TS転生したので伴侶に男の娘を育てようとした話
「もう、嫌なんだ。こういうの」
それは、おそらく私が初めて聞いた、はっきりとした拒絶の意思であった。いつもならば天使の如く愛らしい笑みを振りまく麗しい貌を、今は悲嘆に歪ませ。丸く大きな黄金の双眸、その目尻には、僅かに涙の宝石が彩られている。
「いつまでも子供じゃないんだよ。洗礼だって済ませたんだ」
俯いたまま華奢な身体を震わせ、エプロンドレスの前掛けを何かを堪えるように両手でぎゅっと握り、覚束ない声色で紡ぐ。恥じらう乙女の如きそのいじらしい姿に、私は不謹慎にも、こんな時でもやっぱりリヨは可愛らしいなと、頭の片隅で思った。
そして、やがて勢いよく首を上げて。柔らかな金糸の髪をふわと翻らせて。まだ声変わりも迎えていない高く透き通る声で、宣言する。
「だから、もう、僕は……。こういう、女の子みたいな格好はしない!」
リヨ、十歳、男。私が「男の娘」として育て上げようとした彼の、涙ながらの告白に、私は己の遠大なる計画が頓挫しつつあることを悟った。
私はいち日本人として一度目の生を受け、そして天寿を全うしたにもかかわらず。今も尚変わらず日本人としての意識を保ったまま、地球とは異なる惑星に生まれついてしまったらしかった。
赤子であった時期には、特記すべき事項もない。脳が未発達であったためか意識も朦朧であったし、赤子の身で何が出来たわけもない。ただ、三つばかり重大な気付きがあったので、それだけ述べておく。
一つは、ここは地球とは異なる星で、異なる法則で動いているらしいこと。なにやらマナとかいう不可思議なる物質があって、魔術とか気功とかが幻想でなく存在し、そして人口に広く膾炙している。
二つは、私は孤児院に預かられているらしいこと。一度、両親について孤児院長に尋ねてみたことがあるが、悲しそうな表情をするだけだったので、以後口にしていない。
三つ目に、私は現在女の身であるということ。前世ではごく普通の一般男性であった私がだ。どういう冗談か分からない。笑えない。二分の一の確率に負けたのだ。父親の顔も知らないが、いや、そもそも父が居るのかも分からないが、父のY染色体には恨み節の一つも吐き出したい気持ちである。
さて、そういうわけで、前世において私は地球という惑星の日本という国に住まう普通の男であったのだが。……残念ながら、私は異性との縁に乏しかった。両親に孫を抱かせることが出来ずに終わったことは、私の恥の多い生涯においても最も大きな後悔の一つである。……いや、取り繕うのはよそう。童貞のまま一人の女も知らず天寿を全うしたこと、誠に慚愧の至りである。
そんな私であるから、今度こそは女性を抱き子を為せたらなという、死して尚残るややもすれば怨念とも言える思いがあるのだが。生憎今の私は女。魔術なんてものが転がってるファンタジーな世界なのだから、性別を変える不思議な力でも存在しないものかと調べてみても、全く糸口は見えず。
齢五つにして将来の身の振り方に懊悩する私のもとに、一つの光明が降り注いだ。それは、降って湧いたような幸運だった。
小さな街の唯一の孤児院は、寄付金の他に、税金によって運営されている。税で運営されている以上、孤児院にはたまに偉い人の監査が入る。その日は、視察として町長夫妻が訪れた。まだ幼い嫡男を腕に抱きながら。
雷に打たれたかのような衝撃。小さな街だ、孤児院にもそう頻繁に子供が集まるわけではない。その当時、私より小さな子は居なかった。私は思った。年端もいかない子供の、なんと愛らしいことか。
視察の間、町長と院長は、子供は子供と遊んでいるといいと、私たちをひとまとめにした。町長夫人の庇護のもと、私は町長の嫡男であるリヨと、それはそれは濃密な時間を過ごした。
リヨは、町長夫妻の教育の賜物か、齢三つにして実に利発で素直な御子であった。向こうとしても、年の近い遊び相手がこれまで居なかったのか、好感を抱いてくれたようだった。査察の時間が終り、町長夫妻がお帰りになる際は、アユミ姉と呼び慕って私の手を中々離そうとしなかった。私は己の内なる情動を隠すのにとても苦労した記憶がある。
そして。その日のうち、私は思い至った。この世界ではどうだか知らないが。私の居た世界の、ごく狭い界隈には、こういう概念がある。『男の娘』。解釈は細分するときりがないきらいがあるので敢えて述べないが、大原則として、女の子のように可愛い男の事を指す。これだ、と思った。
前世よりの宿業のために私が子を為すというのなら。それは私が男を受け入れて、私が子を授かり、私が産むということだ。しかしながら、むくつけき男と交わるなどと、男としての自我が強く残る私には些か荷が勝ちすぎる。だったら、男の娘と結婚しちゃえばいいじゃん! そういうこと。
そうと決めたら行動に移すのは早かった。元より、孤児院の末っ子五歳児だ。家事や畑仕事の分担も軽いものだし、時間的な制約は軽いもの。私はまず、予てより必要性を感じていた石鹸、それからシャンプーとリンスの制作に取りかかった。薪の採集仕事とかのついでに、森で必要なものを集めていった。
当初は何度も失敗を繰り返した。普段温厚な孤児院長も、私の度を超した悪戯(私は大まじめだったが、彼にはきっとそう見えていた)には雷を落としたが、しかし私には情熱があった。幸いにして知識もあった。アユミはなろう読んでたからな。試作品までこぎ着け、それが使用に値する価値あるものだと認めて貰えれば、そこからはとんとん拍子。
元々、孤児院なんてものは儲からない。儲けを出すための施設でないのだから当然だが、有り体に言って貧乏であった。だから、これはお金になると私が訴えれば、院の皆に協力を取り付けるのは容易かった。頭の硬い院長も、私が精油、化粧水、乳液を生産し始めた頃には折れてくれた。美容に使うこれら品々は、今やこの小さな街の特産品となりつつある。
何故私が清潔用品、美容品の開発に勤しんだかと言えば。それは当然、美を磨くためである。ただ、「私の」ではなく「リヨ」のなんだけれども。
リヨの可愛らしさは、より一層のものとなった。幼児の肌ゆえ、化粧水や乳液の効果は然程認められなかったものの、清潔にすることは一定以上の効果を見せた。はじめて見たときも輝かしい金の髪だと思ったものだが、シャンプーとリンスで磨かれたさらさらふわふわの猫っ毛を見てしまえば、前のそれはくすんだ金だったと認めざるを得ない。
これには町長夫人もご満悦であった。実際の効果を目の当たりにした夫人は、これらの商品をこぞって買い求めた。リヨの母君だけあって、彼女の美貌もまた飛び抜けたもので、その彼女の美しさを磨くのは、リヨとは別の趣があった。また、夫人が第二子を授かられたのも、ちょうどこの辺りであった。
事業が軌道に乗り、孤児院の経営状況が遙かに上向いて、新たに手に入るようになったものがある。それは、布だ。これまではみな一様に継ぎ接ぎだらけの衣類を纏っていたのだが、冬を越すのも安心できるくらいの厚着が出来るようになった。さらには、多少のお洒落が叶うくらいには。
さすがに衣類を自作するのはなろう読んでる私でも難しかったので、仕立屋や糸問屋に物を注文した。孤児院にて繕い物を一手に引き受ける、針仕事に腕のいい姉貴分が居たので、彼女に頼んで衣装を縫製して貰った。
彼女、アテ姉は、こんな贅沢な召し物なんてうちには勿体ないよとぼやいていたが、しかしその衣装は別に私らが着るためのものではない。当然、リヨに着てもらうためのものである。
試行錯誤を繰り返して出来上がったそれは、ひらひらふりふりの白いワンピース。小児用のごく小さなものだ。サイズはきっちり測ってある。私が着るにはちょっと小さいけど、リヨなら着こなしてくれるだろう。
さて、あとはどう着替えさせるかが問題であったが。しかしすでに策はある。私はリヨを誘い、雨上がりの森でいつものように駆け回って遊んだ。そして、リヨは足場の悪い泥濘で足を滑らせ、どろんこになった。ね? 簡単でしょう?
お風呂(これも作った)で一緒に泥を洗い流す。洗濯した服はまだ乾いてないので繋ぎにこれを着てねとワンピースを渡す。初めて見るワンピースに彼は戸惑っていたが、しかしはじめて見る衣装ゆえか女物の服という意識はないようで、私のお手伝いの手を借りつつあっさり着てくれた。
天使だった。天使が舞い降りた。降臨だ降誕だ。すごい。私はその日、神話に触れた。初めて女装という一線を越えてもらったが、これほどとは思わなかった。私は、変態だったのか。今更気付いた。これ、いける。いけるよ! リヨ男の娘化計画いけるって!
