一話 前 [ダニエル視点]
あらすじ通り趣味しか詰め込んでない話です。ご容赦下さい
ミシュリーヌ・シュペルヴィエル公爵令嬢の名を知らぬ者は、この学園には一人もいない。
艶やかな紫紺の髪に、理知的な輝きを放つシアンブルーの瞳。
女性にしては些か高めの身長はその凛とした立ち姿により洗練された美しさを誇り、爪の先まで磨き上げられた麗しい所作に加え、学園内トップの成績を収めながら剣術では教師すら圧倒する腕前。
それでいて女性としてのしなやかな美しさを一切損なわない様は、まさに令嬢の鑑といって差し支えな──いや、差し支えはあった。謹んで訂正する。
ミシュリーヌ・シュペルヴィエル公爵令嬢。
その『哀れな飼い犬』こと俺──ダニエル・グリエットの婚約者様は、学園内でその悪行を知らぬ者は無い、と断言できる程には破天荒で碌でもない女だ。
入学式では下賤な者どもと同じ扱いなど言語道断、と言わんばかりに豪奢に飾り立てた椅子を運び込み、
新入生代表の挨拶ではその椅子に腰掛けたまま、自分が用意した文面を俺に読み上げさせ(そのせいで、俺は殆どミミィの使用人だと思われている)、
適した指導を行おうとした教師、あるいは上級生には個人的な弱みから社会的な弱みまで調べ上げて黙らせ、
特待クラスとなってから初めの授業では『こんな低レベルな授業を受ける為に入学した訳ではないのだけど』などとほざいて空気を凍り付かせ、
挙げ句の果てには耐え切れず激昂した教師の代わりに丁寧かつ分かりやすい授業を行いプライドを粉々に破壊し(実技訓練でも全く同じことを仕出かした)、
正義感にかられ、あるいは自身の矜持を守るべく歯向かう生徒には幼少期の人には言えない失態や秘密すら掘り起こして制裁を加えた。
その結果、セレネストリア学園では『〝悪辣姫〟には関わるな』が暗黙の了解になっている。
悪辣姫とは、我が愛しの婚約者様も大層な渾名を貰ってしまったものだ。
当の本人は「あら、高等部になってまで『お姫様』呼ばわりなんて、照れてしまうわね」などと笑っていたが。
全く、どうしてこんな、誰の手にも負えないトンデモお嬢様の婚約者が、周囲に名前どころか顔も覚えて貰えない俺のような男なのだろう。
名ばかりの伯爵家に過ぎない俺の実家がシュペルヴィエル家からの婚約に逆らえなかったのは致し方ないとして、何の面白みも無いそこらの背景みたいな俺と、飽きずに六歳から十六歳の今まで婚約を結び続けているのはどういう理由があってのことなのか。
ミミィに婚約の理由を聞いたところで、『その辺に居て都合が良かったからよ。特別な理由でも欲しかったの?』としか答えてもらえない。
実際その通りなのかも知れないが、それはあくまでも婚約を結んだ理由であって、結び続ける理由にはならない気がするのだが。
「────ダン、ぼうっとしていないで紅茶を淹れて頂戴。美味しいお菓子が手に入ったの、見合う物を用意なさいね」
「ああ、すまない。すぐに用意するよ」
シュペルヴィエル家の中庭。
降り注ぐ日差しの中、ぼんやりと己の人生の行先について考えていた俺は、優雅に腰掛けるミミィの声にはっとして茶葉の用意を始める。
公爵家の使用人達が淹れる茶の方が余程美味いだろうに、ミミィはいつも俺に紅茶を淹れさせる。
初めの頃はボロクソに言われたものだ。元より出来ると思ってやっていないから特に心に傷を負うこともなくハイハイとやっていた結果、今では文句を言われることは殆ど無くなった。
同年代の男たちが剣術と勉学に力を入れている中、紅茶を極めてしまった訳だ。誇って良いかは微妙なところである。
並んだ焼き菓子に合うように選んだ茶葉を蒸らし、繊細な装飾の施された茶器へと注ぐ。
カップに注がれたそれはミミィのお眼鏡にかなったようで、目を閉じ香りを愉しんだ彼女の口元には満足げな笑みが浮かんでいた。
