お菓子の家
北海 ルドルフ飛行場 201X年/10/13 10:28
FS-04 11-0109号機 "ヘクセ"
「ヘクセよりルドルフタワー、着陸誘導を」
「了解、ランウェイ15 ウインド230、10ノット 視程5マイル」
魔女は短く着陸許可を要請する。フィヨルドの奥深く、切り立った崖の合間に魔女の家、正確には帰る場所があった。
中央には2500メートルの滑走路、周囲には兵舎や格納庫が立ち並び、桟橋に繋がれた飛行艇の翼にはうっすらと雪が積もっている。
峡谷の中を吹き抜ける風を軽くいなし、彼女は滑走路を目指す。
ギアダウン、フラップ15度。
抵抗の増えた機体はゆっくりと高度と速度を落としてゆく。
滑走路の進入誘導灯に機軸を重ね、さらにフラップの角度を大きく下げる。
フラップ30度、フレアー。
最大までフラップを下ろし、スロットルを絞る。
FS‐04に装備された二基のターボファンエンジンの唸りが小さくなり、排気ノズルが大きく広がる。
主翼の吹き下ろす風が機体を優しく受け止める。地面効果でゆっくりと着陸禁止帯を飛び越え、タッチダウン。
固いシートを通した接地の衝撃に唇をゆがめ、彼女は操縦桿を手前に引いていた力を緩めて、ノーズギアを接地させる。スロットルレバーを引き、エアブレーキを展開させる。カナードが下を向き、ラダーが左右それぞれ外側に開いて空気抵抗を一気に増大させる。
慣性で前に投げ出されそうになり、ハーネスが食い込んだ。地上に戻ってきた安堵感と不自由さを全身で感じる。
機体は速度を落とし、強靭な主脚に装備されたブレーキが残りの速度を奪ってゆく。
滑走路の三分の二を通過したあたりで機体は完全に停止した。慣性で沈み込んでいた機首がノーズギアのサスペンションによって浮き上がる。
「お帰り、ヘクセ。4番スポットだ」
「了解」
もう酸素マスクは必要ない。金具を外して大きく深呼吸をする。
霧で少し湿り気を帯びた空気が乾燥した喉に心地良かった。
ブレーキを解除して指示されたエプロンの区画へ向かう。
整列して待機していた整備員たちが敬礼しているのが見えた。
「魔女様のご帰還だ。キルマーク準備しとけよ!」
機付長が横に並ぶ部下に声をかける。魔女はキャノピーを開放して手を振りかえしてくる。
機体がエプロンに停止するとすぐに梯子が掛けられ、機付長が駆け上がってきた。
魔女はヘルメットのストラップを外し、機付長に渡す。澄んだ瞳と整った顔立ち。長時間に渡る低空飛行の疲労で肌の色が薄れ、人形のようにも見える。
「今日の戦果は?」
「三隻。それと機関砲が2ミル、右にズレていたから調整よろしく」
魔女は優しく微笑みながら左手の指を立てる。
「機関砲は整備後に調整しましょう。お前ら! 格納庫に入れる!」
魔女は機付長の手を借りてコクピットから立ち上がり、ステップを降りる。
ドーリーが警告灯を回しながらやってきて魔女の機体のノーズギアにフックを連結する。コクピットの横には半分沈んだ船のマークが十六個並んでいる。
魔女が髪をまとめていたゴムを外すと、汗でしっとりと湿った黒髪が広がった。額に張り付いた前髪をかき上げてピンで留めると、機付長からヘルメットを受け取る。
「さて、と…」
濃緑のフライトスーツの胸元を広げ、空を見上げる。霧が晴れ始め、太陽が雲の合間から申し訳程度の陽気を送ってきた。
「ただ今戻りました」
魔女は背筋を伸ばして基地司令に敬礼をする。中年の司令は書類の整理をやめ、敬礼を返した。
「ご苦労だったハヅキ中尉。掛けてくれ、今紅茶でも淹れさせよう」
「では、お言葉に甘えて」
魔女ことハヅキ・アヤメ中尉は革張りのソファに腰を下ろし、窓の外に目を向けた。ちょうど中型輸送機が低いエンジン音を響かせながら着陸してくるところだった。
この基地は北の海を抜ける海賊船を防ぐための一翼を担っている。
基地、とはいっても対艦攻撃機と水上戦闘機の混成飛行隊が配備されているだけの小さな飛行場だ。元々はまともな道路も港もない小さな漁村だったが、余った土地を国が買い取り、軍民両用の滑走路に仕立て上げた。
