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薄闇からの声

作者: 蓮見流香

「みーり、愛してるよ」

 声が聞こえた。

カッターを手首から離すと、美里(みさと)は、薄闇の中で耳をすませた。

彼の声だ。

何より、彼女のことを「みーり」と呼ぶのは彼しかいない。


「翔、あなたなの?」

 薄闇の中にはだれも見えなかった。まさか幽霊?

 「幽霊なら姿を現して」

と美里は闇に向かって言った。

「私、あなたのそばに行きたいの。あなたのいない世界にいたくない」

 薄闇は静まり返って、何も返してこなかった。

夢だったのかもしれない。

頭がずきずきした。

苦しくて、 苦しくて、どうしても眠れない。眠ろうと布団をかぶると、たくさんの思い出が、まるで群がるカラスのように彼女に襲いかかる。

翔と歩いた公園の風景、初めて出会った高校のグラウンド、遊園地で遊んだこと、つい一週間前のレストランでの夕食、病院のベッドの上でまるで眠っているようだった彼の姿。そして彼の葬式。

いろいろな風景が彼女の心をずたずたに切り裂いて、彼女を苦しめた。

泣きたいのに泣けなかった。泣いて泣いて泣きつくせたら……

しかし、今、彼女の中にあったのは、心を拷問の機械に掛けられたような苦しみだけだった。

時計を見ると四時半。ベッドから降りてカーテンを開けた。

外は明るくなりかけていた。

「翔、あなたなの? 返事をして」

美里は手に持ったカッターを見つめた。そして、それをテーブルの上に置いた。

なぜだろう。なぜ声が聞こえたのだろう。

生きろというのだろうか。

「翔」

と、美里は心の中で翔に呼びかけた。

「私、もう生きていたくないのよ」

未来にあるのは絶望だけだった。

翔とは長い付き合いだった。たくさんデートした。キスしたこともある。それでも、恋人かと言われると自信はなかった。

美里自身は彼に夢中だった。彼の気持ちを確かめたいと何度思ったことだろう。

けれども、一週間前にも、帰り道、口まで出かかった言葉を、結局、呑み込んでしまった。口に出すことで、二人の関係がぎくしゃくしてしまうことが恐ろしかった。

今の美里には翔を失うことなんて、絶対にできないと思ったから。翔はやさしいし、このまま、自然に二人は結ばれるのではないかという期待もあった。

まさか、こんな形で翔を失うなんて思いもしなかったから。

たった、一週間前、二人はあの場所にいたのに。

事故さえなければ……


 頭と胸が割れそうに痛んで、のど元に手をやりながら、美里はもう一度ベッドに倒れ込んだ。死にたかった。死んで、翔のもとに行きたかった……

 その時、声が聞こえた。「みーり、大好きだよ」

 美里はびっくりしておきあがった。声があまりにはっきり聞こえたから。かすかな、かすれたような声。でも、夢だとは思えなかった。それとも、やっぱり幻なのだろうか。

 美里は立ち上がってドアを開けてみた。まさかと思うが、誰かが、ドアの外で、美里を呼んだのかもしれない。でも、廊下にはだれにもいなかった。

まねをしたにしても、誰もあんな風にはできないだろう。「みーり」という呼び方もイントネーションも翔そのものだった。

「翔、もしかして、あなた、そこにいるの?」

 返事はなかった。けれども、美里は、翔がそこにいると半ば信じることができた。

空耳かもしれない。私の気が違っているのかもしれない。

でも、だとしたら、翔の魂が私の頭の中に、私のためにやってきたのかもしれない。

 美里は階段を降りて、台所に立つと水を飲んだ。頭の痛いのも胸の苦しみもほんの少し和らいだ気がした。

「みーり、愛してるよ」

また、聞こえた!

それは美里が翔に一番言ってほしかった言葉だ。

「遅いよ……でも、うれしい」

美里は小さくつぶやいた。

 部屋に戻ると美里は久しぶりにぐっすり眠った。

夢の中で何度も翔の言葉を聞いた気がした。

玄関のチャイムで目が覚めた。開けると、翔の両親だった。

「翔は本当に美里さんのことが大好きだったみたいで、部屋を見たら、美里さんのものがいっぱい出てきて、美里さんに持っていていただいた方がいいかと思って持ってきたの」

 両親がそう言って持ってきた箱の中には、高校時代から今に至るまで美里が彼に送ったものが、それこそ、ただの連絡メモのようなものでさえとってあった。

日記もあった。ページを開いてみると、毎日のように「みーり」が出てくのだった。美里と過ごした時間がうれしそうに綴られていた。こんなにも翔が自分のことを考えていたなんて、美里は思いもしなかった。「みーりに愛される人になりたい」という文を読んだとき、あごから涙が手の上に落ちた。あれほど彼女を見捨てていた涙が。

「みーり、大好きだよ」

 声が聞こえた。美里はびっくりして、顔を上げた。

「あ? 今のは?」

 両親は顔を見合わせた。二人にも聞こえたらしい。

「みーりだ。よりによって、ここへ来ているとは」

 父親が立ち上がって、窓を開けた。いきなり一羽の鳥が舞い込んできて彼の手に止まった。

「美里さん、紹介します。翔の飼っていたオウムの『みーり』です。美里さんに会わせなくちゃと思っていて、昨日、カゴの掃除をしていたらうっかり逃げられてしまって……こんな所にいるなんて……でも、少しでも早く会いたかったのかもしれませんね……翔はとてもかわいがって、美里さんの名前をつけて、まるで本物の美里さんと話しているみたいに、いつもうれしそうに話しかけていたんですよ。何度も同じことを言うから、すっかり覚えてしまったみたいで……」

 オウムはパサッと羽ばたくと美里の腕に止まった。

 まっすぐな瞳で、美里を見つめて、何度も何度も言うのだった。

「みーり、大好きだよ。みーり、愛してるよ」


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