「……何やってるの? 貴方も座りなさい」
「いや、俺は良いよ。此処が落ち着くから」
「座りなさい、と言ったのよ」
学園内には使用人も連れていくことが出来る。しかし『学び舎は貴賎なく皆平等』を信条として掲げる学園でそんな真似をするのは、余程の有力貴族のお嬢様が数人程度で、ミミィも学内では俺を手足として使うだけで使用人は連れていない。
必然的に俺が使用人のような立ち位置になり、授業中から放課後に至るまでミミィの左後ろに控えているものだから、入学から半年も経った頃には後ろに立っている方が落ち着くようになってしまった。
一応、剣術や魔法の実技には参加しているが、大体は家でミミィに習った方が分かりやすく覚えも良いので、座学は殆どミミィの後ろで試験範囲のメモと、ミミィの『授業内容の査定』に付き合っているだけだ。
万が一にも誤った知識を教えるようなことがあれば、即座にミミィの指摘が飛ぶ。こいつはどうしてわざわざ学園に通っているのだろうか。
トンデモ婚約者の奇行は今に始まったことではないので、俺は深く考えることなく、ただひたすら、教師を詰るミミィの指摘に熱が入りすぎないよう適度に諫める役を買って出ている。
幼い頃に決まった婚約関係はもう十年になる。これでも長い付き合いであるせいか、ミミィは案外、俺には甘い所があった。
「お、これ美味いな。何処の店で買ったんだ? 俺も買いに行きたい」
「さあ、忘れてしまったわ。何処だったかしらね」
「なんだよ、教えてくれたっていいじゃないか。買い占めたりしないぞ、俺は」
「私と違って?」
口元に手を当て、機嫌良く笑うミミィの揶揄うような声に、頷くことも首を振ることも出来ず目を逸らす。
こいつは以前、中等部の学園祭で、楯突いてきたクラスが用意するつもりだった材料を買い占め、出店不可に追い込んだことがある。
公爵家から資金提供は無く、あくまでも個人の買い物だったというのだから、何とも恐ろしい話だ。しかもその後きっちり売り捌いて利益まで上げていた。
妙なことを突っつくと後が怖い。今はどうしてか妙に機嫌が良いようだが、何処で逆鱗に触れるか分からない。
俺は黙って、ふっくらと焼き上げられた菓子をかじることに集中した。本当に美味い。先週出された有名店の菓子よりも香りが良く、上品な後味は非常に俺好みだ。
「うん、いや、本当に、美味いなあ、これ」
「あらそう、良かったわね。その辺の貴族如きは一生かかっても口に出来ない代物なのよ、感謝して食べなさい」
「おかわりある?」
「……そんなに気に入ったの?」
「うん、美味い」
甘い物は好きだ。ただ、甘すぎるのは良くない。
我が国の砂糖は少しばかり癖が強く、何を焼いても後味がくどくなってしまいがちだ。だが、これは外国産の砂糖か、もしくはそれ以外の物を使用しているのか味わいがさっぱりしていてとても美味しい。
酸味のある果実が練り込まれているのも最高だ。本当に、何処の店のものなんだろうか。
教えて貰えないかなあ、と目を向ける俺に、ミミィは片眉を上げて軽く手を振った。側に控えていた侍女のルーシェさんが、銀盆に乗せた皿を、テーブルの上の空皿と入れ替える。
美しく盛り付けられた焼き菓子を前に、俺は思わず素直な気持ちを口にしていた。
「持って帰っていいかな。家でも食べたい」
「……もしかして貴方、お昼を食べ損ねたの? だからそんなに卑しく口に頬張っているのかしら、躾のなってないリスみたいね」
「リスって躾出来るのか?」
反射的に尋ねた俺に、ミミィは軽く首を傾げてみせる。
「犬や猫のようにはいかないでしょうね。噛み癖を直すのが大変らしいけれど、飼う予定なんてないし。ああ、そういえば排泄の躾には期待できないようね。あら、此処は貴方と同じかしら? 意外な共通点ね」
