企画、ならびに参加者の皆様へ。
目の前には真っ白い世界が広がっていた。黒でもなく、赤でもなく、ただただ真っ白な世界。これを純白と呼ぶのかもしれない。ソラノはそう思ったりもした。
もしこれが一面の雪化粧であったなら、その美しさに見とれることもあったかもしれない。さらにもし、これがトップアスリートだけが体感できるという、超集中力の世界、いわゆる聖域というものであれば、自分の隠された可能性に身が震えていたかもしれない。
しかし否。これは違う。まったく違う。
何が違うのか。まずこの世界には枠があった。プラスチックだか何だか知らないが、人工物である枠がある。
そして次に、アルファベットや数字がその世界の手前に並んでいる。ついでにスピーカーだとか、タッチパネルだとかが付いている。
要するに、ノートパソコンだ。
「……はあ」
携帯で時間を確認すると、いつの間にか深夜0時を過ぎ、日付は十日になっていた。これで期限はあと三日。今日を含まなければ、あと二日しかない。
一切文章が打ち込まれていないワープロソフトの前で、もう何度ため息をついただろうか。
「大体、原稿用紙で40枚から100枚って長いよな……」
一人で不満をぶつぶつ言う。しかしそれを知った上での参加表明だったはずだ。
数日前、ソラノはインターネットのとある小説投稿企画に参加表明した。久しぶりに活字を書いてみようか、という軽い気持ちだったのだ。しかも審査員として、他の作家の作品を審査する、という大役まで自ら申し出ていた。
「…パックレようかな」
半分どころか八割ぐらい本気でそう思った。
頭の中で、天使のソラノと悪魔のソラノに相談を持ちかけてみることにする。
ねえ、どうしたらいい?
悪魔は言った。
「パックレちゃえよー! どーせ誰にも迷惑かけねーよー!」
天使は言った。
「そうよそうよ! パックレちゃいなよ!」
ふむ、満場一致だ。
ではもう悩む必要はないな、と電源を切りかけたソラノの手を誰かが掴んだ。
「いけない。第一回目の大会で、それはいけないよ」
「りょ……良心さん」
ゆっくりと首を横に振る良心さんが、諭すような声でソラノに言った。
「一度言ったことじゃないか。しかも君は偉そうに質問スレッドまで立ててしまったんだ。ここで逃げたら、それに応えてくれた主催者に申し訳ないだろう?」
さすが良心さんだ。その言葉は浅瀬より深く、砂山より尊い。
しかし悪魔と天使がそれに反論する。
「何言ってやがんだ! 今やめたら苦しむ必要なんてゲフッ!」
悪魔の腹部を良心さんの拳が捉えた。
「ちょっと! 暴力はやめドフっ!」
天使の鼻っ面に良心さんの手刀がめり込む。
ずるずると天使と悪魔はその場に倒れ込んだ。
良心さんは手に付いた血をハンカチでふき取りながら、ソラノに言った。
「ね? 逃げると大変なことになるでしょう?」
やっぱり良心さんは賢い。
しかしそうなると問題は最初に戻ってしまう。この真っ白い世界から脱出するにはどうすればいいのかわからない。
「良心さん、逃げないにしても、この真っ白い現実をどうにかしなくてはいけないんです」
良心さんは、にっこりと微笑んで姿勢を正した。そして部屋のドアの方向に歩いていき、右手でドアを開け、大きく開いた左手を肩越しに上げて、何も言わずに部屋を出て、そして何も言わずにドアを閉めた。