司令は手元の受話器を取り上げ、酒保に電話を入れる。
「あぁ、中尉に紅茶を、ワシにはコーヒーを頼む。 中尉、ミルクと砂糖はどうするかね?」
受話器を口元から離した司令が魔女に問いかける。
「ミルクと、砂糖は……二つお願いします」
「ミルクと砂糖を二つだ。あぁ、わかった」
司令は受話器を下ろし。魔女の向かいのソファに座る。二人の間にあるテーブルの上に飾られた主力戦闘機の模型が低い太陽光を浴びてキラキラと輝く。
「で、今日はどうだった?」
「情報通り、海賊船はフリゲート艦と輸送船。運の良かった方は機関砲で止めをさしました」
司令の質問に魔女は淡々と答えた。
「船員の脱出は」
「救命ボートが二艘、それだけでした」
記憶を辿り、海上の様子を答える。自分を指差し、見上げる船員たちの畏怖と憎しみの詰まった視線を思い出す。
「そうか、とにかくご苦労だった」
「失礼します、コーヒーと紅茶です」
若い兵はうやうやしく頭を下げて司令と魔女にコーヒーと紅茶を出すと、叩けば音がしそうなほど硬い敬礼をして退室していった。
魔女はティースプーンでカップの中の紅茶を軽くかき混ぜ、ミルクを注ぐ。
「累積撃沈数は十九隻か、そろそろ魔女狩りでもありそうだ」
「捕まったら、異端審問でもされるんでしょうか?」
司令の言葉に冗談を返しながら角砂糖を沈める。隙間に入り込んだ水分が角砂糖を解体しながら褐色の水面に引きずり込む。
「海に落ちても悪魔が支えてくれるさ。それに魔女狩りをしなくて済むように、実際、共和国……海賊どもは大規模な護送船団、それも空母付きのを組織しようとしてるって噂もある」
「空母、ですか」
魔女はこれまでの自分の経験を思い出す。シミュレーターでの仮想戦闘や海軍との合同訓練でしかやりあったことはなかったが、どれも厳しい戦いだった。
「なぁに、空母と言っても正規空母じゃない。おそらく航空巡洋艦あたりが関の山さ」
それでも攻撃を仕掛けづらくなることは確実。
「それで、上はなんと?」
「水上機と飛行艇を増援で送るそうだ」
王国軍には本格的な水上機はない。ゼーヴィント水上戦闘機が離島に配備されているくらいだ。そして足の長い機体は本国と中東に回され、新鋭機のオイレは対空戦闘を主眼に開発されている。
封鎖線と言いながらも、魔女たちFS-04と水上機によって守られているのが実情だった。
魔女はカップに口をつけたままわずかに眉を寄せる。
「まぁ、でかい船が動けばいやでも目立つさ」
司令は足を組み、自分もカップを口に運ぶ。共和国軍の正規空母はこれまで2隻が確認されている。
航空巡洋艦は活発に活動中しており、演習や威圧に大忙し。
「正規空母が出てくる可能性は?」
魔女はカップを降ろすと。唇に残った紅茶をぺろりと舐めとる。彼女は意識していないだろうが、その仕草の一つ一つが魅力的だ。見惚れていたことに気付いた司令は大きく咳払いをした。
「…まずないな」
司令の態度の変化を素早く察した魔女は訝しげな視線を向ける。
もし本当に空母とやり合うことになるなら、これまでにない過酷な任務になるだろう。いつものように単機低空侵入は自殺行為だ。
「では私はこれで、紅茶をありがとうございます」
魔女は小さくお辞儀をして立ち上がった。ティーカップの中身はいつの間にか空になっている。
「あぁ、また何かあったら伝えよう」
最後にもう一度敬礼をして魔女は扉を閉めた。汗の乾いた髪がさらりと揺れた。司令はそれを見届けると大きく溜息をつく。冗談めかして言いはしたが、魔女自身もうすうすと自分の重要性に気づいているのだろう。
熱いシャワーが白い肌に弾かれ、石鹸と一緒に排水口へ吸い込まれていく。魔女は汗を溶かし込んだ石鹸の泡を洗い流す。
引き締まった身体についた筋肉を女性らしい丸みが包み込んでいる。惜しむらくはこの基地でそれを目にするチャンスがあるのはごく僅かな女性兵士だけということだ。
魔女は蛇口を閉じてタオルで顔を拭う。髪の先からぽたぽたと水が垂れた。