味を占めた私は、私の理想を体現すべく、針子としてのアテ姉に師事した。アテ姉も、自分の縫い上げたワンピースがどう着られるかを確認すべくいたところ天使に遭遇したので、満更でもなさそうだった。
今回は初めての試みということもあり、比較的縫製が簡単なワンピースに落ち着いたけれども、まだまだたくさん着て貰いたい服はある。いっぱい着せて、リヨにもこういう衣装に慣れていって貰えれば、尚のことよい。
出会った初日に友誼を結んだ私とリヨは、以後もよい付き合いを続けていた。孤児院の事業が大きくなるにつれて、商品開発と生産の指揮を執って忙殺されていた私は、リヨの愛らしさに何度心を救われたか知れない。
「ね、ねえリヨ。大きくなったら、私のおよめさんになってくれるかい?」
「ふ? うーん。いいよ! アユミねえのこと、すきだもん」
その日の約束は、私の胸の内に燦然と輝いてやまない。単なる子供同士の間に交わされた約束であったとしても。
後から聞いた話だが。リヨが孤児と親しくすることにあまりいい目を向けない大人もいたらしい。事業が軌道に乗れば、そんな声も薄れていったようだが。
しかし、万が一にも未来の義母に隔意を持たれては敵わない。私は町長夫人に、買い求める必要もないくらいに貢ぎ物を送った。孤児院の事業が大きくなったせいもあり、今では町長の家と孤児院とは、密接な繋がりが出来ている。
「今日も可愛いな、リヨは。早く嫁に来て貰いたいものだけど」
「えへー、そうだね。早く結婚できたらいいね」
幾度となく、将来を誓い合う。ままごとではあっても、私にとっては真剣そのものだった。
私とリヨは朋友として共に育ち。野山を駆け巡って遊んだり、お勉強を見てあげたり。時には孤児院の仕事の手伝いと称して化粧品を試用してもらったり、或いは自作の衣装の試着をしてもらったり。蜜月を過ごした。
リヨは、私が可愛いと言うと一度むず痒そうな顔をして、それから決まってはにかむ。その笑みがまた可愛らしくて、私はどうしようもなくなる。だから、私はことある毎に彼に可愛いと言った。嫌そうな顔は、しなかった。
「リヨ、君の可愛らしさは三千世界に響き渡ってなお余りある」
「可愛い。泣ける。ああ……ありがとう。可愛い」
「おや、可愛らしさ全一発見伝」
「リヨ、君は世が世なら傾国の稚児と言われていたと私は確信する。そうならないためにも、私が君を守ってあげないとね」
「っっか! 可愛すぎてもう我慢できない! 鮎巳真二郎トランスセクシャル! リヨくんのはじめてを確保しろ! いく、いくーっ!!」
「天使に勝るとも劣らぬ君の可愛さは宗教画の一枚に仕立てたいほどだけど、残念ながらどんな画家でも君の可愛らしさの万分の一も表現できないだろう」
たっぷりの愛情を込めて育てた。私と彼のそんな奇妙な幼少期は、七年ほど続いた。
翻って、現在。私は、狼狽えていた。これまでの付き合いにおいて、見たこともないような、リヨの剣幕。それを受けて、私は混乱しきりだった。だから、碌な言葉も紡げないまま。リヨがすたすたと強い足取りで遠ざかっていくのを見送るしか出来ず。
「っ、あ。ま、待って」
ようやく出てきた言葉も、遠い彼の背には届かなかった。……行ってしまった。
「……どうしよう」
ここまで上手くやってきたんだ。きっと今日は虫の居所が悪かったとか、そういうだけで。……大丈夫だよな。自問自答するも、当然答えは返ってはこない。私に巣くう不安が晴れることもなかった。
――――――――――――――――――――
私はなんとなく、明日になればリヨがいつも通りのリヨに戻っていて、何事もなかったかのように接してくれるものかと思っていた。例えるならば、姉弟がちょっとした喧嘩をした翌日、多少のぎこちなさを覚えつつも平素のように振る舞い、やがて怒りも不和も日常に埋没させていってしまう、家族の有り様のように。
でも、そうはならなかった。それは私の願望でしかなかった。今や私は、針のむしろで簀巻きにされた上から縄でハムみたいに縛りつけられた挙げ句馬に市中引き回されるような、そんな苦しみに苛まれている。
翌日、朝から孤児院に訪れていたリヨに、私は問い掛けた。
「な、なあリヨ。今日のお勉強のことなんだが」
「ごめん。暫くは家庭教師の人に来て貰うから。アユミ姉は自分のお仕事に集中していいよ?」
言葉を交わしてくれないわけではない。ただ、一見してこちらを気遣うかのような言葉にも、多少なりとも拒絶の響きがあった。
私とて、前世で大学を出る程度の頭はあった。リヨのお勉強を見るのも、いつしか私の役目の一つだった。将来への投資とも言う。しかし、そのお役目も御免となってしまったらしい。
「……そうだ。今、孤児院で新しいお菓子に挑戦中なんだ。勉強が終わったら一緒に作らないか?」
「いっ、いや……僕はいいよ。そういうのは、女の子だけでやるといいんじゃないかな」
新作お菓子という言葉に一瞬たじろいだリヨは可愛かったが、しかし撥ね除けられる。孤児院には、彼専用のエプロンドレスが四着ほどあるが、今後その袖に腕が通される日は来るのだろうか。
「あ、実は、異国の学校の制服を模した服を仕上げたんだ。前から着手していたやつさ。きっと似合うと思うんだけど、よかったら……」
「……一応聞くけど、それって女の子の着るようなやつ?」
「それは、まあ……女子用、なんだけど」
「っ、そういうのはもう他の誰かにでも頼みなよ! 僕は知らない!」
ああ……怒らせてしまった。声と肩を震わせ足早に去って行く彼の背を眺め、大愚なる私はようやく悟る。彼は、本気で嫌がっている。男の娘を。私を。
「いつもなら、私の言うことはなんでも素直に聞き入れてくれたというのに……」
「そりゃあんた。あの子がそれだけ大人になったってことでしょ。結構なことじゃない」
孤児院の一室にて、私は黄昏れていた。遠い目をして窓の外の空を眺める。空の色は、私がリヨと出会ったあの日から変わらないままなのに。そんな私に、鬱陶しそうな表情を隠そうともせずアテ姉が答えた。
「それより、サボってないで仕事しなさいよ。口を動かしてもいいけど、手も動かしなさい」
「はい、はい。すみません」
アテ姉に従い、私は手を動かす。今、私たちが向かっているのは書類仕事だ。孤児院の事業拡大に伴って、こういう事務仕事が増えた。出納の記録に始まり、もの作りの現場からの発注書、最近では商人との手紙の遣り取りも多々ある。
アテ姉は才女だ。私との親交の影響もあって、文字の読み書きや簡単な計算が出来るようになった彼女は、今となってはお針子と言うよりキャリアウーマンの様相を呈している。成人しても嫁の貰い手がなく孤児院に居座り続けているのは、もしかしたら私にも責任の一端があるのかもしれない……。
「……何故だろう、こんな美人なのに」
「は? 今無駄口叩いた?」
私が思わず口にしたら、眉間にしわ寄せ凄まれた。美人が怒ると、怖い。こういう所も、結婚から遠ざかる理由ではないかと思うが、絶対口にはしない。これが照れ隠しだということが解る男がいれば、きっと放ってはおかないのだろうが。
前述の通り、彼女は美人だ。この周辺の地域の人間には、地球で言うところのコーカソイド的な特徴が顕れているが、アテ姉もその体現者である。自分たちで手がけた美容の品々によって磨かれた白い肌に、やや癖のあるふんわり捲いた金髪。輝く翡翠の瞳は、目つきの鋭さも相まって、容易に手出しできない宝石という感じ。髪も眼も、リヨと同じ人種的特徴を持っている。更に言えば、スタイルもいい。乳も尻も、ついでに背も高い。
比して、私はと言うと。黒髪黒目。どうして異世界に生まれ直して尚、日本人的な特徴を受け継いでいるのか、これがわからない。いちおう、自分でもそこそこ整った顔立ちだとは思うものの、アテ姉の外人パワーには及ばない。得てして日本人は欧米人を有り難がるものなのである……。また、やや貧相な体つきをしている。同じ孤児院の飯を食っているのに、どうしてここまで差がついたのか。いや、別にでかい乳尻が欲しいわけじゃあないが。
