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北海の魔女  作者: CK/旧七式敢行
4/20

白い魔法

 北海 ルドルフ飛行場 201X年/10/30 6:41兵舎



「うぅ、ん……」

 魔女は目覚まし時計の電子音に顔をしかめ、手探りでアラームを止める。

 目を開くと石膏ボードの貼られた白い天井が視界に入ってくる。

 毛布は甘美な暖かさで魔女を誘惑するが、彼女は上体を起こしてそれを振り切った。顔にかかる髪を払い除け、足を抜いてベッドから抜け出す。スリッパに足を差し入れて立ち上がると大きく伸びをする。

「ふぁ……」

 分厚いカーテン越しに弱い朝日が差し込む。祖国では夏に欝陶しいとまで思っていた太陽の存在の偉大さに気づいたのはこの基地に配属されるようになってからだ。魔女は窓に近づいて、両手で一気にカーテンを広げる。その瞬間視界が純白に染まり、魔女は眩しさに目を細める。

「雪……か」

 兵舎の前には一面の銀世界が広がっていた。降り積もった雪の結晶が朝日を反射して輝く。この間までまだら模様だった枯れた芝生は白一色に塗りつぶされ、建物だけがひょっこりその隙間から突き出している。

 二重窓に吹きかかった吐息がガラスを曇らせる。

 魔女は名残惜しそうに踵を返し、簡素な洗面台の蛇口を開いて両手に水をすくう。一瞬躊躇してから顔をそれに浸すと、火照りの残っていた顔が引き締まり、意識と視界がはっきりしてくる。蛇口を閉めてネットに入れて吊るしてあるハーブ石鹸を泡立てて顔全体に塗りたくる。

 ――今日は、村に行ってみようかな。

 再び蛇口を開き、泡を洗い落とす。最後にタオルで水滴をぬぐい化粧水を顔になじませる。

 コップに水を貯めて口をゆすぎ、残り少なくなったチューブを押し潰して歯磨き粉を捻り出す。垂れそうになるそれを歯ブラシで受け止め、ぶっきらぼうに口に入れる。

 清涼感と薬草の匂いが口内を満たす。前歯から奥歯へ、下から上へ。

 ひと通り磨き終わるとコップに残った水で口内に残った薬剤をまとめて吐き出す。

 排水口に吸い込まれていく泡と水を見送ると、ロッカーの中からブラウスと上下揃いの軍服、そしてしばらく悩んでから細身の赤いリボンを取り出す。

 部屋着を脱いでブラウスに腕を通すと、ひんやりとした感触に体が震えた。暖房が無ければ今頃凍りついていただろう。スカートを履いて金具を止める。

 鏡を見ながら髪を整え、髪をまとめてリボンで縛る。黒髪の影に赤が鮮やかに映える。

 ジャケットを羽織ってボタンを留めるとドアの鍵を開ける。上着のポケットにIDカードが入っていることを感触で確認すると魔女は廊下に出る。ロックのかかる音が魔女の背中を見送った。



 ルドルフ飛行場の食堂は空港職員のためのものと軍人用のものが一緒になっている。正確には元々は軍用と民間用で分けられていたのだが、昨年の豪雪で民間職員用の食堂が押しつぶされ、巨大な廃墟になってしまった。つまりいつ食事をとりに行っても必ず誰かと顔を合わせることになる。