髪を大雑把に拭うと体に残った水滴を取り、下着に手をかける。
飾り気のないシンプルなデザインだが、官給品なので割安だし、なにより実用性重視で蒸れにくいので彼女は結構気に入っている。
白いメッシュシャツを頭から被り、ブラウスに袖を通す。衣擦れの音が止むと魔女は紺色の王国空軍の制服に着替え終わっていた。鏡に写った自分の姿を確認して裾や襟を正す。胸元には真新しい略綬と撃沈章が付けられているが、沈んでゆく船を思い出すと、小ささの割にはそれらがひどく重く感じられた。
脱いだフライトスーツと下着を手早くランドリーバッグに纏めて小脇に抱えると魔女はシャワー室を後にした。
「お、魔女さまじゃないか」
廊下に出ると、これから出撃するらしい二人組が魔女に声をかけてきた。
「二人はこれから?」
魔女は聴きなれた声に振り返った。
栗色の短髪のがっしりした体型のジークフリート・レント少尉と、金髪のくせ毛のカール・ヴァグナー少尉がヘルメットを抱えて敬礼する。魔女の方も微笑みと敬礼を返す。
「国際条約に則った救助の上空援護だァよ。ったく」
カールは大げさため息をつきながらがっくりと肩を落とす。彼らは水上機隊のパイロット。そして魔女の部下。
といっても対艦攻撃はもっぱら魔女の領分で彼らはその援護と護衛、ないしはバックアップといった役回りが多い。
「ま、姐さんの事後処理が俺らの仕事ですからねぇ」
魔女は眉をしかめ、したり顔で処理、の部分を強調して言ったカールの頬を抓る。
「寒中水泳でもしてなさい!」
「あががががが」
指先が真っ白になるほど力を込め、魔女はぐいぐいと引っ張る。
「いつつつ…」
「じゃ、いってきます」
ジークフリートがカールを小突いて引きずるように出口へと向かっていった。
[ちゃんとやってよ、もう……」
魔女の言葉に二人は親指を立てて応えた。
カタカタと、指がキーボードの上で軽いステップを踊る。時折タン、と入力内容を確定させる音がパーテションの中に響く。
――07:56 一三式対艦誘導弾四発を発射、全弾が命中。護衛艦と輸送船アルファを撃沈。
――08:06 輸送船ブラボーに対し機銃による攻撃を行う。
――08:12 船団の全滅を目視及びレーダーで確認。RTB
出来事をフォームに入力し、IDカードをリーダーに読み取らせて署名を付加する。もう一度全体をチェックすると端末を操作して報告書を送信する。
魔女は大きく伸びをして凝った肩をほぐす。
「もうこんな時間か」
壁にかけられた時計は4時を回ったところを指している。愛機の機関砲の調整はどうやら明日になりそうだ。魔女はデスクの引き出しから砂糖菓子を取り出して頬張る。生姜の辛さと砂糖の甘味が口の中に広がる。退屈なデスクワークの合間のささやかの楽しみの一つだ。彼女にこれといって趣味はないし、基地のそばの街に行っても女性が楽しめるような場所はない。せいぜい酒場でダーツを投げるくらいだ。興味本位で言い寄ってくる男は多いが、彼女の素っ気無い態度にすぐに離れていく。
――それでいい。私は魔女なのだから、童話に出てくる悪い魔女のように一人ぼっちでいればいい。
宿舎に戻った魔女は部屋の明かりをつけ、制服を脱いでハンガーに掛ける。ゆったりとした部屋着に着替えると、ベッドの上に倒れこむと、荒い毛布の繊維が頬を刺した。乱れた髪が目の前に広がる。
――いつからだろう、魔女と呼ばれるようになったのは。
最初この基地に配属されたときに誰かが自分を指差して黒い魔女だ、と呼んだのが原点だったか。
ヘクセ(魔女)、というコールサインに特に異論はなかったし、周囲もそれを薦めていた。今となっては敵に災厄をもたらす文字通りの魔女となっている。
机の上に置いてある家族写真が目に入る。父は厳しく、母は優しかった。
しかし、この人たちはもういない。
――誰とも一緒にいなければ、誰かがいなくなっても寂しくない。
そう自分に言い聞かせ、周囲に見えない壁を作り、一人で飛び、一人で殺す。
それでも、心の空白を埋めるには足りない。