「……七歳の時の話なんて持ち出すなよ」
「私は物心ついてからはそんな粗相したことないもの」
「お前と比べないでくれ。あと、食事時にそんな話もしないでくれ」
ぶすくれる俺の前で、ミミィはやはり機嫌良く笑った。至極真っ当な指摘だと思うのだが、一体何が面白いのだろうか。
学園内では圧政を敷く暴君のような扱いを受けているミミィだが、学園外では比較的穏やかな一面もある。
一面、というだけで碌でもないことを仕出かすには変わりないのだが、こうして毎週のように婚約者である俺を屋敷に招待してくれる辺り、情の無い人間という訳でもない。
彼女はいつだって自分がやりたいことを成す為に手段を選ばず、躊躇もしないというだけだ。
それが限りなく厄介であるのだが、今のところ犯罪行為には手を染めていない――筈――ということで公爵夫妻もある程度好きにさせている。
あと、単純にミミィには異様な商才があるものだから、何かと金を積んで解決しようとする娘に対し、諦めを持って許容するしかなくなっているようだった。
『世の中、金で解決出来ないこともあるのだからね』と溜息交じりに札束を突き返す旦那様に『勿論分かってるわ、お父様』と満面の笑みで返すのが恒例となっている。本当に分かってるんだろうか、こいつ。
「ダン」
「なんだよ」
「美味しい?」
「ん、うん。美味い」
俺と同じ背丈であるくせに座れば目線が下になるミミィは、それでも上から見下すように顎を持ち上げると、美しい相貌の威力を余すところなく発揮した微笑みで、じゃあ次も同じ所の菓子を用意してあげるわ、とやや弾んだ声で口にした。
◇ ◆ ◇
繰り返すが、『悪辣姫には関わるな』────というのが、セレネストリア学園での暗黙の了解である。
それは我が愛しの婚約者様が入学してから半年の間に数々の令嬢、令息、教師、その他諸々が彼女の前に散っていったことによって成された不可侵のルールであり、己の立場とプライド、暴かれたくない秘密を守る為の安全策だ。
誰だって好き好んで弱みを握られたくなどないし、関わらないだけで平穏無事に過ごせるのなら、守った方が余程賢い選択なのである。
つまり、その暗黙の了解を破るものは有り体に言って、どうしようもない馬鹿ということだ。
「ミシュリーヌ・シュペルヴィエル様! 貴方の行いは目に余ります! 権力を振りかざして不当に他の生徒を害し、貶めるなんて、淑女の行いではありません!」
廊下を行く生徒の殆どが、うわあ、と言いたげに顔を背けた。何なら数人は実際声に出していたかもしれない。
俺の前を歩くミミィが振り返ると同時に、悪辣姫の視界に入っては堪らない、と廊下に残っていた生徒が教室に逃げ込んでいく。
残ったのは小首を傾げて立ち止まるミミィと、その後ろに控えた俺、そしてその対面に立つ見慣れない女生徒だった。見慣れこそしないが、見覚えはある。
ノエル・ペルグラン男爵令嬢。俺たちが二年生に進級すると同時に編入してきた特待生で、魔法適性の高さと座学でミミィとトップ争いに躍り出た女子だ。
恐らくは編入したてで、この学園の暗黙の了解を知らないのだろう。
つい先日、ミミィが主体となって開発した精油のせいで大打撃を受けたらしい商家の息子が八つ当たりをかました。
当然、物の見事にやり返された訳だが、その手口で職どころか家すら失いかけた彼の悲惨な様を見た彼女は義憤にかられ、ミミィに直接物申しに来た――というところだろうか。
俺としては、幼気な同級生がミミィの悪意に晒され甚振られる様は見たくない。何とか穏便に済まないか、とどう考えても無理だろう願いを中庭の空へと投げていた俺は、そこで再度見せつけるように小首を傾げたミミィにそっと耳打ちした。
「ノエル・ペルグラン男爵令嬢だ、ほら、編入生の」
