9・貴族
ソフィーリアの母、フロランスが夫であるランベールの使いの者からソフィーリアが倒れた事を聞いたのは、エイゼンシッツ伯爵夫人が開催する夜会が始まってしばらく経ってからだった。
その報を受けたフロランスは表情を変える事なく、そう、と呟くだけだった。
ランベールの使いは実の娘が倒れたと言うのに何と薄情な、と心の中で毒づいた。
もう帰って良いと言われたランベールの使いはせめて、何か言伝はないかと尋ねたが、フロランスは必要ないと言い切った。
ランベールの使いはわずかな怒りの感情を胸に、フロランスの前から去っていった。
ランベールの使いの姿が見えなくなったのを確認したフロランスは徐に、夜会の主催者エイゼンシッツ伯爵夫人の元へ向かう。
エイゼンシッツ伯爵夫人の周りには多くの貴族がおり、ワイン片手に歓談を楽しんでいた。
「エイゼンシッツ伯爵夫人、急用ができました。心苦しくはありますがおいとまさせていただきますわ」
「あらあらあらぁ、残念ねぇんフロランス様。私の夜会よりも大事な用事だなんて、一体何事でしょう。戦争でも起きてしまったのかしら?」
「それ以上ですわ」
わずかばかりの侮蔑の含まれた言葉にフロランスは常と変わらぬ表情でそう返し、軽く会釈をして玄関へと向かう。
ポカンと口を開けたエイゼンシッツ伯爵夫人はその背中をただ見送った。
フロランスは自分の御者に声をかけ、すぐにイヴァノフ邸に戻るように伝え、無言の圧を御者どころか馬にすら与え、全速力で馬車を走らせた。
そして、イヴァノフ邸に到着後、フロランスは御者が馬車の扉を開けるのを待たずに蹴り開けてツカツカと走るような速度で歩きながらソフィーリアの部屋に向かった。
そして、ソフィーリアの部屋の前で一呼吸だけ息を整えて、扉を軽くノックした。
「ソフィーリア、私です。入りますよ」
フロランスが扉を開けると、そこには駄々をこねる子供の様に泣きじゃくるランベールの姿があった。
「嫌だぁあああああああ!! ソフィーリアァアアアア、パパを嫌いにならないでくれぇええええ!! 言う事なんでも聞いてあげるからぁあああああああ!!」
泣き叫びながらゴロゴロと床を転がるランベール。
フロランスはそんな父の姿を見ておろおろとしているソフィーリアの元に近寄る。
その際、ランベールを踏みつけたがフロランスは気にしなかった。
「痛い!! フロランス、何故夫を踏みつけても無表情なの!?」
「あら、ランベール。そんな所に居たのですね。まさか、王国の剣と謳われるお方がその様な場所で子供のように泣き叫んで転がり回っているだなんて思ってもみなかったものですから」
「ウグ……ぐうの音もでない。いや、しかしだな、ソフィーリアがな――」
「ご自身の醜態を娘のせいになさるのですか? ランベール、席を外しなさい。今の貴方ではまともな会話は期待できません」
「し、しかしだな」
「ランベール」
ランベールはフロランスの圧に勝てず、項垂れてソフィーリアの部屋を後にした。
部屋から出るまでの間に五回ほど振り返ったが、その都度フロランスに睨みつけられていた。
「あ、あのお母さま……」
「倒れたと聞きました。怪我は?」
「いえ、怪我はありません。倒れた後もソレイユ様に介抱していただきましたので、何事もなく」
「そうですか。それで、先程のランベールの醜態はどういった事ですか?」
無表情のフロランスの圧にソフィーリアは気圧されて、どう説明したものかと思案顔になる。
正直に話して父だけでなく母までもアイリに干渉するようになったらどうしよう、そんな事を考えながら、ソフィーリアはアイリの事を話さずにどこまで説明できるか考えた。
「私に隠し事をする気ですかソフィーリア。包み隠さずに話しなさい。それとも、母はそんなに信用が出来ませんか?」
「い、いえ、そんな事は決してありません」