無駄口を止めてお口チャックした私の沈黙をどう受け取ったのか、アテ姉は突如衝撃的な言葉を吐いた。
「生憎だけど。私にも、そういう話が来てないわけじゃないの」
「えっ」
「なにその、一欠片の想像さえしてなかったみたいな顔。腹立つ」
「い、いやあそんなことは。続けてください……」
ふん、と軽く鼻で息を吐いてから、決算の手を止めることなく彼女は述べる。
「まあ、いちおうは? 今この辺りで最も台頭している化粧品工房の纏め役だし? 姻戚で渡りを付けたいっていう商家なんかはそこそこあるのよね」
「へぇ……」
「必要なら、受けるのも吝かではないつもり」
じゃあなんで、という言葉はしまっておいた。たぶん、彼女は照れてしまうだろうから。これは私の推測でしかないが……きっと、結婚して彼女が孤児院を離れたら、後に残される者の仕事が大変になるだろうからとか、そんな彼女らしい迂遠な優しさとか、責任感とか。そんなところだろう。
後継者教育が急務だな。私の我が儘で美容品の品々の開発、販売なぞ始めたのだから、こういうケアは私の責任だ。
ちなみに、私の孤児院に於ける立ち位置は、言うなれば『ご意見番』的な何か。そもそも孤児院は系統立った組織でもなんでもないので、役職とかそういうのはないのである。基本的には年功序列。精々が、責任者兼顔役が院長で、実質的ボスがアテ姉とか、そんなふわふわした感じなのだ。
「……そういえば。私のもとにはそういう縁談、いっこも来たことないな」
ふと思い立って口をついて出た。気付けば私も十二歳。あと三年で成人だが、そういう話には全く縁がない。まあ、私だからしょうがないけども。まあ、仮にあってもシカトするけども。私の呟きに、アテ姉は胡乱げな目線を向けてきた。
「そりゃあんた……リヨといい仲になってるあんたの元にそんな話、院長が持ってくるわけないでしょ」
「ああ……なるほど」
いい仲。いい仲かあ。さもありなん。これまでの私たちの軌跡を鑑みれば、宜なるかな。ちょっとばかし照れるが……しかし、それよりも先に、考えないようにしてたリヨのことが、再び脳内を占拠した。
「ううん。順調、だったと思うんだ。リヨは、何が気に入らなかったんだろうな」
「……手ぇ、止まってる」
スミマセンと謝辞を述べ、再び算盤を弾く。やや間を置いて、アテ姉が私に問い掛けてきた。
「それでアユミ。あんた、どうするつもりなの」
「ううむ……どうすると言われても、どうしたらいいものか」
アテ姉が、眉を顰めた。
「今まで、ずーっとこうしてきたし、リヨも嫌そうにはしてなかったんだ。それが、急にこんな態度を変えるんだから、何かしらの外的要因が働いてるのではないかと思うのだけど」
雨の時も、陽射しの時も。風の日も、雪の日も。私はリヨを珠のように扱い、全霊を尽くして可愛らしく育ててきたつもりだった。邪な動機ではあっても、自分本位な動機であっても、そこには嘘も妥協もない。だからこそ、一昨日まで普通に女の子の格好をして楚々と笑い、地上に舞い降りた天使の如く愛を振りまいていた彼が心変わりした理由には、皆目見当がつかなかった。
「……本気で言ってんの?」
「えっと、まあ」
問い詰めるようなアテ姉の眼差し。なんとはなしに居たたまれなくなって、私は頭を掻く。仕事の手を止めてしまったが、アテ姉はそれを注意したりはせず。多分に険を含ませて私に言い放った。
「呆れた。いや……ここまで来たらいらつくわ。だから、教えてやらない」
少し悩むといいわ。そういって、それきり机に視線を下ろしたまま、アテ姉はこちらを顧みることはなかった。私は重苦しい部屋の空気に圧迫されるように、ごめんなさい、と謝罪を絞り出したが。私に謝ってもしょうがないでしょうと、こちらを見ずに彼女は言った。
昼下がり。町長の家は、孤児院から然して遠くない。なにせ小さな街だから。仕事の合間に足で向かってしまえる程度の距離なのである。
とはいえ、私とリヨは絶賛仲違い中である。悲しいがそれはもう認めるしかない。故に、堂々と正面から赴くことは出来ない。今から行うのは、そう、ちょっとばかり、様子を確認するだけ。
町長の邸宅はこの町でも一番の大きさで、高さも三階まである。単なる居住地というより官邸の趣が強く、領都からやってくる徴税官などを饗応するといった役目を担っている。
邸宅は石積みの塀によって囲われている。私の背丈では、中の様子を窺うことは出来ない。塀の外で、私は空を仰ぐ。木が豊かに葉を生い茂らせて、さわさわと風にそよいでいる。私は一通り周囲を見渡し、人影のないことを確認してから、木の幹に手足をかけた。木登りの勝手は知っている。お淑やかなのはリヨだけでいいのだ。
いた。人影が二つ。すぐに見つかった。天使はいつ如何なる時どんな場所にあっても輝いているものだ、目に留まりやすい。広い邸宅の庭では、なんと、リヨが剣を振るっていた。模造剣だろうが……玉のような汗を零し、それでもひたすらに、ひたむきに。ああ。ああ。なんということだ。その姿は、子供ながらに強く真剣味を帯びていて、見る者に尊ささえ喚起させるとともに、戦乙女のように麗しくも魅了する。だが……その名画のような姿を目に焼き付けながらも、私は心の内で悪態を突いていた。
素振りなんてしたら、ぷにぷにの二の腕が損なわれてしまう! こんな太陽の下じゃ、桜色の柔肌に染みが出来ちゃう! と。
臍を噛みつつ、私はリヨの傍らに立つ男……いや、女か。女を見据えた。大人の女だ。金の髪は短く刈り上げ、体格もかなりいい。男と見紛うほどだ。そして、知らない顔だ。自然体で腰に剣を佩いている佇まいは、女が一角の武芸者であると私に示す。それだけ剣が身近にある生き方ということだろう。
女はリヨの素振りを眺めながら、時折なにやら口を出している。状況から鑑みるに、おそらくは、剣の指南役といったところだろう。
なぜそんなことを。剣なんて握らなくてもいいではないか。リヨが武に憧れていたなんて話、聞いたこともない。無理矢理やらされているのか? しかし、あのリヨの熱心さを見てしまえば、そんな疑問も否定される。これは、彼の意思と見るべきだろう。じゃあやっぱりなんで。
誰かの影響だろうか。状況としては、隣の女性が怪しいとは思うのだが……しかし、彼女が何者かも分からぬままでは、結論を急ぐのはまだ早計だ。……違うと思いたい。でも、だったら、誰のため? 少なくとも私のためではあるまい、私はことある毎に彼の可愛らしさを褒め称えていたのだから。彼の行為は、可愛らしさとは対極にある。
わからない。七年間一番一緒に居たのに、彼の心が分からない。しばらくぽーっと眺めていたが、私はやがて我に返る。眺めていても仕方がない。木から下りて、逃げ帰るように孤児院に戻った。思ったより時間が経っていたらしく、アテ姉に怒られた。ああ、ままならないものである。願わくば、私と町長夫人が教育した通りに、リヨがこの後肌のケアを怠らなければいいのだが。祈ることしか出来ない。
翌日のこと。眠い目を擦りながら私は目覚める。鏡を見れば、眼にはやや隈ができていた。あまり、寝られなかった。心乱されてばかりいる。大天使リヨちゃんは、実は小悪魔だったらしいな。いけない子だ。欠伸を噛み殺しつつ、朝食を済ませる。眠くとも飯は入れねば。孤児の一日は結構ハードであるので。
朝食を済ませると、本日の持ち場に移る。井戸から掃除のための水を汲んでいると、孤児院の農場の方で光が輝いていた。あ、違った、リヨだった。いや、違わない、光だ。私にとっての。
今日も遊びに来てくれたのか。でも、どうして朝から農場なんかに? 私は疑問を覚えたが、絶賛喧嘩中の今の私では、それを彼に直接尋ねられるほどの度胸はない。井戸水を引き上げつつ、横目で観察する。……どうやら、畑仕事の手伝いをしているらしい。なんで?