「ああ、色狂いの男爵が孤児院から拾ってきた女ね。大方、育てたら適当なところで摘まみ食いしてその辺の輩にくれてやるつもりかしら」
本来ならば公爵令嬢であるミミィには話しかけることすら出来ない身分だが、学園内は一応、とりあえず、なんというか、建前として『貴賤無く皆平等』であることを信条として掲げている。
著しく礼儀に欠けなければ王太子にすら此方から話しかけても構わないのだ。勿論、何の用もなく気安く話しかければ顔でも覚えられて要注意人物として扱われるが。
一つ上、三学年の先輩である我が国の第一王子――アルフォンス・マンディアルグ殿下の穏やかな顔を思い出しつつ、そういえばノエル嬢は成績優秀者として第一王子とも懇意にしているようだったな、と思い出した。
身分の上下無く優秀な者は取り入れたいと考えている王族が目を掛けている少女だ。あまり波風を立てるのも良くないだろう、と、ピンときていないらしいミミィに名前を伝えてみたのだが、返ってきたのは女子生徒の間でまことしやかに囁かれている下世話な噂についての言及だった。
対面に立つノエル嬢の顔が、怒りと羞恥からか赤く染まる。
わなわなと口を震わせる彼女が言葉を発するより早く、ミミィはその美しい顔にはっきりとした嘲りの笑みを浮かべてみせた。
「噂に違わず随分と可愛らしいお嬢さんね、例えその気がなくともうっかり手が出てしまいそうだわ。貴方、随分と無防備に殿方と触れ合っているようだけれど、気をつけた方が良いわよ」
「お、御義父様はそのような方ではありません! そっ、そっ、それに、その、淑女がそんなはしたない物言いを、なんっ、なんて方、公爵令嬢とも在ろう方が、信じられません!」
「あら、学園では学生は貴賤無く、皆平等なのよ。下世話な話が好きなのは人間の性なのだし、公爵令嬢かどうかなんて関係ないわ。そうよね、ダン?」
頼むから俺に話を振らないでくれ。答えたくない。が、お前のそれはどう考えても暴論が過ぎると思う。
公爵家の令嬢で無くとも、そもそも『令嬢』として間違っているだろう物言いにも躊躇いのないミミィに呆れつつ目を逸らしていると、詰まらなそうに鼻を鳴らされてしまった。
「それで? 目に余るから何だっていうのかしら。貴方が私の行いを咎めることに何の意味があって? 権力を振りかざすだなんて言っていたけれど、私、実家には一つも頼っていないのよ。
私はあくまでも趣味の範囲で商いを行い、個人の収入を『活動』に充てているだけ。公的な書面もあるし、そうでなくとも貴方の言う『目に余る仕打ち』は個人間の揉め事ですもの、貴方に口を出される謂われはないわ。
ああ、それとも、学生の身分で金銭を得るのは間違いだと言うつもりかしら? 普通科の生徒には放課後に労働している者も居るようだけれど?」
「い、いくら個人の問題だと言っても、それはあくまでも学園内でのこと! 結局は家柄に怯え、正当な主張を行えない者ばかりではありませんか! 貴方は横暴です、此処に居る者は皆、共に学ぶ友である筈です! 不当に虐げる必要などないでしょう!?」
「必要かどうかは私が決める事よ。貴方に口出しされたくはないわ」
冷えた声音で切り捨てたミミィを、ノエル嬢は握り締めた拳を震わせながら睨み付ける。なんて度胸のあるお嬢さんなんだろうか。思わずノエル嬢を応援しそうになってしまった。そもそも、言っていることは至極真っ当であるし。
しかし、こうして改めてミミィの所業について詰られると、全くもって『その通りです』としか言えなくなってしまうな。無論、ミミィもただ非道な行いをしているばかりではないのだが。
実際、ミミィがこれまでに開発してきた様々な発明品によって我が国の技術は著しく発展したと言える。
