか相変わらずボウッとした男ねと溜息をついた。
「桜小路さん、絵のことで話があるって、どんな話?」
連れてこられた理由を詳しく聞いていない北川くんはおそるおそるという感じで聞いてきた。
「私、きれいにとか描かなくていいから今の私そのままを描いてくれればいいって言ったわよね」
「この絵は今の私そのままじゃないわ、そう思わない?」
「えっ? どういうこと?」
「どういうこともこういうこともないわよ、この絵ってなんだか天使っぽいっていうか、全然、素の私と違うじゃない、デフォルメとかしないでちゃんと今のままの私に描きなおしてちょうだい」
「そんなこと急に言われても無理だよ、絵はもう完成してるし、桜小路さんだって満足してくれたじゃない」
「あの時はできたばかりでちょっと見ただけだからそう思ったのよ、でもあれからずっとこの絵を見ていて、そう思ったのよ、今の私そのままじゃないって。 本当はあんただった判ってるんでしょ描いた本人なんだから」
「桜小路さんは絵の出来に不満なんだね。残念だけどそれは僕の実力不足だから仕方ないよ」
「でもこの絵は今の僕のできる全力だし、デフォルメもしていない、僕が見たままの桜小路さんだよ」
「だからそう言われても、この絵にこれ以上手をいれることなんて僕にはできないよ」
桜小路古都はちょっと驚いて目を見開いて北川くんを見た。
自分の意見に反論されることに慣れていないのだ。
「北川のくせに私に反論するなんて百年早いわ。この絵の出来に不満があるわけじゃないわよ、村森先生だって高校生が描いたにしてはよく描けていると言っていたからね」
「私が言ってるのは絵の出来が悪いってことじゃなくて、あんたの勝手な気持ちとかを乗せなくていいからもっと写実的に描きなおしてちょうだいってことを言ってるの」
「ちょっと待って桜小路さん、そんなにいろいろ言われてもわからないよ。村森先生ってもしかしてもしかすると、まさかあの村森重弘なんてことはないよね?」
「村森先生の名前まで知らないわよ、お爺ちゃんで昔は写実的な絵を描いていた画家で藝大とかでも教えてたことがあると言ってたけど」
「それなら村森重弘に間違いないよ、日本の絵画の世界では最も有名な専門家の一人だよ、桜小路さん凄い人と知り合いなんだね」
「村森重弘が僕の絵を見たとか信じられないよ。しかも「良く描けている」って言われたなんて」
北川くんは夢見心地みたいな顔になっている。
けれども桜小路古都はそなことを北川君に知らせて喜ばせるために呼んだわけではないのだ。
「調子にのらないで、村森先生は「高校生にしては」って言ったんだからね。それにテクニックも色使いもまだまだで専門的にいえば話にならないって言ってたんだから」
「そりゃあそうだよ村森重弘から見たら僕の絵なんて子供の落書きみたいなものだろうからね、それでも良く描けているって言われたのは励みになるよ」
「カディンスキーの描いたガブリエレみたいだって言ってたわ、あんた本職の画家じゃないんだからカディンスキーみたいに自分の気持ちとか表現しなくていいのよ、もっと写実的に描き直してちょうだい」
「ちょ・・ちょっと待って、何言ってるかわかんないよ、カディンスキーって何?」
「あんた美大を目指してるくせにカディンスキーのガブリエレも知らないの?」
桜小路古都は自分も村森先生の話を聞くまで全く知らなかったことを棚にあげて言った。
知らないことは恥ではない、聞いたら覚えればいいだけだ。私は画家でもないのだし。
だけど素人の私が知っているのに画家志望の北川くんが知らないというのは恥だろう、それが桜小路古都の考え方だ。
「知らない、ていうかカディンスキーっていう人自体を知らない、有名な画家なのかな?」
「村森先生がわざわざミュンヘンの美術館に見に行ったくらいだから有名なんじゃないの? 抽象画をいっぱい描いている画家みたいだよ」
「それでそのカディンスキーさんと僕の絵とどうつながるの?」
「だからそのカディンスキーはカブリエレっていう女性が好きで「愛してる~」って気持ちをこめてその作品を描いたのよ、村森先生はこの絵はそれと同じ感じだって言ってたわ、あんたが天使みたいに描くからよ」
「僕が桜小路さんに憧れているのは認めるよ、誰にでも優しいし本当に天使みたいだとも思ってる。だけどだからって天使みたいに描いたわけじゃない。僕に見える桜小路さんを今の僕に描ける全力でそのまま描いただけだよ、だからこの絵にはもう手はいれられない」
桜小路古都は一瞬おし黙った。
桜小路古都が言い合いで劣勢にたたされるのは生まれてから初めてに近いかもしれない。
「あんた北川のくせに、どさくさに紛れて、なに私に告ってるのよ? 百年早いわよ。 いったいなんなの? 週に一回金曜日にここにきて絵を描き直すだけってだけなのに、ここに来るのがそんなに嫌なの?」