リヨが、辿々しい手つきで鋤を振るっている。その動作は初々しいものを感じさせるが、それも当然、彼は町長の嫡子であり、農作業など触れてこなかったはずだ。そして、彼に力仕事などさせたくない私としても、触れさせないように努めてきた。
隣にいるのは、アテ姉だ。まあ、そういうこともあるだろうと私は思った。リヨは特にの理由もなくしばしば孤児院に遊びにやってくる。そうするように事を運んだのは、幼き日の私だ。リヨとアテ姉はお互いに知己ではある。間に挟まったのも、過日の私だ。しかし。釈然としない。むかーし、生まれる前の昔、仲の良い友達らが自分抜きで遊んでいたのをたまたま発見した、あの時の気持ちと似ている。
和やかな雰囲気だった。二人の距離感は、母親の手伝いに張り切る娘にも見えたし、或いは仲睦まじい男女のようにも見えた。私がよく顔を合わせる二人の筈なのに、並んでみせれば全然違う印象を受けるから不思議だ。
複雑な思いで眺めていると、そのうちアテ姉の視線が私を捉える。こちらに気付いたようで、彼女は手招きをした。私は、アテ姉の隣の彼が、嫌そうな表情を浮かべていないのを確認してから近寄った。
「……おはよう、リヨ」
「お、おはよ、アユミ姉」
目線を交わさず、私たちは朝の挨拶を交わす。どこかぎこちない。けれども、ああ、こんな私にも一応は言葉を返してくれるリヨの情け深さは五臓六腑に染み渡るでえ。
「あんたら、まだ喧嘩してんの? 馬鹿ねえ」
私たちの様子に、思わずといった感じにアテ姉が言葉を漏らした。いやあ、面目ない。
「け、喧嘩なんかじゃないよ! 僕はただ……」
思わぬ反駁を見せたのは、リヨだ。しかし、その言葉は途中で途切れてしまう。喧嘩じゃないと、思ってくれていたのか。涙がちょちょぎれ。でも……「ただ」、なんだ。「ただ」なんなんですかあ。
「……ま、いいわ。それよりほら見て、アユミ。リヨが手伝ってくれたおかげで助かっちゃった」
辺りを見渡しながら、アテ姉はやや大げさに喜んで見せた。なるほどたしかに、畑の土は既に深耕されていて、これなら野菜の生育にも充分だろう。すぐにでも苗を植えてもよさそうである。
「やっぱり男の子は頼りになるわ」
「え、へへ……」
アテ姉がそう褒めれば、リヨは気恥ずかしそうにやや俯いて、しかし喜びに表情を綻ばせた。っ可愛い。可愛いけどぉー! ほっぺたに泥を付けてるのもまた可愛いけど……でも、泥にまみれる必要はないんだよ。
「で、でもさ。リヨは町長の家の子なんだ。こんなことはやらずとも」
「そうかもしれないけど。僕がやりたかったから」
照れと、自信と、誇らしさと。そんなものが綯い交ぜになった顔。普通の女の子ならきゅうんときてしまいそうな、そんな笑みでリヨは言葉を紡いだ。
う、うおう。やめてくれないか、そういう、小さかった男の子がいっぱしの成長を遂げて大人になりつつある的な、子供と大人の境目のような表情をするのは! 親心とか姉心を刺激するようなその表情! 隣のアテ姉が心配になるわ。私は、私は今のまま君に男の娘でいて欲しいのに!
「リヨ……立派になったのね」
ああ、ほら! 感極まったっぽいアテ姉がリヨを抱きすくめてしまった。リヨは突然の抱擁に戸惑っているのか、抵抗できていない。やめないか。彼は男の娘なんだ。刺激するべきじゃない。そのでかいものを押しつけるんじゃあない。
更に翌日のことである。
院の広間で皆と昼食を摂っている折に、扉を叩く音があった。そのノック音に、私は思わず腰を浮かせる。今では、この孤児院を訪れる人も多くなったものだが、しかしその音を、私が他の音と聞き違えるはずもない。やや控えめな、割とゆっくりめの、三回のノック。彼だ。
はあい、と、同じく食事中の院長が手を止め対応に出れば。こんにちは、と、やっぱり聞き覚えのありすぎる、柔らかで澄み切った声色が耳に届いた。同時に、聞き覚えのない野太い声も。
果たして、扉の向こうにいたのは、案の定リヨであった。ただ、その風体が、あまりに彼のイメージからかけ離れていたので、私は思わず言葉を失う。なんで天使が、猪の毛皮を纏っているんだ?
「おやおや、リヨくん。いらっしゃい。その格好は?」
「ご無沙汰です、院長さん。実は、山で兎が多く獲れたので、お裾分けに来ちゃいました」
なにやら誇らしげな声色を滲ませて、屈託なく笑みを浮かべてリヨは言った。
「それはそれは。ありがとう、リヨくん。それと、後ろの方は……?」
リヨの後ろには、リヨと同じように毛皮を纏ったむくつけき女が佇んでいる。町長の邸宅で垣間見たのと同じ人物だ。近くで見れば、顔にも身体にも幾つも古い傷跡が浮いている。同時に、鍛え抜かれた肉も見て取れる。というか、あの毛皮って、よく見なくても熊だよな……。こわい。
「お初にお目にかかる。おれは行商人の護衛としてこの町に滞在しているもんだが……縁あって、リヨの修行の手伝いをしている」
「ほう。修行」
「ちょっと、師匠」
なにやらリヨが慌てた様子で、熊女の腰巻きを引っ張る。おっと悪い悪いと、悪びれもせず浮薄に笑う女。なにやら、親しげ。不意に、ちらと女の目線が私を捉えたような気がした。
「不肖の弟子が、狩りをしたいと言うのでな」
「か、狩り? リヨが、狩り!?」
私は思わず立ち上がって声をあげた。自分でも素っ頓狂な声だったふうに思う。リヨが私の様子を認めて、肯定した。
「そ……そうだよ?」
なんで、と呟きが漏れる。虫も殺せなかったリヨが、狩り。リヨが、狩猟。私のうちではその二つの点と点が、どうしても線で繋がらなかった。余りにもかけ離れていたから。熊女が口を挟む。
「おう。狩りだ。おれの故郷では、一人前と認められるには狩りが出来なきゃならねえ、女でもな。そういうわけだ」
いや……何がそういうわけなんだ。なるほど、わからん。「女でも」って、リヨが女の子みたいだってことか。いや違うか。違わねえよ。……ともかくとして、この女がリヨを狩りに導いたとみて間違いないだろう。……おのれ野蛮人! 心中で罵倒した。怖いので口には出さない出せない。
「だ……だめだそんなこと。危ないよリヨ。怪我でもしたらどうする」
「だ、大丈夫だよ。一人じゃそんなことはしないし、師匠もついててくれたもの」
彼はそう口にしたが、しかし、私には納得が出来なかった。もしくは、しようとしなかった。さすがにこれは。今まで私が彼に奉じてきた「可愛らしさ」が、彼のうちから消えていってしまう気がして。いらないと言われている気がして。言葉が止まらなかった。
「でも。君は、可愛い君にはそんなのは似合わない」
「っ、アユミ姉」
突如発された大きな声。一瞬、それがリヨの発したものだということが、私には分からなかった。一転して、静寂。その場にいる誰もが音を立てようとしない。やがて、ぽつぽつと紡いだのはリヨだった。
「……大きな声、出して、ごめん。でも、僕だってもう、子供じゃないんだよ……?」
真に訴えるような、そんな目線。それを、私は、受け止めることが出来なかった。目を逸らす。独りでに、すまないと小さく言葉が漏れた。
――――――――――――――――――――
どうにも身が入らなかった。
私には、色々とやることが多い。経営に関する書類仕事をしたり、工房での商品製作を監督してやったり。或いはふつうの孤児がするのと同様に炊事洗濯、衣服の繕いものに、農地と家畜のお世話なんかもしたり。でも、そのどれも芳しくなかった。
リヨのお勉強を見てあげたり、着せ替えたり、一緒に遊んだり。このところそういう時間はなかった筈なんだが。いつも以上に身体が疲れ、重かった。おそらくこれは心労に起因する重さなのだろう。
どうしようもなく挫折。男の娘育成計画は、もはや私の目には頓挫したと映っていた。
あれから。私とリヨは顔を合わせてすらいない。その程、およそ一週間。これまで、私と彼がこんなにも長く離れていることがあっただろうか。
実は、私から町長の家に赴く機会はまずない。出来ても、塀の外から眺めるくらいが限度。関係性が深いとはいっても、官邸でもある町長の邸宅は、私が気軽に遊びに行ける場所ではない。私とリヨが落ち合うのは、ほとんどの場合孤児院だ。故に、彼が渡りを付けなければ、私と彼の関係性は遠ざかるしかない。一週間、彼は姿を見せていない。
ベッドに横たわれば、色々なことが頭を埋め尽くす。……。愛想を、尽かされただろうか。男の娘など、どだい無理な話だったんだ。きっと、私などよりも相応しい相手がいる。胸中渦巻くのは、自己嫌悪と諦念と、それから、僅かばかりの嫉妬心。