数秒後、良心さんがいなくなってしまった部屋で、沈黙の中、ソラノは一人ポツンとノートパソコンに向かいなおした。
とにかく投稿する方向で考えよう。
足元に転がっている、天使と悪魔を見てソラノはそう思った。ああはなりたくない。いつ良心さんが帰ってくるかわからないのだ。
「……とりあえず、ジャンルから決めるか」
得意な分野で言えばコメディだろうか。しかしコメディで原稿用紙四十枚以上というのはかなりきつい。なぜなら読者というのはすぐに読むことに飽きてしまう生き物だからだ。集中して読んでもらえてせいぜい十五枚。理想を言えば一行ぐらいで笑わして終わりにする方がいいのだっふんだ。
では感動物、いわゆるドラマでどうだろうか。
これはかなりオーソドックスで、長さ的にも調整が利く。しかし一つ問題がある。実は一本ドラマを書いている最中なのだ。なぜか。それはソラノが考えなしに他の企画にも参加表明していたからだ。そちらは五月中に投稿すればいいので、とりあえず保留している。二つの小説を同時に書くことができないソラノにとって、同じジャンルで書くことは不可能に近かった。これもダメか。
推理小説。いや、低脳なソラノにそんなものが書けるはずがない。却下だ。
「うーん……」
結局、ジャンルすらも決まらない。と、誰かがソラノの足を掴んだ。
「ほら……パックレちまグゲッ!」
這いずってやってきた悪魔の背中に、深々と出刃包丁が突き刺さっていた。ついとドアの方へ目をやると、良心さんが笑顔で親指を立てていた。がんば。ということだろうか。
後には退けない。しかし歩いて行く道も今だ見えないのだ。
「お困りのようだね! ア・ミーゴ!」
沈黙を叩き壊す青空のように爽快な声。メキシカンな、どでかく、ど派手な帽子とマントに身を包み、マラカスをしゃかしゃか振りながら踊る粋な男。そう、彼は――
「アイディアマン!!」
「呼んだかい僕の名を? じゃあ歌おう! 心を込めて――!」
ちゃらっちゃちゃちゃちゃちゃー、ちゃらーちゃっ!
(ディスプレイの前の皆さんもご一緒にどうぞ)
「いっっきずーまーるー、あなたぁーーのまっえにぃーー。前触れなしにー現れるー、都合のいっいーおぉーとこぉー」
Hey!
「だっっれでもみんなー、ほんとぉーーは知ってるーー。心の声をー聞いてごらん、あなたの持っつーぽっしびりてぃぃ(可能性)」
いぇい!!
「妄想!」
空想!
「幻想!!」
夢想!!
「げーーーんじっつぅとぉーうーひ! すばらぁしいーせぇかいー!」
歓声が上がった。誰もが惜しみない拍手と涙をアイディアマンに捧げていた。ソラノも感動で世界が滲んでいる。なんて素晴らしいんだ。なんて幻想的な光景なんだ。いつまでもいつまでも舞い続ける紙ふぶきが、ソラノの部屋を埋め尽くさんとしていた。膝まで、腰まで、胸元まで、ついには首まで到達した。
「死ぬ! 紙ふぶきに埋め殺される!!」
「落ち着きたまえ、ア・ミーごぼごぼごぼ……」
「ああっ、アイディアマンが溺れてるっ」
「がぼがぼ!(なあに、冗談さ!) ぐっ、ごばっ!(さ、酸素!)」
死にかけたアイディアマンがぱちんと指を鳴らすと、部屋の中の紙ふぶきと、大観衆の姿が消えた。す、すごい。これが想像力の力……!
「すごいよアイディアマン! この力ならきっと真っ白い世界を抜け出せるよ!」
「もちろんさ! 私にできなくて誰に出来るっていうんだ!」
頼もしい、何て頼もしいんだアイディアマン!
