9 アクロバット
さあアクロバットの始まりだ。
本来はシステム任せのあれこれを、ほとんど手動で行わなければならない。
しかも幾つかは船外作業も含むのだ、それも水星軌道の内側で、もろに太陽のエネルギーにさらされながら実施するのだ。人間スラスターとして。
方針はこうだ。
このまま太陽近傍をかすめるコースのままだと、太陽を大きく回り込んで折返し、よくある彗星のような軌道になって公転面からどんどん離れていってしまう。だから太陽をまわりこんだところでメインエンジンを使って太陽を周回する軌道に変更してやるのだ。
その後、徐々に周回軌道を惑星の公転面に修正し、タイミングを選んで地球へ向かうコースに乗せてやるのだ。
軌道変更を何度も行うのには船体が回転したままでは難しくなるので、まず回転を止める必要がある。だが姿勢を制御するスラスターが動作しない。修理が必要だ。だから船外へ。
でもなあ、これ直るのか。
後部のスラスターはソーラーパネルの固定用ワイヤーが表面をえぐるように動いたため見事に潰れていた。
一部が復旧してもこれじゃなあ。
ヤケになったジョージが思いついたのが人間スラスターだった。
短くなって残されたマストの利用方法としてはなかなか独創的だった。
マストに光学スコープを固定した。その根本にエアタンクを簡易的なジンバル台を作ってやはり固定した。以上。
後はスコープで恒星の角度を確認しながら、エアタンクのバルブを開いたり閉じたりしてエアを吹かしての時方角を調整するだけだ。
なんてシンプルな、原始的な、いや歴史上こんな仕掛けで運用された乗り物は存在しないから原始的というのは当たらないな。
そうジョージは自分の持った感想に反論した。
そしてすぐに思い出したのだ。祖父はそうやってヨットを操っていたなと。古来無数の船乗りがそうやって大海を渡っていたのだと。
そうだ、僕も天測しながら宇宙を航海するのだ。
後は宇宙服だけが頼りだな。外骨格を多用した内惑星軌道での宇宙線対策を施した特別製だが、ここまで太陽に近づいて船外活動を行った例は多分ないだろう。
耐熱を兼ねたバリアを外付けして気休めにはしたのだが「日焼けはするだろうな」当然だが。
色々な端末も外に持ち出したので、あたかも操縦席が外殻に出来たようなものだった。いよいよ大昔の漁船のようになってきていた。
「まあいいか、誰も見てないし」
船外に出ると太陽のエネルギーは想像以上に強烈だった。操縦席(仮)の設営への障害はその光の強さだった。とにかく日陰でなくては何も出来ない、ソーラーパネルの残骸はすべて利用した。一部は生きているので操縦系統の電源にそのまま利用できたぐらいだ。
そうだこれがあれば地球への帰還に役立つかもしれない。やってみなければわからないけれど。
マリー達の船団は水星の周回軌道に勢揃いしていた。
予定通り水星の観測を行うためである。ジョージの遭難事件さえなければほぼアクシデントのない順調なスケジュール通りの進行状態と言えた。
決められた段取り通り探査機を放出し水星に降下させたし、太陽面の観測も行った。レポートだけなら百店満点だ。
だがそれを自慢する相手がいないのだ。
マリーは日課になっている受信アンテナの展開を行った。コールサインを発信し、そして返信を待つ。24時間に一度。もう惰性になってきているが、それでも睡眠に付く前には必ず行ってきているのだ。
「……♪♪♪……」
何これ。
ノイズじゃないよね。
数秒間だがメロディらしきものが受診された。
あわててコールサインを送る、出力を最大にして送り出す。
しかし二度と返信らしきものはなかった。
マリーは本部船にすぐさまこのことを伝えた、録音した「メロディー」と共に。
だがこれを有意な信号と捉えた者はいなかった。
「どう聞いてもノイズだろう」
それをマリーに指摘できる者は学生の中にはいなかったので随伴している教師の一人がマリーに告げることにした。
マリーからの返信は無機質な電子音だけだった。