……懺悔しよう。間違っているとは、分かっていた。男の娘など、少なくとも他人にやらせるものではない。彼にその素質があることはたしかであるけれども、だからといって、まだ男女の分別が曖昧であった彼につけ込んで、彼の可憐さに魅入られて、私がそういう方向に持っていこうとしたのは……間違いなく悪徳だ。決して赦されやしない。
負い目がある。罪の意識がある。罪業に名を付けるならば、虐待とか虐めとか、そのあたりか。だから……彼の隣にいるのが私でないのも、きっと正しいことなのだと今は思える。
彼は、私の「可愛い」という言葉を拒絶した。それは、私の愛情表現を拒絶されたに等しい。男の娘である彼を愛でる、私の歪んだ好意を伝える言葉が「可愛い」であり。そしてそれは否定された。彼は、男の娘をやめ男の子へ、そして男へ至ろうとしている。
正直に言えば。私は彼に好意を向けられているものと思っていた。蜜月の幼児期を過ごした間柄だ。子供ながらに結婚の約束だってした。そう思って然るべきだ。でも、今それが揺らいでいる。私が、私と彼の間にある関係性を、信じ切れていない。
……アテ姉が、彼の隣になるのだろうか。特定の相手がいるわけではなさそうな口ぶりだった。売り出し中の孤児院の纏め役と、町長の嫡男と。縁を結ぶのならこれ以上ないふうに思える。加えて言うなら、彼らはきっとお互いを憎からず思っていることだろう。
或いは、あの師匠とかいう女性も親しげだった。考えてみれば、彼が男らしくなる宣言をした翌日にはもう、彼と彼女は町長の邸宅で素振りをやっていた。彼が男らしさを伴う行動を始めたのは、おそらくあの師匠と友誼を結んだ時期と合致する。彼は、かの女性の男らしさに惹かれたのだろうか。
いずれにせよ。アテ姉のように麗しく、女らしくもなく。かといって、かの師匠のように逞しく、男を貫くことも出来ない。男らしさにも女らしさにもなりきれない存在。それが私だ。中途半端を拗らせた挙げ句、彼に男の娘であることを強いた、悪漢かつ毒婦。
目を逸らしていた己の失。見ないようにしていた己の間違い。気付かないふりをしていた己が咎。救えないことに、それを自覚できて、安心を覚えている自分がいる。
駄目だったのは分かっていたんだ。だから、まかり間違って、あのまま彼の隣にいるのが私でなくて良かったと、そう安心しているのだ。それでも最低なのには疑いないのに、最も最低な結末ではなく次善の最低でよかったと、そう安心しようとしているのだ。結局、彼を歪めたことには違いないのに。
己が手をじっと見つめる。力仕事、水仕事も多い孤児の身ながら、自作のハンドクリームの効能もあって、働き者の手ではない。そこそこ、綺麗といっていいかもしれない。私は横たわっていた上半身を起こす。
変わろうと思う。遅きに失した感はあるが……そうせずにはいられまい。私の罪は、誰が裁いてくれるわけでもない。裁ける者がいるとしたら、きっと自分自身だ。罪深い存在である自分を、男の娘などと世迷い言を言い出した自分の精神性を、アイデンティティに変革を。変えなければならない。直さなければならない。消さなければならない。
私の罪は、私が許せるわけもない。許せる者がいるとしたら――
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「君が突飛な行動をするのにも慣れたと自負していたんだけどね……。どうしたんだい、アユミ。悪いものでも食べたかい?」
「いえ。至って真面目です」
朝一番。朝食よりも前に、私は院長室にて面談をしていた。机を挟んで向き合う。慣れないスカートが皺にならぬよう気をつけつつ、両脚を閉じて椅子に腰掛ける。院長は人の良さそうな面差しに、多分に困惑を湛えて私に問うた。
「私宛の縁談、院長が断ってくれていたと小耳に挟みました。お心遣い、痛み入ります。でも、私のことは気にせず、どうぞ孤児院の利になるよう、ご自由に取り計らって欲しいのです」
「……え。なんだい、それ。その、喋り方も」
戸惑いを正直に表す院長。この反応は予想できていた。だから、用意していた言葉を紡ぐ。
「私も十二歳です。分別のつかぬ時期は過ぎました。三年すれば成人して、おそらくは家庭に入るのでしょう。その時のために、今から淑やかに振る舞いたいと思ったのです」
「それはまあ、僕としては嬉しい話だけど。でも聞きたいのはそこじゃなくって」
「院の顔である院長には釈迦に説法でしょうが、私たちと縁を結びたがっている商家はたくさんいます。正直、今の孤児院ではこれ以上の規模の拡大は望めません。彼らと縁を結べば、人員も販路も拡大が見込めます」
「いや、でもね」
「これは、私の我が儘で始めた事業です。ですから、私が解決しなくてはいけない問題かと思うのです」
押しに弱い人なのも知っている。努めて畳みかける。院長はしばらく難しい顔をした後、渋々といった体で頷いてくれた。私は静かに頭を下げる。ただ、院長はそれから一言、僕だけでは判断しかねるから少し考えさせて欲しいと付け加えた。
「なにやってんのあんた。悪いもんでも食べた?」
「いえ、別に」
朝食の席で、アテ姉が私に放言した。今も、私と貴方は同じものを食べているのだけれど。胡乱げな視線でじろじろと私を観察しつつ、彼女は問うた。
「いや、どう見てもおかしいでしょうが。ふつうになさいよ、ふつうに」
「それは、承服いたしかねます」
背筋を常に伸ばし、音は極力立てず、挙措の一つ一つは恭しく。当然、口にものを含んだまま話すことなどしない。
「似合わないから。悪いこと言わないから止めときなさい。子供たちが怖がってるじゃない」
「……似合わずとも、やるのです。付け焼き刃で今は見苦しいかも知れませんが、そのうち様になると思いますので、どうかご寛恕ください」
形から入るのは、悪いことではない。今の私は、いつも履いている男子用のズボンはタンスに仕舞い、上下一枚のエプロンドレスに身を包んでいる。一般に孤児院の女子が身に付けている衣服だ。食事の席に於ける淑女としての振る舞いは、前世の知識の流用の他、町長夫人やアテ姉を参考にしている。後は、今は肩口までしかない髪の毛がもっと伸びれば、幾らか見れる女にはなるはずだ。
……これまで考えたこともなかったが。髪の色を抜く薬品を作るのは、さすがに難しいだろうな。製法をまるで知らない。瞳の色も、カラーコンタクトがあればと思うが、コンタクトレンズさえない現状では、どうしようもないか。……いや、いやいや。何を未練がましいことを考えている。
アテ姉はまだ何か言いたそうにしていたが、隣に座る院長がなにやら耳打ちすると、やがてむっつりとした顔で食事の手を再開した。
前世からの悪習は、容易に抜けるものではない。だから、女らしい立ち居振る舞いを徹底するのも、簡単なことではなかった。だが、簡単でないのが、却って良かった。それに意識を集中している間は、他のことを考えなくてよかったから。
本日の分担である洗濯を済ませて、それから事務室に向かう。しかし、アテ姉の姿がない。私より遅いなんて珍しいなと思いつつ、事務仕事を始める。文字も、至極丁寧さを心がけた。数枚の書き物を終えた頃、扉を開ける音がしたが、それはアテ姉ではない別の孤児だった。ついでに尋ねてみる。
「あの。アテ姉が姿を見せないのですが、何か聞いてませんか?」
「え、ああ。院長と出てるみたいですよ」
「そうですか。ありがとうございます」
外か。たしか、会合の予定は入ってなかったはずだけれど。
それから、お昼時になっても、アテ姉と院長は戻ってこなかった。ふと外を見遣れば、空に黒雲がかかり始めている。降り出すようなら、洗濯物を取り込まないといけない。
昼食を終えて、孤児院の一角の工房にて、技術指導を行う。とはいっても、作り方はおおよそ伝授しきってあるので、私がやることと言えば、完成した物の出来映えを確認する程度だ。小さな土瓶に入った、マンネンユキノシタやハガネノキハダのエキスを溶かし込んだ化粧水を、僅かに手に乗せる。不純物、なし。臭い、なし。問題はなさそう。薄く延ばして腕に塗る。パッチテスト。
……。これも、女磨きには必携の美容品だ。私はなんとなくもう一回化粧水を手に取り、今度は反対の腕に塗り込んだ。塗ってから、勿体なかったかと思った。乾燥を防ぐため、あとで乳液も塗らないといけない。初めは彼に使って貰うために作り始めたのに、こうして自分が女を磨くために使うという構図を、今更ながらにどこか奇妙だと思った。