「さあ! これを受け取りたまえ!」
差し出されたアイディアマンの手には、『我らが青春は靴箱と共に』というタイトルが付けられた原案書が握られていた。
なんだか勇ましく、それでいて馬鹿馬鹿しい感じがまさにソラノ好みだった。
「ありがとうアイディアマン! これで期日に間に合うよ!」
「いかぁぁぁぁん!!」
原案書に手をかけんとしたその瞬間、アイディアマンの手からそれを強引に奪い取った手があった。その持ち主は――
「プライド! 何しに出てきたのさ!!」
「人からアイディアを受け取るなんて、そんな真似は私が許さん!」
アイディアマンだってソラノの一部だ。そんなことを言われる筋合いはない。
「大体『我らが青春は靴箱と共に』とは、以前書きかけて没にした作品ではないか!」
「それの何が悪いのさ!」
「そんなゴミ箱から残飯をあさるような真似! 貴様にはアスベストがないのか! わかりにくいので補足しようっ。アスベストと埃をかけ、さらに埃と誇りをかけるという上級のダジャレなのだ! なにい? わざわざ説明するなだと!? だって伝わらないと寂しいだろうがっ」
プライドがソラノを指差した。なぜか半身だ。
「貴様に問う! 貴様は腹が減ったとして、一度捨てたパンを拾って食えるのか!?」
なにい!? 食えるのか? 僕は食えるのか!?
ちくしょう、一体どれくらい腹が減ってる設定なんだ! わからねえ! 近くにコンビニはあるのか? 僕は金に困っているのか? 何にもわからねえよ! どうすればいい!?
ソラノは反射的に天使と悪魔を見た。
二人は口から血の筋を流しながら、やっとという感じで顔を上げていた。小刻みに震えるその親指は高く突き上げられ、その目は確信に満ちてソラノを見返している。
あなたなら大丈夫、天使のくちびるがそう動いた。ああ、そうだね。そうだったよ。僕はもう迷わない。ありがとう、天使! ありがとう、悪魔!
そしてソラノは振り向き、真正面からプライドと向き合った。拳を握り締め、自信に満ちた声で答えた。
「食え――ます!」
「ぎゃああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
放たれた光により、プライドはぼろぼろに崩れ去っていった。細かい灰のようになったプライドを踏みにじり、その中から原案書を取り出した。
埃を払い、その最初のページをめくろうと手をかけた時だった。
「待ちな」
まとわりつくような陰気な男の声。どこから声をかけられたのかわからず、部屋の中を見渡した。すると机と壁の間に、一人の男が体育座りでこちらを見ていた。
「その原案書、本当に面白いのか?」
「さ、サイギシン……」
サイギシンはゆっくりと立ち上がり、ソラノに近づいてきた。
「もしその原案書に書かれているストーリーが限りなくつまらなかったら、お前、どうすんだ?」
「私の原案書つまらならいチガウネ!」
アイディアマンがサイギシンに食ってかかる。しかしなぜ外国人風?
「見ろ。こんなキャラ設定すら維持できないやつをお前は信じられるのか?」
た、確かに……。
しかしキャラ設定が維持できないのはいつものことだ。この原案書に頼るしか今のソラノには選択肢がない。震える手で、最初のページに手をかける。まったく重量を感じさせない薄い紙を一枚めくった。
「こ、これは――!」
二月十四日、セント・バレンタインデー。
先生、話し始める。
「ほらー、席につけー。今日は皆に、かわいい転校生を紹介するぞっ」
主人公、めんどくさそうにする。
「ちっ、今頃転校生なんてめんどくせぇな」
注、主人公はきちんと口に出してセリフを言う事。
「はい、じゃあ入ってきて」
がらがらがら。すたすたすた。
「初めまして、ブラジルから転校してきました、アンジョン幸子で――あっ!」
転校生、主人公を指差す。
主人公、それに気付く。
「あっ! てめえはっ!」
回想へ。
× × ×
住宅街を走っている主人公。
「いっけね、寝坊しちまったぜ!」
注、主人公はきちんと口に出してセリフを言う事。
「この角を曲がればもうすぐ学校へ――うおっ」
「――っきゃ」
激しくぶつかり、地面に倒れ込む二人。
「いったー☆ ああっ、私の食パン!」
「いててて・・・ん? げっ、食パン踏みつけちまったよ!」
「ちょっと、どうしてくれんのよ!」
「知るかよっ、お前が飛び出してくるからわるいんだろ!」
口論する二人。
回想終わり。
× × ×
「あの時のっ!」
注、二人同時に。
「なんだ、ミスターマッスルの知り合いか。ちょうどいい、隣で教科書見せてやれ」
「な……! そんなの――」
「ごめんだぜ!」
「いやです!」
注、二人同時に。
「うそだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
余りの衝撃に、ソラノは体の震えを抑えることができなかった。まるで半袖で南極に放り込まれたかのように体からマグニチュードを発し続けた。
「ぬぅあぁらっしゃい!!」
現実から逃避するために、原案書を力任せに引きちぎる。何度も何度も引きちぎり、その紙片が床へと無残に散らばっていく。
こんな低レベルなアイディアを世に送り出してはいけない。抹殺しなければ。今ここで亡きものにしてやらなくてはいけない。間違えてもオンラインの小説投稿サイトに載せてはいけない。いけないのだ!