現在は魔鉱石の加工技術を上げ、純度が高く長持ちする魔石の開発を進めているようだ。半年後には実用可能なレベルになるそうだが、これまでの魔石と比べ二十倍は保つと聞いて、飲んでいる紅茶を噴き出したのは記憶に新しい。
性格には難があるものの、技術者や研究者としてはミミィは恐ろしいほど有能なのである。
元より歴史を振り返れば、そういう偉業を成す人間は大抵、何処かしら重大な欠点があるものだ。
ミミィなんて可愛いものだとも言える。勿論、口に出すつもりはないが。
我関せず、と従者に徹し続けている俺と、まさに悪辣姫の呼び名に相応しい笑みをもってノエル嬢を見下ろすミミィの前で、ノエル嬢は耐えきれない、と言わんばかりに震える声ではっきりと言い放った。
「やはりロザリーの言う通り、悪の権化のような方ですね……もはや我慢がなりません! 学園規則に従い、正式な決闘を申し込みます!」
学園規則第二条に記された『決闘』の項目は、第一条の『貴賎無く皆平等である』を裏付けるものとして定められた規則だ。
全ての生徒は身分に関係なく、双方の意見の食い違いを議論で解決できない場合、あるいは必要であると学園長が認めた場合に『決闘』を行い、勝敗を決することで決着をつけ、その結果がどうであろうと学園内ではそれに従い、納得しなければならない。
まあ、これはこれで実力主義が過ぎるため問題がある仕組みであり、最近は殆ど使われない御飾りのような規則なのだが。まさかこのタイミングで持ち出されるとは思わなかった。
「お断りよ、私に受けるメリットが微塵も無いわ。くだらないことに付き合わせないで頂戴」
「貴方が勝てば、私のことは好きにして頂いて構いません! ですが、私が勝った暁には――」
「話を聞きなさいよ」
呆れ混じりに睥睨するミミィはノエル嬢に微塵も興味が無いようだったが、
「婚約者との婚約を破棄して頂きます! 貴方のような悪逆非道な方に、あの方が相応しいとは思えません!」
叫ぶように宣言されたノエル嬢の言葉を聞いた瞬間、ミミィの端正な顔から、一切の感情が削ぎ落とされた。
「ん? ……え? 婚約?」
どうして此処で婚約が出てくるんだ?
訳が分からず間の抜けた声を上げる俺の横で、ミミィの目に冷えた光が宿る。組んだ腕を、人差し指が苛立たしげに叩いていた。
何が何だかさっぱり分からない。一切分からない。
ノエル嬢は一体何を言っているのだろうか。そもそも、ミミィの悪行を阻止することと婚約破棄に一体何の関係があるんだ。
「…………ノエル・ペルグラン。それは本気で言っているのかしら?」
「ええ、本気です。貴方のような力を持つ貴族に言われては断ることも出来ないのでしょう? 可哀想な方。これは貴方の魔の手から人々を救い出す一歩目です」
「……『私の婚約者』の話をしているのよね?」
「そのような者は居ない、と言うつもりではありませんよね。幾ら表立って知られていないとは言え、婚約関係に在ることは確かな筈です」
きっぱりと言い放つノエル嬢に、ミミィが静かに目を細める。シアンブルーに宿る焼け付くような炎を感じ取った俺は、混乱の最中でありながらもゆっくりと、なるべくミミィを刺激しないように少しだけ距離を取った。
常日頃から苛烈とも言えるやり口で相手をやり込め、心を抉る物言いで相手をやり込める様ばかり目撃されているミミィだが、本当に恐ろしいのは無言になった時である。
音も無く獲物に近づき、締め上げ命を絶つ蛇のような、静かな殺意。こういう時のミミィの側に居て、碌な事になった例しがない。
かといって、『婚約』が絡んでいる以上俺も部外者であるとは言えない訳で、距離を取ったのはあくまでも精神的な安寧を求めてのことだ。一切効果がある気がしないが。
いや、大体、本当に、なんで『婚約破棄』なんてものを賭けて決闘を申し込んでいるんだ? さっぱり分からない。