彼は、もうこの化粧水も使わないのだろうか。彼は、男だから。もう、いらないのかな。いけない。考え出したら止まらない。蓋をした気持ちが、考えないようにしていたあれこれが、急速に湧き上がってくる。
同時に、思わず乾いた笑いが漏れた。はは、女々しいものだ。もうすでに、私は立派に女ではないかと思ってしまいそうだ。これなら、相手が彼でなく、ふつうのむくつけき男であっても。……でも、想像してみると、やっぱりいやだった。ううん、度し難い。
もう、男とか女とか。よくわからなくなっていた。曖昧な境で入り混じった色合いの中に私は独りでいる。
「アユミ。アユミ。大丈夫? 顔色、良くないけど……」
「あ……ええ、はい。ごめんなさい、手を止めてしまって」
「そう? ならいいんだけど……あ」
ぽつぽつと雨音。雨が降り始めた。
下品にならない程度に急いで洗濯物を取り込み終えて。私は建物の中に戻らず、孤児院の農地の木の下で、降りしきる雨を眺めていた。畑では、つい最近植えた苗のまだ若々しい黄緑が、雨の滴に打たれて不規則に揺れている。私の頭にも、頭上の枝葉の隙間から、時折ぽつりぽつりと雨粒が落ちる。
ふと、雨音とは違う音が耳に届く。無遠慮に水たまりを踏むような足音。茫洋と目線を向ければ、果たしてそこに佇んでいたのはアテ姉であった。傘の中の彼女は、むっつりとした表情をしていた。
「……おかえりなさい、アテ姉」
「ええ。ただいま」
どことなく語気が刺々しい。まあ、今の私はサボっているわけだから、当然か。言い訳をしなくては。ええと。
しかしながら、私がてっきり怒られるものと身構えていると、彼女は開口一番に思慮の外から言葉で殴りつけてきた。
「ねえ、アユミ。あんたはいつもリヨに可愛い可愛いとは言うけれど。もしかしたら、「好き」って言葉を口にしたこと、一度だってないんじゃないの」
「……」
息を呑んだ。足元が、地面が揺れたような、そんな錯覚を覚えた。
「これはあんたたちの問題だから、口には出さないようにしてたけど。いい加減、面倒くさいのよね」
足下が覚束ない。頭がぐらぐらする。彼女の言葉も、耳を素通りしていく気がした。
「それと……どうせあんたなら大丈夫かって私が過大評価してたのも間違いだったから、そこは謝っておくわ。……だから、お膳立てだけね」
ただ。アテ姉が身体を翻らせて、建物に戻っていき。替わりにやってきたリヨの姿だけは、こんな時もはっきり見えた。
「……」
「……」
向き合っているが、言葉はない。あるのは雨音だけ。私は、彼の表情を窺いたいと思うものの、それが叶わない。どんな表情をしているのか確認するのが恐ろしくて、目を逸らしてしまう。或いは、罪悪感のせいか。私の罪の象徴。男の娘を育て上げるなどという、ふざけた欲望の発露。それが今、私の目の前にある。喉が酷く渇く。
「アユミ姉」
柔らかなソプラノには、幾らかの緊張が聞き取れた。私も、なんとか言葉を返す。
「……えと、久しぶりだね、リヨ」
「うん、その……久しぶり」
ぎこちないやりとり。いつもは言葉を交わせるだけでよかったのに、今は胸がきりきりするばかりだ。
やがて、リヨがぽつぽつと語り始める。
「僕ね、男らしくなりたいって思ったんだ」
「っ」
心臓が跳ねた。痛いほどに。
「最初は可愛いって言って貰えて嬉しかったんだよ。でも、それだけじゃ満足できなくなっちゃったんだ」
指先が震える。衝動的に耳を塞ぎたくなるが、でも……これは受け止めなくちゃならない。
「男らしくなって……それで」
リヨが、半歩、前に踏み出した。
「アユミ姉に僕のこと、男として見てもらいたかった」
「……え」
思わず、声が漏れた。反射的に顔を上げると、私とリヨの視線が絡んだ。ああ。ああ。久しぶりに見た、精霊が宿ったかのような、美しい翡翠の瞳。
「いつも積極的で、引っ張ってくれる。賢くて、責任感があって、頼りになる。綺麗なのに、自分の魅力に気付いてなくて、自分を省みないで、時々ちょっと危うくて」
男子三日会わざれば刮目して見よというけど、どことなく精悍さが増してるような、そんな気がした。その瞳には、強い意思があった。数度、浅い呼吸を繰り返し。やがて、言葉が紡がれる。
「そんなアユミ姉が……。僕は、アユミ姉のことが好き」
私の目を真っ直ぐ見据えて、そう言った。それから、少しばかり恥ずかしそうにはにかんだ。
なんということだろう。その言葉は、私にとってのまさしく福音であった。今の私、口角が吊り上がってないだろうか。無様になっていないか。彼が、彼も、私を想ってくれていた。嫌われていなかった。私と彼の軌跡は嘘じゃなかった。たまらなく嬉しい。
彼のその言葉だけを受け容れて、彼の手を取れたなら、どんなに幸せなことだろう。胸の内が、ぐるぐる渦巻く。埋め尽くすような歓喜。目の前の現実が信じがたいという戸惑いの気持ち。そして、それから……悲しみ。
「えっとね。アテ姉にね、言われたんだ。アユミ姉の言う可愛いは、その……好きだって意味だって」
「……それは、その」
「すっごく嬉しかった」
たしかに、そういう含意はあった。でも。それだけじゃないんだ。それだけじゃないんだよ。
「……アユミ姉が、僕が男らしくすることをよく思わないのは、この前のことでわかったよ。アユミ姉は、可愛い方が好きなんだよね?」
そうだ。だから。私は彼に強いた。自分のしたことを思い出せ。胸の内の喜びに惑わされるな。
「だからね? アユミ姉に可愛いって言って貰えるのなら、好きって言って貰えるのなら……アユミ姉が望むなら、ぼく、男らしくなくてもいいよ。だから、だからね、僕と」
「だめだ。それ以上は、だめ」
しんと、静まりかえった気がした。雨音さえ、耳に入らないみたいだった。え、と瑞々しい唇を半開きにして、リヨが息を漏らしたのがよく耳に聞こえた。今にも泣いてしまいそうな、そんな顔だった。
そうさせてしまったことが自分で許せなくて、それでも止めない。止めてはいけない。私は、絞り出すように口を開く。
「違うんだよ。私はそんな、好意を向けられていい人間じゃないんだよ。そんな、眩しくて愛らしい笑みを向けられていい奴じゃあないんだ」
彼は、眩しかった。こんな私を、好きと言ってくれた。冗談でなく、天使なのかも。だからこそ、そんな眩しさに当てられて。私のような卑しい人間にはそれが耐えられない。
「君は年齢差以上に私よりずっと子供で。まだ男女の分別もなくて。私はそれにつけ込んで、女の子としての振る舞いと生き方を与えた。私が、君を伴侶にしたかったが為だ。気持ち悪いと罵ってくれていい、当然だ」
脚が、勝手に後ずさる。雨宿りしていた樹から離れて、自然、肩に雨がぽつぽつと当たった。
「自分のしたことに責任を取れと言うのなら。君を娶る。それはいい。だけど、そうしたら私は間違いなく幸せになってしまう。それがどうにも、赦されがたい冒涜のような気がしてならない」
泣きそうな彼の表情が、次第に困惑を帯びていく。ああ、私の可愛いと思う彼の笑顔ではないけれども、泣き顔よりはずっと良い。
「私の口から言うことではないのは百も承知だけど、今からでも遅くはないと思う。私は、だめだ。やめておいた方が良い。君を……好きだから。だから、私にはこう言うしかない」
ごめん。私は震える声で絞り出して。彼に背を向けて、顧みず。雨の中へ、逃げ出したのだ。
元より薄っぺらかった淑女の仮面はとうに剥がれ落ちた。不格好に肩で息をしながらひた走る。ブーツの中でぐじゅぐじゅと、雨水と泥と空気が攪拌される音がする。
どこへ、ということもない。ただ、ここから逃げたいから走るのだ。一緒にお菓子などを作った料理棟の傍らを駆け、共に愛玩などした家畜小屋の隣を抜け、それら家畜の飼料となる草花、かつて睦まじく花冠など編んだ白詰草を踏みしめて。思い出を振り切って。
行く宛はない。ただ、今はともかく独りになりたかった。なのに。
「なんでっ……なんでついてくるんだよおっ」
「だって、はぁっ、逃げるから!」
ばしゃばしゃと、派手な足音がついてくる。追いかけてくる。昔っから、私の後ろをとてとてとついてくる子だったけれど。今だけはそうして欲しくない。
ああ、くそ。雨をふんだんに吸い込んだエプロンドレスの裾が、脚にぴとりと張り付いている。走りづらい。スカートなんてこれまでほとんど履いたことなかったが、不便な物だ。
追いかけっこなど、いつぶりだろう。遊びであればともかく、私が本気で走れば彼が追いつくことなんて、なかったはずなのに。距離が縮まっているのが分かる。もう、走りにくいったら。