すると落ちた破片が輝き出し、その光は全てを飲み込まんとして輝きを増していった。
「なっ、なんだ――?」
激しい閃光に目がくらみ、しばらく目を開けることができなかった。沈黙の中で、頭を抱えるようにして目を瞑る。
「……目を開けるんだな」
陰気なサイギシンの声が聞こえた。おそるおそる目を開けると、床に散らばっていたはずの原案書が姿を消していた。
「どうだ。もしつまらなかったとしたら、お前はどうなる?」
サイギシンの手には原案書が握られていた。今のは……サイギシンの見せた幻覚だったのか?
ソラノは震える体を抑えながら、ぼそりと呟いた。
「お……恐ろしい」
あの腐れ原案書が世にでなくて本当によかったと心から思っている。ソラノも今年で二十三歳だ。頭の中であんなことを考えているなんて、知り合いにでも知られたら社会人としてやっていけない。
「わかったらこの原案書は俺が預かっておく。いいな?」
サイギシンはアイディアマンと原案書を連れて、部屋のドアから出て行った。
ただただ震えるだけのソラノに、それを引き止めることはできなかった。
目を開けると、暖かい朝陽が頬を照らしていた。
「朝……か」
ソラノは真っ白いままのディスプレイを見つめた。何もできないままに数時間が過ぎてしまった。原案書はサイギシンに持っていかれてしまったし、いまだ何一つ、ジャンルすらも決まっていないのだ。
ゆらりと部屋の中を見渡す。引き裂かれたベッド、割れた姿見、半壊した机、叩き折られた椅子。そこはまさに戦場の後であった。
なぜ部屋の中がそんなことになっているのか――、ソラノは昨晩のことを思い返した。
再び一人きりになった部屋の中で、ソラノはノートパソコンと向き合っていた。
昼間は仕事があるし、アフターワークだって夕食にでも出かけたい。寝る前のこの時間に書いてしまわなければ、書く時間なんてもうないのだ。
未発表の作品をリメイクしてでも……と、キーボードを叩きかけた時、ぞくりと背筋に悪寒を感じた。
何だろう、と部屋を見渡す。しかしそこには悪魔も天使も、良心さんもサイギシンもいなかった。ただ、ソラノ一人だけである。
「……気のせいか」
再びパソコンと向き合う。しかし悪寒は消えない。何だ?
今度はゆっくりと部屋を見渡した。
良心さんが出て行った部屋のドア。
安物の姿見。
子供の頃から使っている勉強机。
揺れるカーテンと窓。
きちんとベッドメイクされているシングルベッド。
何もおかしなところなどない。首をかしげながら、カチャカチャとキーボードを打ち始めた。
「よし、出だしは猛スピードの蒸気機関車に一人の少女が乗っているところから――」
ぴたり、と手を止めた。同時に、胸が弾けるように鳴った。
――揺れるカーテンと、窓?