冷や汗を掻きながら後ろに控える俺の前で、ミミィは肩に掛かる髪を払いながら、あくまでも冷静な声で告げた。
「分かりました。その決闘、受けましょう。日時は一週間後のサンクの日。放課後に第六闘技場の使用許可を得ておきます」
敬語だ。敬語だった。
淡々と紡がれた了承の意に、俺は思わず目を閉じ、眉根を思い切り強く寄せていた。後ろに倒れそうになる身体を何とか支え、ミミィの靴音を聞き、急いで後を追う。
気絶するかと思った。
あまりにも胃が痛い。常に横暴な態度を崩さず、『全ての者は私の下に在る』と言わんばかりに振る舞うミミィが、相手を排除するべき『障害』ではなく、一個の『敵』として認識してしまった。
こうなってしまったら、俺に出来るのはただ一つ。どうか俺の愛しの婚約者殿が人殺しになりませんように、と神に祈ることだけである。
「────ダン? ちょっといいかしら」
「俺は無実だ」
「まだ何も言ってないでしょう」
すれ違う者全てを威圧し、苛立ちをぶつけるように靴音を響かせながら歩み進んだミミィは、三階の特殊教室棟の奥、空き部屋となっている第五実験室へと辿り着くと、俺の腕を引っ掴んで壁へと押しつけた。
身体の両脇に勢いよく両手を突かれ、逃げ場を無くすように突っ張った腕で囲まれてしまう。
身長が殆ど変わらないものだから、俺の顔の前には丁度、ミミィの顔がある。今にも怒鳴り散らして俺を殴り飛ばしそうな、引きつった顔だ。
「ノエル・ペルグランとはどういう関係か、教えて下さる?」
「関係も何も、顔だって今日合わせたばかりだ。何も知らない、彼女がどうしてあんなことを言い出したのかさえ、見当も付かない」
「本当に? 神に誓って?」
「君に誓って」
家族からも『真面目とは程遠い』と言われる気の抜けた顔に精一杯の誠意と本気を込めて答えれば、ミミィは俺の間抜け面をじっと見つめた後に、疲労を吐き出すように深い溜息を吐いた。
カツ、カツ、とヒールの踵が床を叩いているが、先程までの肌を刺すような怒りは形を潜めている。
何事か思案するように視線を脇に逸らしたミミィは、やがて落ち着きを取り戻したのか軽く鼻を鳴らすと、踵を返して幾つか並んだ椅子の内のひとつに腰掛けた。
「……どうにも怪しいわね。ダンと私の婚約を破棄させたところで、ペルグランには何のメリットもない筈だもの。ダンに懸想しているにしたって、廊下では少しも眼中に無いようだったし。
本気で正義の行いとして私とダンの婚約を破棄しようとしている? それにしたって、あまりに稚拙で馬鹿らしいわよね、……まあいいわ。ペルグランについて少し調べてみましょう」
不愉快な事象については早々に考えるのを辞めにしたらしいミミィは、背もたれに体重を掛けながら大きく息を吐き出すと、隣に引き寄せた椅子を軽く叩いた。
此処に来なさい、の合図である。素直に腰掛ければ、膝の上に置いていた手を、俺のものより一回り小さな手が握り締めた。次いで、右肩に軽く体重がかかる。紫紺の髪がさらりと垂れ落ち、柔らかな花の香りがふわりと鼻を擽る。
「香油、変えたのか」
「新作よ」
「良い匂いだな」
「気に入ったなら後であげるわ」
「冗談だろ?」
「ふふ、どうかしらね」
何一つぱっとしない顔立ちの俺が花の香りなんかさせてたら、とんだお笑い種だ。
ぎょっとして身を引いた俺を手を握ることで引き寄せながら、ミミィは愉しそうに笑った。
案外似合うかもしれないじゃない、なんてからかってくる声に、怒りの名残は無い。
どうやらある程度は機嫌も直ったらしい。報復はきっちりするが、引きずるタイプではないのだ。それはそれ、これはこれ、というやつである。
兎も角、俺の方は首の皮は繋がったようだ。ありもしない不貞を疑われ続ける羽目にならずに済んでよかった。