「お、魔女さまじゃねーか。今日は早いんだな」

 民間機パイロットが魔女に声をかける。魔女は振り向いて手招きをする男の横に座る。

「おはよう、今日はちょっとね。あなたたちこそ今日は酔ってないじゃない。不気味」

「おいおいそれじゃあ俺達がいつも飲んだくれてるみてぇじゃねぇか」

 魔女は腰へ伸びかけた腕に素早く肘鉄で制裁を加える。男はあう、と呻いて手を引っ込める。

「それともお酒じゃなくて自分に酔ってるの?」

「手厳しいねぇ」

 それが言葉に対してなのか、過剰な防衛行為に対してなのかは分からない。

 魔女は答えずに食事を続ける。 

 今日のフライトは1520時発の定期便の見送り。

 1400時にブリーフィング、1500時に先行して離陸し、後続の定期便を上空で待つ手はずになっている。

 切り立ったフィヨルドでの先導と誘導のバックアップも魔女ら駐留部隊の仕事だった。もちろん名目上は哨戒飛行と練度維持も兼ねている。

 襲撃任務中は極度の緊張を強いられるため、魔女は比較的気軽に機を操ることのできるこの任務が好きだった。

「さて……と」

 魔女は席を立つ。

「お? 今日は午前中は非番じゃないのか?」

「ちょっとそこまで。それじゃ、上空で」

 トレーを運ぶ魔女の足取りは軽い。揺れるポニーテールに赤いリボンが付き従う。

「おい、やけに機嫌がよくねぇか?」

「あぁ、なんか嫌な予感がする」

 残された二人の操縦士は顔を見合わせた。


「IDと外出許可証を確認しました。1200時までにお戻りください。行ってらっしゃいませ」

 守衛の兵士は魔女に敬礼するとアサルトライフルを構え直す。

「ん、ありがと」

 魔女は微笑みながらIDカードをポケットに戻し、基地のゲートをくぐる。踏み潰された新雪がきゅっと鳴いた。

 目指すは基地から歩いて十分ほどのところにある、昔ながらの石とレンガと針葉樹の幹で建てられた家の立ち並ぶ小さな村だ。

 この準戦時下といえる状況にあっても他のフィヨルドには本土や国外からの観光客が来ているというのに、この村にやってくるのは基地職員と定期便のパイロット、そして出稼ぎから帰ってきた男達ばかりだ。

 それでも観光客に媚びない住人たちのありのままの姿が魔女は大好きだった。



 道沿いではこれから厳しくなる寒さに向けての準備が急ピッチで進められていた。積もった雪を屋根から落とす者、庭木に布を巻きつける者。

 大型トラックが黒い排気ガスを吐き出しながら駆けてゆく。積荷は荷台いっぱいに積まれた雪だ。どこかから重機の重苦しいディーゼルエンジンの騒音が聞こえる。

 魔女は村の中心から少し離れたところにある小さな店の前で足を止めた。

 のどかなベルの音と共に扉を開ける。油汚れの染み付いた真鍮製の蝶番が呻きながら開いた。

「ごめんください」

 魔女が入ったのは小さな喫茶店だった。古いながらも細部まで掃除が行き届いていて、古さよりも格調高さのほうが際立つ。魔女はゆっくりとコートを脱ぎ、壁にかけられたハンガーにそれを引っ掛けると慣れた動作で窓側の席に腰掛ける。海を見渡せるその席は魔女のお気に入りの場所だった。

 綺麗に磨きあげられた窓から港と水上機の繋がれた基地の桟橋が見える。ちょうど漁を終えたと思しき漁船が紺碧の海に真っ白な航跡を引きながら帰ってくるところだった。その船影を見ながらマスターアームを切り替えようと虚空を掻く自分の右手に気づくと、魔女は深くため息を付いた。

「やぁ、一週間ぶりかな? いらっしゃい」

 魔女が振り向くと初老の男性がカウンターに立っていた。手に抱えたメニューからこの店の者であるとわかる。

「マスター、いつものをお願い」

 マスターを左手で軽く制止し、魔女はもう決まっていたかのように注文をする。厨房に戻って行く後ろ姿を見送ると、魔女は再び窓の外に視線を戻す。

 カウンターの上に置かれたテレビは、国営放送のニュースを映している。

「……続きまして北海航路の制限に関してのニュースです。かねてより政府は海賊対策として特定航路以外を航行する全船舶への無条件攻撃を宣言していましたが、昨日第二艦隊が三ヶ月の任務を終え、母港ヴィルヘルムスハーフェンへ帰港しました」

