10 移民の歌
水星周回していた船団は徐々に軌道を変え、ついに水星の衛星軌道から脱出した。地球への帰還の時が来たのだ。
「やれやれ、サウナ地獄からやっとおさらばだな」
「早くこの作業服を脱ぎたいよ」
船内環境は室温に関してはまったく劣悪だった。冷やしても冷やしても、それを上回る熱で常にこんがりと太陽に焼かれる日々だった。
大型の本部船といえども、冷却すべき優先順位は人間よりもシステム機器のほうが上だったから、乗組員たちは皆耐熱用の作業服を着用していたのだ。
地球で見るより太陽の視直径は十倍はあった。それが徐々に小さくなり、船内環境も快適なものに戻っていく。
そして作業服を通常のものに着替える日が来る。
この時船内の空調システムは再び全力で運転されることになる。
「臭いよ、そんなところで着替えるなよ」
「うるさいな、人のこと言えるかよ」
「あなた達頼むから所定の場所で着替えてよ、見苦しいわ」
「いいじゃないか、女性陣には会議室を専用にしてあるだろ」
「そうだよ、さっさと行けよ」
「行きたいのは山々だけどね、今あんなところに入ったら鼻がもげるわよ」
作業服を脱ぎ、ついでにシャワーを使い普通服に着替える。これだけで順番待ちの列は大変なことになっている。一刻も早く着替えたいとはいえ、会議室は脱ぎ捨てられた耐熱服とそれを長期間着続けていた生身の身体とがかもし出す臭気が蔓延している。高性能エアコンといえど臭気を抜くフィルター性能には限界というものがあるのだ。
「こればっかりはシングルの連中がうらやましいわね」
「まあな、自分の臭いには鼻がなれちゃうものな」
「シャワーだって独り占めだし」
当然だがシングルハンドにはシングルハンドなりの悩みはある。なにしろ脱ぎ捨てた作業服は臭気を放ったまま同じ船内に保管しなければならない。専用の袋に入れていれば問題ないはずだったのだが。
「なんで臭いのよこの袋」
「もう船外に遺棄していいかな」
「まとめて本部船に送ればいいんじゃないか」
などという通信が飛び交っていた。
大体その本人たちだって、シングルハンド内の簡易シャワーだけでは完全な臭い取りは出来ていないのである。確かに鼻はすぐに慣れるから不満は徐々には減ってはいくのだが。
「これは重要な課題ですね」
「そうですね、ここまでとは予想以上でした」
随伴の教師たちもこの問題に対する解決策を考えるという、新たなテーマに頭を悩ましていた。
「何事も初めてがある、ということですな」
今回は色々あったな、とため息をつく者もいる。学生の遭難まであったのだから、ある意味辛い帰還への道のりではあるのだ。
着替えを済ませて一息ついたマリーは、久しぶりに録音したデータ音を聞いていた。
本部船からはノイズだと判断されたけど、どうも納得できない。短い連続音というのは聞こうと思えば何か意味のあるものに聞こえてしまうものなのだ。人間の脳というのはそのように出来ているのだ。
わかっちゃいるけどね。でも諦めきれない。どっかで聞いたことがあるんだけどな。
二十世紀のレッド・ツェッペリンを知っている者は、この時代には普通に存在していない。ましてや「移民の歌」なんて知る由もない。ジョージが作業しながら聞いていたときにたまたま出くわしたとしても。
「Ahaa・Aa」
以前音を出して聞いていたところ、散々苦情を受けたのでそれ以来音楽は必ずイアフォンでしか聞けなかった。
それが今ならどんな大音量でもかけ放題だ。
こんな境遇でもなにか一つぐらい良いことはあるものだ。太陽を周回する軌道上でジョージはそう思った。現状では電力は余っている、使えるバッテリーが少ないからだが、余った電力で生き残った前方アンテナを使って音声をそのまま発信してやった。
虚空に鳴り響くレッド・ツェッペリン。イメージとしては悪くないな。ありがとう爺さん。