北海の魔女
共和国へ北回りの航路で向かう輸送船の乗組員の間にはこんな噂がある。
――北の海には「魔女」が出る。
その噂が真実かどうかを知る者は少ない。
海峡封鎖が宣言されてからその海域に近づく民間船はいない。
もし一海里でも踏み込めば容赦のない攻撃を警告なしに受けると知っているからだ。
それでも大西洋を通って共和国へ最短で至るにはそこを抜けるしかない。ユーラシア大陸を迂回する南回りのルートは遠回りな上に、ゴールの手前には列島の皇国が待ち構えている。
皇国には撃沈こそされないが、共和国へ向かう船は大型タンカーから漁船にいたるまで臨検され、積荷に一つでも禁輸品があれば有無をいわさず厳しい処罰が待っている。
この海はリスクを負ってでも通過しなければならない魔の回廊だった。
フェロー諸島沖 20XX年/10/13 07:32
白い霧に包まれながらたった三隻の船団は波濤を散らし、目的地へとひた走る。二隻の輸送船は怯えた子供のように護衛のフリゲート艦にぴったりとついてくる。
いくら沿岸のレーダーには補足されないとはいえ、海上は王国軍の哨戒機が飛び回っている。もし発見されていたら、それとももう発見されているのかもしれない。そんな輸送船の船員たちの見えない敵への怯えはどうやらフリゲート艦の水兵たちにも伝染したらしく、艦の外が見える位置にいる者はしきりに水平線に目を凝らしている。
「そろそろ交代の時間だな、異常は?」
ブリッジに上がってきた艦長に気づくと、その場にいた全員が敬礼をする。
艦長は軽く頷いて敬礼を返した。
初老の海の戦士はポケットからタバコを取り出すと、ライターでそっと火を灯した。
「ありません」
今のところ敵に発見された様子はない。紫煙を吐き出すと、鋭い目付きで眼前の海原を睨みつける。
「レーダーに機影! 南からです」
慌ただしい報告でブリッジにいる全員が耳を疑った。共和国には本国からここまで飛んでこれる航続距離を持った戦術航空機はない。となれば、答えは導ける。
「敵味方識別信号、応答なし! 王国軍の攻撃機と思われます!」
相手が味方でないことがわかった瞬間、その場にいた若い水兵のうち何人かは体を震わせた。
艦長はブリッジ全体に響き渡るよう、そして自分を鼓舞するためにマイクを握り命令を下した。
「総員、第一種戦闘配置! 対空戦闘用意!」
"彼女"はヘッドアップディスプレイと風防越しに飛び慣れた冷たい海を見下ろす。水温という無機質な定規で測れば、ほんの数分漬かっているだけで生死に関わるような凍てつく海も、彼女にとっては遊び慣れた庭だ。
「ヘクセ、情報通り目標は三隻」
「了解。あちらも気付いたみたい」
波頭を舐めるほどの超低空を彼女は獲物目がけて奔る。
大きく広がったストレーキ、そこには姿勢制御と運動性を保証するためのカナード、後退角のついた主翼と水平尾翼、細身の双垂直尾翼の先には後ろを見張る目となるレーダー警戒装置が収まっている。
濃淡のグレーと青紫で幾何学的に彩られた対艦攻撃機。
FS‐04C “ライアー ”その翼の下には炸薬に電子機器、固体ロケットを収めた槍が四本並ぶ。
ヘクセ、と呼ばれた女性は操縦桿を握りなおして呼吸を整えた。正面のレーダーディスプレイには三つの船影が鮮明に映し出されている。
マスターアーム、オン。右手の親指で対艦ミサイルを選択する。
姿見えぬ敵は慌てているらしい、三隻はジグザグの航跡を描き始めた。
「ヘクセ、ブルーザー」
軽い振動と共に四本の矢が機体から切り離され、ロケットモーターが火を噴く。軽くなった機体がふわりと浮き上がるが、すぐにカナードが反応して押さえつける。
四本の思考する矢は艦影からそれぞれの役割分担と突入部位を思案する。もう人間の手助けは要らない。内蔵された脅威選定プログラムとデータリンクに従い、二発がフリゲートへ、残りが輸送船へと向かう。
彼女はスロットルを緩め、矢の進路を肉眼とディスプレイで確認する。
艦内は蜂の巣をつついたよう騒ぎになっていた。なんの前触れもなく現れた一機の攻撃機はこちらを目がけてまっすぐに突っ込んでくる。レーダー探知範囲のかなり内側で気付いたのは機体の低被観測性と、超低空を飛んでシークラッターに隠れていたからだろう。
「だめです、この艦の搭載兵器では射程外です!」
「ならばミサイルの迎撃を優先しろ」
敵機のいる方向をレーダーが走査するが、内海の警備用に建造されたこの艦に装備されている短射程ミサイルでは届かない。
唯一の救いは、30ミリ対空機関砲が艦橋の周囲に装備されていることだ。
一方的に撃たれるにしても、防ぐことはできる。
「ミサイル接近! 近い! 距離40キロ!」
近接防空システムが起動し、それぞれが補足した目標を追跡する。ガトリング砲が一斉に南を向き、ずれを細かに修正する様子ユーモラスでさえあった。