勘違いならいい。だが……、窓は、開いていなかったはずだ。
視線をディスプレイから外せなかった。指先をぴくりと動かすこともできない。今、窓が開いているのか確認して、開いていたなら問題ない。立ち上がり、閉めればいいだけだ。
だが、もしも開いていなかったら――?
一体、なぜ、風もなく、誰もいないこの部屋でカーテンが揺れていたのだろうか。
そっと指を動かす。かちゃり、とキーボードが音を立てた。
勘違いだ。そうに決まっている。カーテンが揺れているのを見間違えたか、窓を開けたのを忘れているかのどちらかに決まっている。
胸が苦しいほどに高鳴り、息も荒くなってきた。心なしか、見られているような気がする。視線を感じるのだ。すぐ傍に。ソラノの視界のすぐ外側に誰かがいるような気がするのだ。
生暖かい吐息を、首筋に感じるような違和感。
――窓を、確認しなければ。
意を決して、勢いよく顔を上げた。
窓は――開いていなかった。
しかし、カーテンもまた、揺れてはいなかった。
「……なんだ。勘違いか」
と、目を離そうとしたその時――、カーテンがふわり、と揺れた。
「――っ!」
息を呑んだ。どこにも風の通り道なんてないのだ。カーテンが揺れるはずなんてないのだ。
しかし、カーテンの揺れは収まるどころか、だんだんと激しくなり、ついにはバサバサと激しい音を響かせながら、嵐に吹かれたかのように暴れ出した。
次に窓が激しく揺れ始めた。誰かが窓を両手で叩くような、悪意と敵意に満ちた音が部屋に響く。
恐ろしくなって後ずさりをした。すると、今度はベッドが大きく跳ね始めた。椅子も机もめちゃくちゃに暴れている。甲高い悲鳴を上げて、姿見の破片が床に散らばった。
「な、な、何だ! やめてくれよぉ!!」
ソラノがそう叫ぶと、ぴたりと全ての現象が収まった。
助かった――のか?
ふと、息をついた。すると――かちゃ、り……と、誰かがドアノブを回す音がした。
ぎょっとして部屋のドアを見ると、ゆっくりとそれが開かれるところだった。
老人のようなしわくちゃな手が、ドアの淵にかけられる。伸びすぎた爪が、それを人間でない者であると印象付けた。
ドアを押して入ってきたのは、黒いフードを被った、小柄な老人のような生き物だった。深いフードの奥で、赤く不気味に輝く二つの目がソラノを見ていた。
とりあえず、ソラノはその横っツラを思い切り拳で殴りつけた。
ぐしゃり、と鈍い音がして、謎の人間以外は壁にずるずると崩れ落ちた。
倒れてピクリとも動かないそれを足でつっついてみる。が、やはり反応はなかった。
一体何者であるのだろうかと、フードの後ろ側をごそごそと探る。すると、名刺ケースの中に何十枚も同じ名前が入っているのを発見した。
「株式会社催眠 代表取締役 ‐睡魔-」
おそらくこれがこいつの生前の名前だったのだろう。今は肉塊さんだ。
ソラノは名刺ケースを肉塊さんのフードの後ろ側に戻し、窓を開けて、肉塊さんを外に放り投げた。
今は期日までに小説を書き上げることが何よりも優先なのだ。あんなストレンジャーにかまっている暇はない。
振り向いてノートパソコンの前に戻ろうとした時、後ろから左手を掴まれた。
驚いて振り向くと、血みどろになった肉塊さんが、飛び出した目でこちらを見ながら、にたりと笑った。
「まてよ」
肉塊さんがそう言った。
ソラノが叫び声をあげるのと、肉塊さんがソラノ首筋に噛み付くのと、一体どちらが先であっただろうか。
赤い鮮血が空に舞い、真っ赤に染まった肉塊さんが、狂ったように笑っていた。
そして、世界はだんだんと色を失っていったのである。
それが、昨夜の出来事であった。
気だるい体に鞭打って、ソラノは仕事に出かけていた。
まさか、睡魔に襲われるとは予想もしていなかった。世の中、どんな不幸な事故があるかわかったもんじゃない。