 航路を封鎖しているのは航空部隊だけではない。海上にはコルベットから巡洋艦まで多種多様な艦船が網を張り、水中には世界最強と恐れられるUボート部隊が潜んでいる。

「政府は『今後も制限航路を通行する全ての艦船に対しての攻撃を継続する』とコメントしています」

「音量を上げるかい? ハーブティーをどうぞ」

 テーブルの上に置かれたポットからは爽やかな薬草と香草の香りが立ち上ってきている。

「…別に。ちょっと気になっただけ」

 同じくテーブルの上に置かれたティーカップに静かに注がれてゆく褐色の液体を見ながら魔女は興味なさげに応える。

「まぁ、あんたがたも大変だな」

 それには答えず、魔女はそっとカップを持ち上げて香りを愉しむ。湯気とハーブの香りが胸を満たしてゆく。その香りを十分味わったところでカップを口につける。

「美味しい」

 魔女の感想にマスターは嬉しそうに頷く。



 ちりん、と鈴が新しい来客を知らせる。

 興味なさそうしていた魔女も、重い物が落ちる音には驚き、入り口へ顔を向けた。

 大きなスーツケースを床に下ろした壮年男性とその子供と思しき小さな男の子。

「あ! お姉ちゃんだ!」

 男の子は魔女に気づくと、まっすぐに駆け寄ってくる。彼女もそれに気づくと優しく抱きとめる。

「すいません、うちの子が。ヨハン、離れなさい」

 いやいやと抱きついたままのヨハンの頭を撫でながら魔女が答える。当の本人は嬉しそうに笑っている。

「お構い無く。今日は随分と荷物が多いんですね」

 はちきれんばかりに膨らんだスーツケースを見ながら魔女は父親に問いかける。こら、と言いながら息子を後ろから抱え上げる。

「えぇ、今日の便で本国の親戚のところへ行くんです」

「じゃあ、私と同じですね」

 魔女は微笑みながらハーブティーに口を付ける。

「あなたは軍人では?」

 軍服姿の魔女を見ながら父親が首を傾げる。この町にいる軍人は全て空軍所属なので硬くて冷たい補助席に我慢ができるならば、定期的にやってくる輸送機に便乗してただ同然で本国へ戻れる。

「おや? ウチで使ってるコーヒー豆が無事に届くのはこの人がいるからだよ。護衛にライアーだかゼーヴィントだかが付いているだろう」

 マスターがメニューを差し出しながら割って入る。

 魔女はゆっくりとした動作でハーブティーの余韻に浸る。

「言われたからやっているだけです。私が操縦ライセンスを持っているのはライアーですけど」

「お姉ちゃん、パイロットだったの?」

 ヨハンは目を輝かせながら魔女の話に耳を傾ける。父親は構わないから、という魔女の言葉に任せてマスターに注文を頼んでいる。

「そうね、皆はそう呼ぶわ」

「すごい!」

 思いがけない賞賛の言葉に魔女の表情がやわらぐ。純粋な羨望の言葉を聞くのは久しぶりだった。

「いつもうるさい、と言われるかなって」

「とんでもない。あなた達のおかげでいまの生活があるんですよ」

 自分たちが必要とされている。それだけで心が軽くなるような気がした。空を飛んでいる時よりも、心が軽い。少しぬるくなってきた紅茶を一息に飲み干す。

「それ、なに?」

 ヨハンは魔女の上着の胸の略綬を指差す。

「これはお仕事を頑張ったから、そのご褒美」

 ――そう、姿も見えない遠距離から引き金を引くだけの簡単なお仕事。スライドと攻撃プランを確認して、海面すれすれを飛び抜け、沈みゆく敵艦を見届けるだけの。

「僕もパイロットになったらもらえる?」

「さぁ、どうかしらね」

 魔女は微笑みながら答えた。


 

 北海 ルドルフ飛行場上空 201X年/10/30 15:28

 FS-04 11-0109号機 "ヘクセ"



「ヘクセ、間もなく護衛対象が離陸する。待機せよ」

 魔女は管制塔からの連絡にコピィ、とだけ返し、機体を傾けて緩やかな右旋回を始める。傾き始めた太陽の光をバイザーが遮り、僅かに通り抜けた可視光がその頬を薄橙色に染める。

