受話器の向こう
職場と家との往復。わたしの毎日は、それで終わり。
買い物だって、必要なものは仕事帰りにスーパーに寄れば済んでしまう。ネットで買うことだって出来る。
できれば誰にも会いたくない。
ただただ、無為に過ぎていく日々。
そんな私を裕子は見かねたのだろう。
金曜日の仕事帰り。
「付き合ってもらうわよ」というと、彼女は私の腕をむんずと掴んだ。そのまま駅前のイタリアンバルに連行されてしまう。
店外の小さなテラス。立ち飲みも出来るような、少し雑然としたバルの賑やかな雰囲気にホッとした。
透明なシート越しにぼんやりと行き交う人の群れを眺めた。
「こうやって飲みに出るの、久しぶりじゃない?」
裕子の声が私を現実に引き戻す。
「いつぶりかしら? 少なくとも、一年はあなた引きこもってたわね。最初に言っておくけど、私、回りくどいのは苦手、知ってるでしょう?」
知ってる。でも、そんな風に言ってくれること自体、裕子が私に気を使っている証拠だと思う。だいたい、気にかけていなければ、こんなふうに強引に食事に引っ張ってきたりはしないだろう。
裕子は、ずけずけとものを言うが、相手を思いやれない人ではない。
ここ一年間というもの、こんなに無理やり彼女が私を誘い出すことはなかった。
「恵が結婚目前に婚約解消してから一年になるでしょ? もう、吐き出してもいい頃だと思うの。どうしても嫌だったら言って、今日はもう、この話題には触れない。けど……けどね、ずっと引きこもってたら宝の持ち腐れよ。命短しなのよ」
じっと見つめる私の視線を、裕子は怯むこと無く受け止める。しばらく見つめ合った後に、私はふっと息をを吐いて肩の力を抜いた。
一年前、結婚目前での婚約解消。誰にも会いたくなくて、心配してくれる友人からのメールや電話も無視し続けていた。
次第に少なくなる連絡。最後まで気にかけて声をかけてくれたのは、眼の前にいる裕子だった。
「そうね、宝の持ち腐れうんぬんには同意しかねるけど、確かにもう、誰かに話してもいい頃なのかもしれないわ……」
私がそう答えると、じっと私を見つめていた、裕子の肩からも力が抜ける。
「よしっ! まずは食べよ! そんで飲も! ここ、肉が美味しいの」
そう言うと、裕子は勢い良く手を上げて、店員を呼び止めた。
美味しい食事とお酒を楽しむと、裕子は私を自分の住むマンションへと誘う。
「なんにも心配いらないわ。準備万端だから!」
そんな裕子の誘い文句に、思わず笑みがこぼれる。そういえば、達也さんとおつきあいをするまでは、よくこうやって裕子の家に泊めてもらっていたっけ。
「よかった……」
「え?」
「案外、元気そうじゃない……」
ホッとしたような、裕子の笑顔があった。
昔と変わらない裕子の部屋。お風呂と寝間着を借りて、裕子のベットの隣に布団を敷く。
「で? 何があったのよ。あなたの方から婚約解消したって聞いたけど? 浮気でもされた?」
「浮気……」
「あ、気に触る言い方だったら謝るわ」
「ううん、いいけど。そうね、似たようなものかな?」
「うそ、ホントに?」
「私にも、よくわからないの」
一年と数ヶ月前、付き合っていた達也さんから指輪をもらって、本当にうれしかった。
今まで私が身に着けていたおもちゃみたいなリングとは違う。左手薬指に輝く指輪。そんなに大きくはなかったかもしれないけど、大きさ以上に煌めいてみえた。
私は幸せだった。
お互いの両親に会って、式場の下見なんかにも一緒に出かけるようになっていた。
最初のうちは、なんの違和感もなかった。
けれどいつごろからだろう、指輪をもらってしばらくした頃、私は彼の異変に気がついた。
彼から笑顔が消えていき、顔色が日に日に悪くなっていく。
あの頃の私は、彼に愛されているって信じて疑わなかった。
だから彼を問い詰めた。
何か心配事があるなら、私にちゃんと言ってくれと。
◇
「毎日、ちょうど夜の十一時に電話がかかってくるんだ……」
「なにそれ、いたずら電話? 達也さん、あなたなにか、心当たりあるの?」
なんで今まで言ってくれなかったの? もしかして、そんな嫌がらせをするような女がいるの?