まったく。それがなければ今頃傑作小説が書きあがっていただろうに。ぷんぷん。
しかし睡魔に襲われてしまったのだから仕方がない。それはもう交通事故のように突然起こるものなのだ。どれだけ不条理であっても、それはもう仕方がない。
だから昨夜のことは気にしないことにした。きっぱりと忘れよう。
真っ白い原稿も、睡魔のせいなのだ。仕方ない仕方ない。
じゃり、と何かを踏んだ。なぜか昨日灰になったはずのプライドが落ちていた。気にせず踏みにじって歩き出す。
その日は、いつもよりも忙しく仕事に励み、誘われたので仕方なく夕飯にいき、ああ、原稿仕上げなくちゃな。なんて露ほども思ったり思わなかったりして、どちらかと言えばまったく思わなかったが、家路についたのが午後十時を過ぎてからであった。
まだ飲んだビールが体の中に残っていた。眠くて眠くて仕方がなかった。が、睡魔さんは今日は北海道の方へ出張の予定らしいので、不幸な事故を期待するわけにはいかない。
がちゃ、と家のドアを開ける。と、女物の靴が一足、綺麗にそろえて置いてあった。
短くため息をついて、家の奥にあがる。
すると、予想通り、リビングでエプロン姿のゆうわく母さんが待っていた。
「あら、お帰り」
「お帰り、じゃないよ母さん。一人暮らしの家に勝手に上がってこないでくれよ」
「まあそう言わずに。とりあえずビールでも飲む?」
ゆうわく母さんはそう言って、買い置きしてあった缶ビールを冷蔵庫から取り出した。
「いらないよ。これから原稿を書かなくちゃいけないんだ」
「なによー。一杯ぐらいいいじゃない。一杯だけ。ね?」
ソラノの言うことなんて一つも聞いちゃいないゆうわく母さんは、とくとくとコップにビールを注ぎ出した。
ゆうわく母さんのビールを注ぐ技術は一流だ。ドラフトマスターの証明書も部屋に飾ってある。黄金に輝くビールの中に、まるで星空のように小さな気泡が溢れる。正しく七対三の割合で注がれた泡も、果てしない大空に浮かぶ、大きな入道雲のように爽快だ。
ゆうわく母さんにはまいったな。でもまあ折角だから一杯だけ。一杯だけなんだぞう。
「あらあら、いい飲みっぷり。はい、もう一杯」
「一杯だけって言ったじゃないか。もう終わり」
「そんなこと言わないでよう。母さんはね、あんたが二十歳を超えて、一緒にお酒を飲むことが楽しみだったんだからね。はい、母さんにも注いで」
空のコップを差し出すゆうわく母さん。無理やりに缶ビールを手渡された。
「だからー、原稿仕上げないといけないんだってば」
「自分だけ飲んどいて、母さんには注いでくれないわけ?」
はあ……。ゆうわく母さんには勝てないな。
ため息まじりにビールを注ぐ。すると、お返し、とソラノのコップにもビールが注がれた。
「俺はもう飲まないってば」
「だーめ。はい、かんぱーい」
「しないからね」
「なによ、乾杯ぐらいしてくれてもいいじゃない。ほら、かんぱーい」
「わかったよ……、はい、かんぱーい」
かつん、とガラスのコップで乾杯する。乾杯したからには飲まないといけない。これは社会人としてのダイヤモンドよりも硬い掟なのだ。本当は飲みたくないが、掟なのだから仕方がない。くそう。まったくもって遺憾ですな。
ぐびぐびぐび、とビールを飲んだ。これ以上は飲まないぞう。本当だぞう。
「ねえ、面白いDVDがあるんだけど、どう?」
「それはダメ。時間ないから」
三本目のビールを開けながらそう答えた。
「でーもー。とっーても面白いよ?」
「観ません」
「ほんとに?」
「観ません」
ソラノは原稿を仕上げなくてはいけないのだ。それに四本目のビールも飲まなくてはいけないのだ。
DVDなんて一本で二時間浪費する。真っ白な世界がそれを許すわけがない。
「観ないの?」
「観ないってば」
しかしこのままではいずれ押し切られる。助けて、誰か助けて!