「RIA749、クリアードフォーテイクオフ」

 滑走路端でゆっくりと機首を回頭し、旅客機はプロペラで空気を掻き分けながら加速していく。機首を上げる機体に魔女は目を細める。

 四つのターボプロップエンジンが唸り、冷たい空気がゆっくりと機体を持ち上げる。翼端に大きく描かれた北極星が煌く。

「RIA749、途中まで友軍機がエスコートする」

「了解ルドルフタワー。魔女さまにおつきそいを願えるとは安心だな」

 機長はフラップを1段上げて緩やかな右旋回上昇に移る。進路が南南西を向いたところで魔女が翼を並べる。

「さすがに速いな。羨ましい」

 機長は右にぴったりとついてくる機体を見ながら呟く。副操縦士もちらりと右を確認し、上半分が青紫、下半分がくすんだ空色に塗り分けられた機体を確認する。

 当の魔女は旅客機に合わせてスロットルと迎え角を調整して同じ上昇率で付き従う。

 客室では右列の窓側の乗客、特に子供たちが歓声を上げていた。

「すごい! 戦闘機だ!」

「かっこいいなぁ」

 思い思いの感想を口にする子供たちがシートベルトを外さないよう親たちは抑えつけるのに躍起になっている。

「あれ、お姉ちゃんが飛ばしてるんだよね? 約束、覚えててくれてるかな?」

 ヨハンは窓にへばりつきながら隣の席で雑誌を読む父親に問いかける。

 あの後、魔女はポットに残ったハーブティーを飲みながらこう言った。

「今日一日いい子にしてたら、出発の時にいいものを見せてあげる」

 父親はそれが遠まわしな嫌味か、あるいは大人がよく子供を言い聞かせるための嘘だと思っていた。

 ふぅ、と息をついて雑誌のページをめくる。どれもこの小さな村から離れた場所の記事ばかりだ。地中海の小島の不正疑惑、極東での油田掘削プロジェクト、中東で劇的な戦果を挙げた飛行隊などだ。

 機は徐々に高度を上げ、空の色はゆっくりと藍色に近づいてゆく。

 最初にそれに気付いたのはヨハンだった。魔女は何度か翼をバンクさせて合図を送っていた。

「パパ! お姉ちゃんがなにかやってる!」

 ヨハンは父親の手を引いた。

「ヘクセよりRIA749、曲技飛行を行う。一応オートパイロットを切っておいて」

 言うが早いか魔女はラダーを踏み込みながら操縦桿を左に倒し、機体を半回転させて裏返す。

 背面飛行のまま、スロットルを開いて進路と高度を維持する。

 ハーネスが魔女の肩に食い込み、内蔵の重さが肺を圧迫する。呼吸が浅くなり、体が酸素を求め始めたところで機体を水平に戻す。

 更にスロットルを押しこんで機体を加速させると、推力重量比1・2を超える機体は旅客機を軽々と追い越した。

 魔女はスティックを引き、今度はスロットルを絞る。カナードが過剰な機首上げを抑制しようと下を向き、完全遊動式の水平尾翼がそれとは逆に機首を押し上げようと相反した動作すると機体は高度と進路を維持しながら機首を上げ、いわゆるコブラと呼ばれる機動を始める。

 主翼から剥離した空気が水滴と共に白いヴェールとなって幾何学的な迷彩を覆い隠す。翼端から伸びる飛行機雲は乱流に揉まれて蛇がのたくったような軌跡を描く。

 進行方向に対して60度ほどに立った機体は速度を失いながらもバランスを崩すことなく、機首を天に向けたまま飛行を続ける。

 エンジンナセルの下から突き出したベントラルフィンが空気を掴み、ともすれば横転しそうになる機体をしっかりと支える。

 スティックを握り締めながら魔女は旅客機と自機が並んだことを確認してゆっくりと操縦桿を前に倒して機体を水平飛行に戻した。

「お姉ちゃん、すごい!」

 ヨハンの声は窓の外を見ていた乗客全ての気持ちを代弁していた。ゆっくりと青みを増していく空という舞台の上で繰り広げられる、水蒸気のフリルを纏った舞。

 魔女は機体を左へ垂直に傾け、その翼に描かれたもうひとつの自分の姿を観客に向ける。操縦桿を軽く前に倒し、右ラダーを踏んで進路を維持する。

 しばらくそのまま飛び続け、今度は左ラダーを踏みながらスティックを左に倒し、増加する空気抵抗に押し戻されないようスロットルを開きながら旋回半径を小さく絞ったバレルロールを打つ。二と四分の三回転を終えて再び水平に戻った機体に釘付けとなった機長の耳に、優しい声が語りかける。

「RIA749、良いフライトを」

 そう言い残し、魔女はもう一度機首を上げる。

 最後はそのまま機首を上げ続け、機首を進行方向とは逆方向に向け、そのまま強引に機首を上げ続けて高度を保ったまま機体を一回転させる。

「クルビット……」

 副操縦士があっけに取られながら呟く。

 機長はゆっくりと機体をバンクさせる。今なら多少の揺れは乗客たちも気にしないだろう。

「ヘクセ、素晴らしいショーをありがとう」

 先程までの舞を見ていた乗客たちの中から自然と拍手が巻き起こった。

 魔女は機長からの感謝の言葉に頷き、別れを惜しむようにもう一度左右に機体をバンクさせ、帰るべき北の地へと戻っていった。


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