ミミィに悟られぬよう、そっと安堵の息を吐いた。
◇ ◆ ◇
俺の記憶が確かなら、初めてミミィに出会ったのは、彼女が六歳の誕生日を迎えた日だった。
『おとうさま。わたし、どうしてもほしいものが あるのです』
ミミィは誕生日の一週間前にそう告げて、プレゼントとして『ダニエル・グリエットとの婚約』を強請ったそうだ。
どうも、とても五歳児とは思えない迫力で頼み込まれた公爵家夫妻は、渋々ながら大して力のある家とも言えないグリエット伯爵家の次男と婚約を結ばせたらしい。
この辺はルーシェさんから聞いた話なので、些か盛られている気もするが、兎も角、『ダニエル・グリエット』が貰えないのなら屋敷に火を放つ、とまで言われたらしい夫妻は、また落ち着いたら相手を変えれば良い、という高位貴族らしい判断で娘の我儘を叶えることにした。
まあ要するに、俺はたまたま気に入られた玩具のような扱いでミミィの婚約者になった。
それまで一切関わりが無かったと言うのに急にそんな話が転がり込んだものだから、公爵家からの手紙に我が家は上を下への大騒ぎだった。
そもそも、引っ込み思案で引きこもりな伯爵家次男と王家の覚えもめでたい公爵家長女に一体どんな接点があると言うのか。一切不明である。
俺としても、その頃は家の倉庫で埃をかぶっていたマジックアイテムで遊んでばかりで、外で誰かと話したこともなければ社交の場にも出た覚えがない。顔も名前も覚えてもらえないのは今に始まったことではなく、この頃には既にそうだった。
何がなんだか分からないが、公爵家からの要請を断ることなど出来ない。
一度会わせれば、うちの次男坊がいかに面白味のない男か分かるだろう、となんとも失礼な思いで顔合わせの場に俺を引き摺り出した両親は、公爵家の客間でソファに腰掛ける少女を見た途端、
『ごきげんよう、グリエットはくしゃくさま。ミシュリーヌ・シュペルヴィエルですわ、きがるにミミィと およびになってくださいね。みらいの おとうさまとおかあさまなんですもの』
眩いばかりの美貌を放つ彼女の理知的な物言いに、一瞬で『これは粗相をしたら不味い』と察して青くなったそうだ。
一方の俺はといえば、壁に飾られた蝶の標本が気になって仕方がなかったことしか覚えていない。その頃は珍しい蝶を大陸外から輸入し飾るのが流行っていたのだ。
そうしてミミィを交えて親同士で幾つか挨拶を交わし、ミミィ本人の希望で俺たちは部屋に二人きりになった。
本が欲しいな、とぼんやりする俺の前で、ミミィは小さめのカップを持ち上げながらにっこり笑った。
『あなたがダニエル? あんがい、かわいいかおを しているのね』
その楽しげな声を聞いた時、俺は何故だかふと、彼女と何処かで出会った気がする、と思ったのだ。記憶が確かなら、今日が初対面の筈なのだけれど。
『……ねえ、どこかであったことある?』
『あら、どうしてそうおもうの?』
『うーん……なんか、そんなきがして』
首を傾げる俺に、ミミィは飛び切り楽しそうに微笑んでから、『会うのは きょうが はじめてよ』とだけ返した。
────それから、誕生日には毎回公爵家に呼ばれることになった。シュペルヴィエル家では前日に来客を招いて中庭で誕生日パーティーを開き、当日は家族だけで祝うことにしているらしい。
婚約を結んだ以上は家族として扱われているのかもしれないが、名ばかり伯爵の両親は毎年公爵家の御令嬢に相応しい贈り物を考えるのに頭を痛めていた記憶がある。
『それで? ダンは何をくれるの?』
『え、さっきドレスをあげた、とおもうけど』
『それはダンの おとうさまとおかあさまから 頂いたものでしょう? ダンはわたしに何もえらんではくれないということ?』