有効射程圏内にミサイルを捉えると、重苦しい発射音と共に30ミリ砲弾が撒き散らされる。
対するミサイルの側は抵抗を嘲笑うかのように緩やかなS字カーブを描き、フリゲート艦の手前で急速に高度を上げ、艦の最も致命的な部位へと突撃する。曳光弾は船体を削る直前までミサイルを追い、その一発を吹き飛ばすが、もう一発の進路は変わらない。
弾頭に据え付けられた270キログラムの炸薬が炸裂し、ブリッジを中にいる乗組員もろとも吹き飛ばす。軽量合金製の上部構造体は前半分が破けた風船のようになり、肉の焼ける匂いが海風に混じり合う。
最後のあがきに面舵を切った輸送船は悲惨だった。弾体は甲板のハッチを突き破り、燃料室で最後の仕上げを行った。
巨大な火球が船体を包み込み、周囲に金属片の大雨を降らせた。
彼女の見守るディスプレイ上で、ミサイルの輝点と敵艦のシンボルが重なった。
北側のシンボルは明滅を繰り返し、やがて消失する。東側の艦も同様に明滅を繰り返すが、こちらは逆三角形の枠が外側に表示されている。目標の脅威度が低い印だ。
「ヘクセよりグレッチャー、海賊船一隻を撃沈、発砲していた船は大破」
「ヘクセ、反撃がないようであれば攻撃を継続せよ」
「了解。接近します」
スロットルを前へ。機体を緩やかに加速させる。押しつぶされた空気が水面を叩き、水柱を上げた。
水平線の向こうに黒煙が見えてきた。
――この様子だと一隻は轟沈かな。
護衛艦からのレーダー照射はない。レーダー上のシンボルも徐々に弱くなっていく。
彼女が艦影を確認したときには、それは戦闘艦というよりも、水上に浮かぶ焼け跡といったほうがいい物になっていた。
徐々に沈んでいく残骸の上空を大きく旋回すると、運良く生き残った方の輸送船に狙いを定める。左舷から出火しているようだが、まだ速度は落ちていない。
一度大きく左へ迂回してから敵艦の船腹を正面に捉え、彼女は操縦桿のトリガーを引いた。ストレーキの付け根に収められた航空機関砲が咆哮。
27ミリ砲弾が船体を貫き、不運な船員を新鮮な挽肉へと変えていく。
機関室を狙った一斉射でエンジンは完全に破壊され、燃料タンクにから漏れた燃料に引火する。爆発の衝撃はかろうじて船体を支えていた竜骨をへし折るのに十分すぎる威力があった。金属のひしゃげる耳障りな音と共に、輸送船が二つに折れて沈んでゆく。
なんとか脱出に成功した船員たちが救命ボートによじ登る。
当の敵機はくすんだ空色に塗られた腹を見せながら上空を通過していく。主翼の裏側には北極星のインシグニアが描かれている。戦果を確認していく敵機に生き残った全員が畏怖と憎しみの混ざった視線を向ける。
敵機は機体を左に大きく倒すと、鋭くヴェイパーを曳きながら救命ボートの周りを旋回する。一瞬、ヴェイパーの途切れた左主翼の付け根に見えたものに船員たちは目を疑った。
グレーと青紫のスプリッター迷彩の中で、とんがり帽子をかぶった魔女が笑っていた。妖しい笑みは水滴の壁に再び隠れ、バンクを戻した敵機は高度を上げ、コントレールを伴って南へと帰っていく。
「あいつが、北海の魔女……」
思い出したように吹き始めた冷たい風が救命ボートを揺らした。
80年前――あの絶望的な世界大戦の危機を機智と努力によって回避した人類は、またも困難な時代に差しかかろうとしていた。
前回の危機以降、世界は欧州西側全域を統一した立憲君主制国家社会主義国となった「王国」と、それに国境を接するが故に激しく対立する東の社会主義連邦「共和国」、そして「皇国」と「合衆国」を中心として「王国」の旧植民地の一部を加えた「環太平洋連合」の大きく3つの勢力に分かれていた。
特に防衛力をバックに拡大政策を執る「共和国」とそれと対峙する「王国」のユーラシア大陸における対立は軍拡競争を招き、中立の立場を貫いていた「環太平洋連合」諸国も自らの存続のため、より政治経済体制の近い「王国」と同盟関係を結ぶに至る。
その結果、「共和国」は緩衝地帯の衛星国や独立時に同じ政治体制を標榜したアフリカ諸国と同盟を結び、世界は大きく二分される冷戦時代を迎えていた。
そして3年前、スカンジナビア半島沿岸で違法操業を取り締まっていた王国の沿岸警備艇が不審な貨物船を発見、臨検を試みるも不審船は逃亡。
警告射撃に対し不審船は重火器で応戦、警備艇は大破し多数の死傷者を出す事件が起こる。
共和国製の砲弾片が回収されたにもかかわらず、当の共和国は関与を否定。
「当該水域には海賊が度々出没との情報も有り、共和国では被害の報告もある」
とまで付け加えた声明を発表した。
そこで王国は「航行の自由と安全を守る」という名目のもと、当該海域の航行の制限と航行する全艦船の臨検を行うと宣言。
臨検に応じず、海域を突破しようとする「海賊」を狩る。
それが彼女の任務だ。