そんなことを考えて、わたしは少し攻撃的な気分になっていた。
「昔付き合ってた子と、毎日夜の十一時に時間を決めて電話をしていたことはあるけど……」
「じゃあその子がかけてきてるって事?」
「ありえない」
そう言って首を振る達也さんが、その元カノに肩入れしてるような気がして、私は更に不機嫌になる。
「ありえないって、なんで言えるの? その子がまだあなたに未練があるのかもしれないじゃない?」
「ああ、そうじゃなくて……彼女、死んだんだよ」
「え?」
一瞬、思考が止まった。
◇
「毎日きっかり十一時。無言電話だって、達也さんは言ってたわ」
「やだ……、ちょっと気持ち悪いわね」
私の話を聞いていた裕子が眉をしかめた。
「うん。でもね、私もそれくらいで結婚をあきらめたわけじゃないの」
一年前の私は、達也さんの家に泊まり込んだ。
犯人を突き止めたい。誰がそんな卑劣ないたずらを仕掛けているのか。
その時わたしは、傲慢にも、亡くなった彼女に同情心すら抱いていた。
そうして電話を待っている間に、達也さんから亡くなった彼女の話を聞いた。
大学時代に付き合った彼女だということ。毎日夜の十一時に彼女から電話があったこと。その彼女は、大学四年の年に、交通事故で帰らぬ人となったこと。
私は大切な思い出に泥を塗るような事をする犯人に対して、許せない気持ちになっていた。
◇
「電話が鳴ったら私が出るから!」
そういった私は、テーブルの上に載せた手を握りしめる。
私と達也さんは、息を詰めて電話を見つめていた。
刻一刻と時は過ぎ、彼の部屋の電波時計が11:00を表示した。
……電話はならない。
私は耳を澄ます。
(鳴らない! 鳴らないじゃないの!)
今日は、空振りだったのかしら? もしかして私が達也さんと一緒にいることを何処かで知って、電話をするのを止めたのかしら?
まさか、盗聴とか?
いやだ!
途方に暮れて彼を見た。
私の視線の先には、食い入るように電話を見つめる達也さんがいた。
瞬きもせずに、蒼い顔をして。
そうして、ゆっくりと受話器に手を伸ばす。
何をしているのかと思った。
だって、電話は鳴ってなんかいないんだから。
なんで、受話器をとるんだろう。
彼は取り上げた受話器を、ぎゅっと耳に押し当てた。
「まなみ……?」
受話器を両手で握りしめ、耳に押し当てた彼の口からこぼれた名前は、今聞いたばかりの彼女の名前だった。
部屋の温度が急降下して、ゾクリと私の背中が粟立った。
彼は受話器を握りしめ、食らいつくように背を丸め「まなみ! まなみ!」と、名を呼ぶ。
得体のしれない恐怖を覚えて、私は後ずさる。
だって、電話はどこにもつながっていないのだ。
プーーーーーーー、という小さな電子音が、私の耳にも届いているというのに、彼は目を見開いて、受話器の向こうへと語りかける。
どこにもつながっていない、その先。
怖くなって、わたしは逃げ出した。
◇
「それでおしまい。その後一度もわたしは彼に連絡しなかった。彼からも連絡はない」
裕子は息を殺してわたしの話を聞いていた。
こくりとつばを飲み込む音とともには、と息を吐き出す音がする。
「彼にとっては、その電話の先に、昔の彼女の声が聞こえたのかしら……?」
囁くような声で裕子が言った。
「わからない。私にはその先はどこにもつながっているようには思えなかった。怖かったのは、電話の先の彼女なのか、それとも……」
あの時、彼から受話器をもぎり取り、あの電話を切ってしまえばよかったのかもしれない。
彼をひっぱたいてでも、自分の方へ目を向けさせればよかったのかもしれない。
「でも……死人には、勝てないわ」
彼女は死んだ時のまま、ずっと彼を愛し続けているのだ。
私に、その彼女と戦う勇気はなかった。
永遠を望むなら、終わる、つまり死ぬほかはないのだと、私はこの時はじめて知った。
ただ、それだけのことだ。
今でもふとした拍子に、彼女を呼ぶ彼の声が聞こえる。
その声は私の中に、羨望と、甘い誘惑の種を、そっと植え付けていったのだった。
〈了〉