「ここに来るのが嫌って、そんなわけないよ。桜小路さんと二人きりで会えるのにそれが嫌だなんていう人はこの世界に存在しないと思う」
「それじゃあなんでOKしないのよ」
「ここに来るのが嫌なわけではなくて、あの絵は本当に今の僕の全力で、そのままの桜小路さんを描けたと思ってる。今まで描いてきた全部の絵のなかでも特別なんだ。だから線の一本も今の僕の力では手直しできるところはないと思うんだよ」
「ダ・ヴィンチは大切な絵は一生手元に置いて手直しし続けたとか言ってたじゃない、手直しできるところが一個もないとか信用できないわ」
「今の高校生の桜小路さんを今の僕の全力でって言ったじゃない。一生そばにいて描かせてくれるんならそうするけど」
「気持ち悪いこと言わないでよストーカーじゃあるまいし、約束したのは美大に入ったらもう一回だけ描かせてあげるってことだけよ」
「だいたいあんた、私が裸婦まで描かせてあげるって言ったのに本当に美大に入れるんでしょうね?」
「それは必死に頑張ってるよ、週に3回は塾にも行ってるし、家でも真剣に勉強してる。 成績も150番くらいだったのが学年で6番まで上がったし」
「あんた6番くらいで何やってやった顔してんのよ? 私に勝つのは無理でもなんで2番じゃないのよ?」
「村森先生も藝大は無理だろうって言ってたわ、それなら美大くらい確実に合格できるって言い切れるくらいになりなさいよ、6番じゃ全然安全圏とは言えないわね」
「そう言われても、僕だって必死なんだ今まで生きてきてこれだけ必死に勉強とかしたことないくらいやってる。 それでも上位5人の壁はすごく高くて。。。」
「ほんとに情けないわね。なに泣き言いってんのよ。人間必死にやればなんだってなんとかなるものよ」
「必死にやって6番以上いかないっていうなら何かやり方が間違ってるのよ、本当に手がかかるね北川くんは。 わかったわそれじゃあ私が勉強教えてあげるわよ」
「えっ!桜小路さんが? でも桜小路さんT大受けるんだよね? 自分の勉強は大丈夫なの? 」
「情けないだけじゃなくて失礼な男ね。私がT大くらい大丈夫じゃないわけないでしょ」
「だからって甘くみてるわけじゃないわよ、私だってやるべきことはやってるんだから。 でも金曜日はいつもモデルやってたんだからね、その時間くらいはあんたの相手したって、そのせいで受験に落ちたりはしないわ」
「それじゃあ毎週金曜日にここにきて桜小路さんと一緒に勉強できるってこと?」
「金曜日はいつも絵を描いていたんだし、塾とかは金曜は入ってないんでしょ。 誤解があるみたいだから言っておくけど北川くんのレベルにあわせても私には勉強にならないから、一緒に勉強じゃなくて、私がしごいてあげるってこと」
「うん、金曜日はいつも自宅で勉強してる。本当に教えてもらっていいの?」
「仕方ないでしょ、6番くらいで「もう無理だあ」とか言ってるヘタレなんだから」
「私だって一番美しい大学生の私の絵を描いてくれる人がいないと困るからね」
村森先生にモデルをしてみないかと誘われたことは内緒だ。
「わかった。桜小路さんにそこまでしてもらって落ちるわけにはいかないね。 来週からまた金曜日よろしくお願いします」
「まあ仕方ないわね、もちろん今までと同じで誰にも内緒よ」
北川くんはスキップでもしそうなくらい嬉しそうに帰っていった。
本人が描けないと言うのではあの絵の手直しは我慢するしかないだろう。
桜小路古都は絵にそっと布をかぶせた、いつも北川くんが描き終って帰るときにかぶせていた布だ。
この絵のできには満足している、でも気持ちが落ち着かないのは嫌だから当分は見ないことにしようと思う。
車が信号で止まると玲子さんが言った。
「お嬢様、あの男の子また金曜日は四菱の前で拾えばよろしいのですよね?」
「そうよ、せっかく絵が終わったというのに嫌になっちゃう。 美大目指しているくせに勉強が全然ダメなんで仕方がないから週一回だけ教えてあげることにしたのよ」
「そうですか、それはよかったですね。あの男の子も喜んでいたでしょう」
「それはそうよ私から個人授業で教えてもらえるなんて誰にでもあることではないからね」
片桐玲子は桜小路家の家政婦で桜小路古都の通学の運転手も兼ねている。
ご両親が多忙でほとんど家にいないので桜小路古都とは一番一緒にいる時間が長いのだ。
「お嬢様、ずっとご機嫌が悪かったけれど、また楽しそうになられてよかった」
そっとそう呟いていた。
今度は一緒に勉強されるそうだから紅茶と何か高校生が喜びそうなお菓子でも用意しておきましょう。
お嬢さまがお幸せそうだと私も心が明るくなる。
そういえばお嬢様、あんなにイライラされていたのに全然絵のことを話さなくなったわね?
そろそろ街路樹も新緑が美しい季節になってきたようだ。