フロランスの圧に負け、ソフィーリアは先程のランベールが醜態を晒すに至った顛末を話し始めた。
「――という訳です、お母様」
アイリがソレイユをビンタした場面を目撃した事、仲裁に入った際に鼻血を出してソレイユの前で気絶してしまった事、その後、王宮で休ませてもらった事、そして、自宅に戻った際にランベールとの会話の中でランベールが王国の剣としてアイリにその剣を振るう事を厭わない事を聞き、頭を下げてそれだけはやめてほしいと懇願した事を話した。
貴方を許さない、と言った事もきちんと伝えた。
「なるほど、それであの醜態ですか。王国の剣がなんと情けない」
フロランスはジロリと扉の方を睨む。
その視線の先にはほんの少し扉を開けて中の様子を見ていたランベールが居た。
フロランスの視線に気づいたランベールはビクリと体を震わせて、そっと扉を閉めた。
「ソフィーリア、ランベールについては私に任せなさい。悪い様にはしません。しかし、王族の頬を平手で打って、無罪放免というのはいくらソレイユ王子自身の言があると言っても許容できるものではありません。それは理解していますね」
「は、はい。でも、アイリはあのような事をする子では――」
「ソフィーリア」
「は、はい!?」
フロランスの有無を言わせぬ圧にソフィーリアは自然と居住まいを正してしまった。
「貴族であるからこそ、法を順守し、法が絶対であると民に示さねばなりません。貴族に類する者が法を破るなどもっての外、あってはならぬ事です。たとえ、その人物が自分にとってどんな間柄であってもです。分かりますねソフィーリア」
フロランスの言葉は正論であり、至極まっとうな物だ。
反論の余地などない。
「無茶は初めから承知ですお母さま。お願いします、どうかどうか」
ソフィーリアはランベールにそうしたように、フロランスにも深く頭を下げた。
フロランスの冷血さと貴族としての高潔さはゲーム内のキャラでもトップクラス、貴族としてあるべき行動以外はほとんどしないとソフィーリアはプレイヤーとして知っている。
そんなフロランスの根幹を曲げるなんて事はほぼほぼ不可能ではあるが、ソフィーリアにはただただ懇願するしかなかった。
「変わりましたね、ソフィーリア。貴族としてはあり得ない姿です、また一から教育すべきかもしれません」
そう言ってフロランスはソフィーリアの側から離れていった。
ソフィーリアは慌てて、ベッドから起き上がろうとして手を滑らせ、床に転がり落ちてしまった。
フロランスは立ち止まり、無様に床に転がるソフィーリアを見つめた。
すぐさま、その場に座りなおしてソフィーリアはフロランスに更に言葉を紡ぐ。
「お、お母様、お待ちください!! 私がお母さまの期待に添えない娘である事は重々承知しています、今後は一層努力に励みます、貴族の責務もまっとういたします、ですから、アイリだけは、アイリだけはどうか、殺さないで、お願いお母さま!!」
悲痛な叫びをあげて涙ながらにソフィーリアはアイリの助命を嘆願した。
その姿にフロランスはほんの少し目を見開き、驚いた表情を浮かべる。
ソフィーリアにとってアイリは処刑を回避する為には絶対に必要な存在であり、もしアイリが死ねば自分は元より魔人によって国すら滅ぼされかねない。
自分しか知らない未来を回避する為にソフィーリアは心の底からの本気の言葉でフロランスに乞い願った。
貴族らしからぬその姿はフロランスにとって信じがたい物だった。
少し前のソフィーリアを思えば、絶対にありえないと断言できる程。
フロランスは目を閉じて何かを考え、ソフィーリアの頭を優しく撫でて、無言で部屋を後にした。
振り向く事なく去っていったフロランスに絶望し、部屋に残されたソフィーリアはただ、うずくまって嗚咽を漏らす事しかできなかった。