がちゃり、と奥の部屋のドアが開いた。出てきたのは――。
「いけないよ。すぐにパソコンに向かうんだ」
「良心さん!」
良心さんはまたしても軽く首を横に振り続けて現れた。相変わらずの諭すような声で、ゆうわく母さんを説得に入る。
「お母さん、ソラノ君は責任のある大人です。一度参加を表明したからには、あくまでそれを貫き通す義務があるのです。人様への迷惑も考えなくてはいけません。もう子供ではないのですかグアッ!」
ゆうわく母さんのラ・テーン(下段蹴り)が良心さんの左足を捕らえた。
がくり、と良心さんが崩れかける。
「お母さん、暴力はいけドフッ!」
続いて琉球空手の奥義、回転突き蹴りが的確にみぞおちを捉えた。従来の回し蹴りとは違い、遠心力を一点に集中させるこの技は、過去に大きな格闘技の大会でガードの上から内臓を破裂させたという恐ろしい技である。
良心さんは糸の切れた人形のようにその場に倒れ込んだ。後ろに吹き飛ばないということは、その衝撃を全て体で受け止めたということである。考えるだけでも恐ろしい。
ゆうわく母さんは、何事もなかったかのように笑顔でDVDを突き出した。
「ほら、マックのCMに出てた人のDVDよ」
なんてこった。まさかヌードルズのDVDとは。観ないわけにはいかない。それを差し出されたら必ず観ることが、お笑い好きにとって、オリハルコンよりも硬い掟なのだ。
「じゅ、十分だけだからね」
二時間後、ソラノは大いに満足してDVDのクレジットを眺めていた。
「面白かったねえ!」
「うん。まさかドナルドが漫才するとは思わなかったよ」
ゆうわく母さんは嬉しそうに、そうでしょそうでしょ、と言った。
「じゃあ次はね――」
「ちょ、ちょっと。もう原稿書き始めないと。夜中の一時だよ?」
「いいじゃない。明日やれば」
そうもいかない。明日が期日なのだ。
ソラノはすくりと立ち上がった。
「どこ行くの?」
「と、トイレだよ」
この調子でゆうわく母さんに付き合っていたら、朝になってしまうに違いない。申し訳ないが、部屋に戻らせてもらうおう。
部屋に向かう途中、室内洗濯機の陰に、何か光るものを見た気がした。何だろう?