「待って、アユミ姉っ!」
背後から呼び掛けられるけれども、振り返る余裕なんてない。ふつうなら。それが、特別な相手の声でなかったのなら。私はその悲痛とも言える呼びかけに、反射的に、いつものように、走ったままの体勢で上半身を捻ろうとして。脚がもつれた。
「あっ」
しとど降りしきる雨の中、一際大きな、ばちゃんという水音。飛沫を立てて水たまりに転がった私。口腔内に泥が混じる。舌の上に砂粒の嫌な感触。かくして、短い追いかけっこは。私の自滅にて幕を閉じた。呆気ないものだ。
「あ、アユミ姉! 大丈夫!?」
痛みは、然程ない。でも、立ち上がれない。泥の上に蹲ったまま、顔を上げることが出来ない。きっと、無様で不細工な面をしているだろう。このまま泥に溶けて消えてしまえればいいのに。
「アユミ姉……?」
伏せったままの私の様子を訝しく思ったのだろう。リヨは私の傍らに膝をついて、恐る恐る私の肩を揺する。私はその優しい手つきから逃げるように、身体を縮めて丸くなる。見られたくない。
「アユミ姉……な、泣かないで」
「っ、泣いて、ない」
中空で両腕をうろうろさせながら、リヨは分かりやすく狼狽えている。そりゃあ、私のこんな痴態ははじめて見るだろうから、仕方ないか。こんな時なのに、その狼狽えっぷりも愛嬌があった。
私は観念して、上半身をのろのろ起こし、地べたで割座になる。もはや全身濡れ鼠なので、下着が濡れても気にする必要もない。私は伏し目がちに、赤くなった目をそっと向けて尋ねた。その声には、意図せずして恨みがましさが篭もっていた。
「なんで追っかけてきたんだ」
だって、と前置きをして。それから、リヨは私の片手を包むように握って答えた。
「好きって言ってくれたから。やっと聞かせてくれた、アユミ姉の気持ちだったから。だから、それを聞いちゃったから、僕は、もう」
思ったより、身体が冷えていたみたいだ。当たり前か、こんな雨の中で走り回っていたんだから。私の手を握り込むリヨの手が、とてもあつい。風邪も引いているかも知れない。顔もあつい。
「……考えてたんだ。一週間。どうしたら、アユミ姉に好きになって貰えるのか。……会いに来れなくてごめんね。その間で思ったんだ。もっとアユミ姉のことが知りたいって。今まで、近すぎたから気付けなかった。アユミ姉のことならなんでも知ってると思ってたのに。アユミ姉の気持ち、知りたかった」
煌めきさえ感じさせる澄んだ翠のまなこが私をまっすぐ射貫く。その言葉の真摯な響き。火を見るより明らか、彼の言が嘘偽りないことに疑いの余地はない。それを受け、熱に浮かされるように、私の口も自然と言葉を紡ぐ。
「私も……私も、リヨのことを知りたいって、思った」
蓋を開けてみれば簡単なことだ。一緒にいるだけで満足していた。共にいる日常にかまけて、歩み寄ろうとしなかった。お互いに。だから、こんなすれ違いが起きた。リヨは、可愛いという言葉に含まれた私の好意を好意と受け取ることが出来ず。私は、男らしくなるというリヨの行動が私への好意の表れと気づけなかった。
それは結局。つまるところ、原因を求めるならば。私の『男の娘趣味』に帰結する。歪みの根本たるは、私の精神性だった。そこに変わりはない。
私は、無意識のうちに己の罪深さを認識していたのだろう。彼をもってして「自身を省みない」と指摘されてしまうのは、その罪悪感に起因するのだと今なら思える。だから、今の今までけっして彼に好きという言葉を伝えられなかったのかもしれない。
彼の手を取ることは簡単だ。私たちは、お互いに想い合っているのだから。どれだけそうしてしまいたいことだろう。でも、それは出来ない。私のなけなしの矜持とか倫理とか、そういうのが今も私の胸にはあって、気持ちを伝え合った今でもけして許してはくれない。だから、逃げ出した。
しかし、それでも。彼は追いかけてきてくれた。私は先程、口では追ってきて欲しくなかったようなことを言ったが、それは言葉の綾だ。本当は、とても嬉しく思う。彼は身を以て、行動を以て示してくれた。私と、分かり合いたいと。逃げ出した私を追ってまで、歩み寄ってきてくれた。
だからこそ。私は、責任を取らなくちゃならない。謝らなくちゃいけない。たとえ受け容れて貰えなくても、受け取って貰わなくてはならない。……と、そう、思うんだが。しかし……。
不意に、私の手を握っていた彼の力が強くなった。不安に揺れていた私の震えが止まる。ああ、もう。立派になって。ぎゅっと握り返せば、たしかな勇気を貰った。
「ねえ、リヨ。君は今、私のことを知りたいと言ったけど……そこに偽りはない?」
リヨは私の問い掛けに、ゆっくりと、大きな翡翠の瞳で私を見つめつつ頷いた。
「じゃあ、聞いて貰おうかな」
木陰で雨宿りをしつつ。私は己の境涯を、包み隠さず伝えた。前の人生の話、己の性自認の話。はじめにリヨに近づいた目的。孤児院の工房設立の目論見。途中、何度も話し始めたことを後悔したが、私が尻込みする様子を見せるたび、リヨが手を握ってくれた。
すぐに信じて貰えるとは思ってなかった。元々話そうと思っていた事柄ではないから、整理されてない思いつくままを喋った。きっと抜けも不足もあっただろう。それでも、つまりこういうことだという概要くらいは知っておいて欲しかった。とりとめのない話であったが、ただ、彼の反応は些か想定外であった。
「そっか……そうだったんだあ」
私の話を聞くうちに目を爛々と輝かせはじめたリヨは、感銘を受けたかのように何度も何度も頷いた。……なにやら楽しげだ。幼げで、可愛らしい。そして、そこには疑いの感情が含まれていないふうに感ぜられた。
「えと……信じるのかい? 君は」
「もちろんだよ? だって、むしろ納得だもん」
私が問い掛けてみれば、彼は邪気なく答えてみせる。
「アユミ姉の、どこで知ったのか分からない知識の深さとか、大人みたいな思いやりとか、すごいなってずっと思ってた。でもね……それと一緒に、遠いなって思ってたんだ。……僕なんかじゃ、アユミ姉と釣り合わないんじゃないかって」
どこか遠い目をしながらそう述べるリヨに、私は首を横に振る。
「っ、そんなことない。むしろ私の方が」
「そういう自分を悪く言うクセも、前の人生が原因だったんだね」
私の言葉を遮って、リヨが指摘する。図星を指された私はつい押し黙ってしまい、そんな私に対し、彼は優しさを滲ませて拙くも説いた。
アユミ姉はすごい。孤児院を豊かにして、街さえ豊かにした。いっぱい頑張ってると思うよ。アユミ姉がどう思ってても、そこは本当だもん。だからこそ、アテ姉も院長も、院の皆も、心配してくれてる。だから……そんなふうに自分を悪く言わないで。
肩の荷が、すっと溶けていくようだった。罪悪感、孤独感。そういうものが洗い流され。代わりに、満たされていくようだった。私を受け容れてくれる人がいるという幸福に。
「それでも、アユミ姉が、自分が悪いと感じてるんなら……僕が許してあげる。だって、原因というか、根っこにあるのは僕のことでしょ? だから、僕がアユミ姉を許してあげれば、それでお終いだよね」
ね? と、そう首を傾げてはにかんだリヨ。私はそれを直視することが出来なかった。話すうち、ちょっとは収まってたのに、また視界が滲んで。いつも可愛らしい天使の微笑みを、今日はじめて、格好良いなって思った。
「もっと、違う世界の話、聞きたいな。僕だけが知ってる、アユミ姉のこと」
「うん……うん……」
頽れる私の身体を抱きよせる彼の懐は、思っていたより大きかった。
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孤児院の窓から覗く空は青い。今日は、洗濯物が良く乾きそうな日和だった。
「あら。アユミ、あんたに手紙が来てるわよ」
今日も今日とて化粧品工房の事務室で机に向かっていると、向かい側に座っていたアテ姉がそう告げてきた。
「手紙? 私宛に?」
ふつう、私宛に手紙が届くことはまずない。院や工房に用があるのなら、裏方である私ではなく、院長かアテ姉に届くからだ。だから、この手紙は珍しくも私個人に向けて宛てられた手紙と言うことになる。
「どちら様?」
「ええと……」
アテ姉が、差出人の名前を読み上げてくれる。だが、私にはいまいちピンとこない。記憶を掘り返すべく頭を傾げていると、アテ姉が助け船を出してくれた。
「憶えてないの? 二年前くらいに、ちょっとの間、リヨの剣の師匠やってた人」