冷めた視線を向けるミミィに、俺はこっそりと捕まえて作っていた蝶の標本を差し出した。
今考えても女の子に贈るような代物ではないのだが、ミミィが口にしたのは蝶の標本を選んだことではなく、標本にされた蝶の種類についての駄目出しだった。
『このていどなら、わたしの庭でもつかまえられるわ。そのあたりで飛んでいる虫だもの』
『……そうだろうなー、とおもって、ださないでおいたんだ』
『かしこいせんたくね。これはダンがじぶんで作ったの?』
『うん、あんまりうまくいかなかったんだけど』
『たしかに、つくりが甘いわ。わたしのコレクションにはとうてい、ならべられないわね』
鼻を鳴らして笑ったミミィはケースを書斎机に置くと、艶やかな髪を靡かせながら振り返り、その小さな手にリボンのついた鍵を手にして言った。
『来年はまんぞくのいくものができるように、おしえてあげるわ。ついていらっしゃい』
手に握られたのは、ミミィに与えられた作業場の鍵だ。ルーシェさんを同伴してなら使っても良いとされているその部屋には、様々な種類の昆虫が飼育されている。
俺にとっては宝の山のようなその場所で、ミミィは丁寧かつ手厳しく、『美しい標本の作り方』を教えてくれた。
ミミィが婚約者になってよかった、なんて、呑気な俺は思っていたものだ。
九歳の誕生日には宝石を贈るも目利きが甘いと駄目出しされ、十歳の誕生日には絵画を贈るも審美眼に問題があるとその一年は美術館を連れ回された。
十一の時にはドレスを贈るも流行を捉えていないと叱責を受け、王都の服飾展示に付き添うように言われた。ミミィの好みを把握したのはこの辺りだ。
十二歳、王立魔法学園の中等部に入学するとなり、折角だからと自身の魔法属性と同じ魔鉱石を渡した時には、お返しに莫大な魔力を込められたチョーカーを手渡された。ミミィの魔力が練り込まれているらしく、これをつけているせいか、大抵俺の扱いは『飼い犬』になりがちである。
馬鹿にされているのは分かるが、正直ここまで強い魔力の込められた品を身につけずに保管しておくのも恐ろしいのでそのままにしている。俺が飼い犬扱いされようと、今のところは俺しか困らないのだし。
十三歳の誕生日には茶葉を贈った。特に理由はなく、その頃そういう贈り物──誕生日と対応した茶葉を贈る、というのが流行っていたからだが、ミミィにその場で紅茶を淹れるように言われて、酷い茶を出したものだから、その後はずっと紅茶の指南を受けることになった。
十四の時には髪飾りを、十五の時には耳飾りを贈り、これは叱責こそ受けなかったものの、使われずに仕舞われているからあまり気に入って貰えなかったらしい。
十六の誕生日は靴を贈った。傅いて履かせろと言うからその通りにして、今のところこれが一番お気に召したように思う。また五年後くらいに使おう。
多分、普通の伯爵家次男であったなら、こんな扱いは耐えきれなかっただろう。事実、俺の兄はミミィを見る度に苦々しい顔で『俺が選ばれなくてよかった』と呟くのが常だった。
だがまあ、俺の出来が悪いのは事実であるので元よりプライドなど持ち合わせていないし、兄の教育に力を入れるあまり放ったらかしになりがちな俺に『知らないこと』を教えてくれるのは素直に嬉しかった。
それに、何よりミミィは綺麗なのだ。
美しいというのはそれだけで価値がある。煌びやかで珍しい蝶の標本に目が飛び出るような金額が付けられるのと同じように、ミミィの美しさと、珍しさには途方もない価値がある、と俺は思う。
だからこそ、俺のような男がミミィの隣に立っているのが不思議な訳だが、それはそれ、愛しの婚約者様がいつか俺に飽きる日まで、この緊張と享楽の日々を享受させてもらうつもりだ。
出来ることなら飽きずにいて欲しいな、などという願いは、俺のような不出来な男には過ぎたものである。