ひょい、と覗いてみる。すると――、
「なっ――! 北海道に出張にいったはずじゃ――」
「――ただいまぁ」
ソラノの声にならない悲鳴が、狭い洗面所に響いた。
「――また、朝になってしまった……」
ついに最終日を迎えた。
まさか……、まさか二日続けて睡魔に襲われるなんて誰が予想できただろうか。いや、できまい。宝くじは当てようと思って当たるものではない。それと同じ理屈だ。
なんという不幸。なんという悲劇。それにどうして今なのか。期日ぎりぎりという今になって、どうしてこうも立て続けに不運が続くのか。
ああ、投稿したい。投稿したいのに度重なる不幸のせいで執筆ができない。くそう。なんて口惜しいんだ。ちっくしょおう。
しかしどれほど自らの不幸を呪っても、時間は戻らないし、白い世界も黒くならない。
ソラノは仕方なくそれをすっかり忘れて、仕事に行くことにした。
帰宅後、時計の針は午後十時を指していた。
なんてことだ。まさか素敵な女性とディナーをするだなんて思いもよらなかった。今日は早く帰って執筆をするつもりだったのに、
「おいしいピザ屋があるの」
だなんて言われるとは。
あまりの不幸に身が震える。あと二時間。あと二時間で原稿用紙四十枚を書ききることは物理的に不可能だ。
ぽん、と誰かがソラノの肩に手をかけた。
「もう……あきらめちまいな」
悪魔だった。
「あなたはよくやったわ。十分、戦った」
天使もいた。
しかしソラノは諦めなかった。頬を伝う涙が床を濡らしても、その震える手はノートパソコンのキーボードを必死に打ち進めようとしていた。
その様子を見て、天使と悪魔は困ったように顔を見合わせた。そして何かに怯えてキーボードを叩くソラノの背中を、哀れんだまなざしで見つめている。
不幸になんて負けちゃいけない。書かなくては。書かなくてはいけないのだ――。
ぽん、とまた誰かがソラノの肩に手をおいた。
「君は、よくやったよ。もう、休んでもいいんだ」
「りょ、良心さん……」
ついに良心さんまでもが、ソラノに諦めろと首をふった。
その言葉を聞いて、ソラノは涙と共に床に沈んだ。もう残り時間はあとわずかだった。
――もう十分に戦った。
誰もがそう思っていた。しかしその時――。
「……かか、なくちゃ」
ソラノはノートパソコンに向かって床を這いずっていった。その目には力がなく、憔悴しきっているのが誰の目にも明らかだ。
悪魔の瞳から涙が一滴こぼれた。
天使が、口元を両手で覆って息を呑んでいる。
良心さんが、哀れんだ目で言葉を無くし、ゆっくりと首を横に振り続けている。
サイギシンが、部屋の隅で体育座りをしてソラノを見ていた。その拳は強く強く握り締められている。
もう誰も、ソラノを止めるものはいなかった。
かちゃ、かちゃり。
一つ一つ、文字を打ち込んでいく。
ゆっくりと、ゆっくりと。もう、時間は日付を越えようとしていた。
「……ばれ」
誰かが口を開いた。
初めは小さかったその声は、次第に大きなうねりとなり、はじき出されるかのようにソラノを励ます大声援となった。
「がんばれ! がんばれソラノ! まだ日付は変わっていないぞ! 諦めるな!!」
もはや焦点の合わないソラノの目から、また一筋の涙がこぼれた。
震える指は、アルファベッドを一つ一つ、確かに連ねていった。
そして午後11時59分。ソラノはその文章を打ち終えた。
たった一文。最低投稿枚数四十枚のその企画で、ソラノが書いた文章は一文しかなかった。しかし、誰もそのことを恥ずかしいと思う者はいなかった。
「あとは……、送信ボタンを押せば……」
ソラノの指がタッチパネルに伸びた。しかし――、
「ソラノどうした……? ソラノ? おい、嘘だろ……? ソラノぉぉぉぉぉ!!」
もうソラノには、左クリックをする力すら残されていなかったのだ。
満足した微笑みを浮かべたまま、ソラノは指を伸ばしたままの姿で冷たくなっていた。
誰もが皆、涙で濡れた。
すすり泣く声だけが、ソラノの部屋に溢れていた。
ソラノは、満足して逝けたのだろうか?
「最後だ。ソラノを皆で、送ってやろうじゃないか」
粉々になっていたはずのプライドが、ソラノの右手に手を重ねた。
良心さんはうなずき、それに自らの手を重ねた。悪魔も、天使も、サイギシンも、アイディアマンも、ゆうわく母さんも、それに続いた。
2008年、5月12日、午後11時59分59秒。カチリ、と左クリックの音が夜空に響いた。
様々な不幸に見舞われ、それでも信念を貫き通した男の最後であった。
そして誰もいなくなった部屋に、パソコンのディスプレイだけが青白く輝いていた。
――『以上の理由で、執筆することができませんでした』