「ああ」
師匠さんか。名前は聞き覚えがないから結びつかなかった。しかし、なんだろう。彼女が私に文を出すなんて。封筒を受け取って封蠟を切り、中身を検める。
「……ふうん……はあ」
達筆とも、荒々しいともとれる文字を私は追いかける。なにぶん何が書いてあるのか予想もつかないため、身構えつつ読んだが……しかし、内容は実に簡潔で、そのこざっぱりした感じをあの人らしいと思った。
私が便箋を置いた頃合いを見計らって、アテ姉が問い掛ける。
「なんだって?」
「この前の聖誕祭の折に贈答品を贈ったでしょう。そのお礼だって。喜んでくれたみたいで、次の注文もしてくれてる」
「えっ? 贈ったのって、たしかうちの商品でしょ?」
まさかそんな、という表情を見せるアテ姉。まあ……その反応もわかる。裸一貫の素手で魔獣を仕留めるようなような、うちの商品とはまるで無縁っぽい、そんな御仁だから。
「師匠さんじゃなくて、彼女のお母様が気に入ってくれたみたい」
「あ、そう」
私がそう言えば、アテ姉は腑に落ちたような、或いは意外性がなさ過ぎて面白くないような反応をした。
「まあ、うちの謹製の品に見向きもしないのはちょっと複雑だけど。あの人はきっとそういう生き方をしていくんでしょうね」
しみじみ呟く彼女に、私は首肯を返した。先のことは分からないが、たぶん師匠さんはこれからも揺るがないのだろうと思う。そういう強い芯がある。強さの化身みたいな人だからなあ。
人の生き方に良い悪いを言及するつもりはない。彼女はそういう人だったという、それだけのこと。私は手紙を封筒に納め、机の引き出しにしまい込んだ。
それから暫くは無言で発注書をしたためていると、不意に視線を感じてそちらを見遣る。すると、アテ姉が仕事の手を止めてこちらを見ていた。目が合えば、彼女はしみじみとした調子で呟いた。
「それにしても、随分……変わったものね」
「アテ姉?」
突然切り出された言葉を、私は軽く首を傾げて聞き返す。腰まで伸びた髪がしゃなりと揺れた。
「いやね? 女らしくなったと思ってさ。あのアユミが」
藪から棒にそんなことをのたまう。「あの」って酷い言い草だと思ったけれども、彼女の言っていることも尤もだったので、結局私は何も言わなかった。
二年というのは、子供が変わるには充分な時間だ。私は二次性徴を迎え、はっきりと女の身体へと成長した。貧相ながらも、体つきとか、そういうのが。もう、昔のように男の孤児が着るような服装をしても、男と間違われることはないと思われる。ついでに、身長の伸びも止まった。止まってしまった。無念。
「やっぱり、恋をすると女は変わるのね」
口の端を歪めながらアテ姉は感慨深げなことを言う。これは……分かりやすくからかっている。眉を顰め、目線で無言の抗議を返してやれば、さらに口の弧が深くなった。むう。だったら、そんなアテ姉には、こう返してあげよう。
「アテ姉も、早くいい人見つけないと」
「余計なお世話だろぉ」
一瞬で表情を変貌させたアテ姉。昔より貫禄が出た彼女が睨むと、やっぱり怖い。
二年経っても、彼女は独身のままだった。正直言って、もう嫁ぎ遅れと言われて然るべき年齢なのだが……。アテ姉はこれでけっこう人望がある。口は悪いけれども、その実世話焼きな彼女であるから、孤児院にも彼女のこれからを心配する奴は多いのだけど。私だって口を出す。
「でも、院長もそろっといい歳だし、早いほうがいいと思うよ」
「なっ……! なんでそこで院長が出てくるのよ」
「いやあ、別にい? 私はただ、早く安心させてあげた方がいいよって言いたかっただけですし?」
「あ、あんたねえ……」
若干声が上擦っている彼女は、普段とのギャップもあって素直に可愛らしいと思った。こういう姿を見せれば男なんてイチコロじゃないかと思うんだけど。かの思い人である院長だって、たぶんおそらくきっと。
「私も、私の時はお世話して貰ったし……お返しはしないと」
「ならそのにやついた顔を止めてから言いなさい」
「はい」
これ以上からかうと本気で怒られそうなので、殊勝な態度で頷いて口を噤んでおく。ただ、それでも彼女の方はいささか収まりがつかなかったようで。
「ねえ。そのカチューシャ、似合ってるわ」
「えっ……あ、ありがとう?」
突然、いやに優しい声でお褒めの言葉を頂いたものだから、私は戸惑いつつ空返事を返すしかできなかった。アテ姉は嫌らしい笑みを貼り付けつつ、続ける。
「それ、むかーし、院の庭で彼に作って貰った花冠と似てるわよね」
「え……ちょっ、それは……ぐ、偶然だよ」
「そうね。偶然かも知れないわね。お気に入りのそのカチューシャ」
なんで、アテ姉がそんなことを知っているんだ。誰に告げたわけでもないのに。居心地の悪さに、なんとなく身じろぎする。これは、例えるなら、親類に子供の時の微笑ましいエピソードを暴露されたときのような、そんな気持ち。嫁ぎ遅れを気にしてるくせに、年嵩食ったふうなこと言いおって……。
「とってもとっても可愛いわ」
……。年の功には敵わないな、年の功には。私は取り合うのを止め、机の上の発注書に向かい直す。表情や顔を熱さを極力隠すため、いつもより俯き加減で。
「本当に可愛くなっちゃって」
からかうような口調でなく、慈しむような響きで呟く。それがあまりに優しげだったから思わず顔を上げそうになるけど、ただまあ、やはり反応はしてあげない。
二年も経てば変わるものは変わる。良い悪いは抜きにして、変わってしまう。
日が暮れつつある中、私は本日のお勤めを終え、自宅の門を開いた。
「ただいま帰りました」
私の居住空間は、すでに孤児院ではなくなっていた。昼に院にいたのは、単純に仕事のためだ。孤児院から子供が出て行く場合、色々な理由がある。まだ幼い子が里親に引き取られたり、成人を迎えて独り立ちしたり、様々だ。私の場合は、引き取り手があったから。
官邸としても使われる屋敷の玄関は、魔力灯も良いものが使われていてぼんやり明るい。私の声に、屋敷の奥から人影が姿を見せた。
「おかえりなさい、アユミ姉」
魔力灯を受けて輝く金の髪。昔よりも丸みを失い、精悍さを帯びつつある温容。優しげな声色はまだ幼い少年の声だが、じきにそれも大人のものへと変わっていくのだろう。事実、すでに身長は追い越されてしまった。
リヨは、男の娘を卒業した。今は少年から青年へと成長しつつある。それも、ただの青年ではない。美青年だ。超がつくほどだ。エクスクラメーションマークがつくほどだ。超! だ。
男の娘を卒業したのは、彼の意思であると同時に私の意思でもある。そう伝えて、そうしてもらった。
私がぼんやりと思い耽っていると、リヨはそのまま私へ歩み寄り、やがて彼我の距離は零になる。
「ちょっと。義母さんたちへの挨拶がまだ、ぁ」
抱きすくめられる。視界が、彼のシャツの胸の辺りで一杯になる。衣服越しでも、どこもかしこもぷにぷにだった昔とは異なる感触が伝わる。彼の行動に驚いて身じろぎすれば、その身じろぎごと抱擁されてしまう。
「今日もお仕事お疲れ様」
「……ありがと。リヨ、もうお風呂入ったんだ」
ふわりと包まれるのは、うちで作っている石鹸の香料の匂い。幼い頃からの教育の賜物か、今もリヨは美容品、清潔用品を日々欠かすことなく身綺麗にしている。……自惚れでなければ、それは私のためでもある。彼はもう、前世に起因する私の嗜好を包み隠さず知ってしまっているのだから。
彼は耳元で囁く。
「こうしてぎゅっとされるの、好きだよね?」
「ん。そう、だけど。なんで知ってる」
ただ、それは前世に起因するものだけだ。こうして、抱擁されることがたまらなく心地良いということを、私は今の生で初めて知った。安心感。愛されている。肯定されている。そういう気持ちが湧き出して満たされて。幸せを噛み締める。
「わかるよ」
「……わかられちゃったか」
言わなくても分かってもらえるというのは、照れくさくも嬉しい。でも、一方的に受け取るだけじゃ駄目だ。だから伝えておきたい。言葉にするのはちょっと恥ずかしいけれど。歩み寄ることは大事だって学んだから。
「リヨ。好き」
可愛い貴方も、格好良い貴方も。私が伝えれば、昔のようにはにかんで彼は答えてくれた。
「えへへ。僕も、アユミの全部が好きだよ」
ああ、本当に。大きくなったなあ。顔を近づけるのにも、背伸びしないと届かない。変わったことはたくさんある。その変化に寂しく思うこともたまにあるけど、ただまあ、嫌ではない。つま先で立って、そっと目を閉じた。