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第五獄 嘘紡ぎのヒルダ

嘘紡ぎのヒルダ



 ――口伝では移ろいゆくものも、記せば永遠となる。

 机の向こうに立つ獅子王レオニールが腕組みをしながら言い、顎で仕官に合図を送る。

 ヒルダの目の前に銀刺繍の装丁が施された分厚い歴史書と、参考資料となる本が次々に積まれていった。

「今日からお前の仕事はそれだ。励めよ」

 ヒルダは状況を飲み込むのに必死で、目の前に仕官が置いた歴史書を穴が開くほど見つめながら、ただ首を縦に何度も振るのだった。

 あの寂れた村で一生を終えるはずだった何の取り柄もない自分が、いきなり城に連れてこられて何をさせられるのかと思えば、歴史書の編纂作業だと言う。

 レオニールは困惑するヒルダを睨み続けている。逆立つ短い金髪も相まって、威圧的なことこの上ない。

 ヒルダはレオニールをちらりと見やった。炎色のマントの内に見えるブリオーは昂金糸の綴れ織で、うっすらと光を反射させている。二十歳を迎え肉体的にも成熟した王に似合いの豪奢な服だ。

「もっと堂々としろ。今日からお前は俺の配下なんだ……そう、それでいい」

 反射的に背筋を伸ばすのを見てレオニールは満足気に頷くが、ヒルダはこの灰紅一色の書記官服が自分に似合っているとはやはり思えなかった。

 全体的にタイトで、女性的な華やかさよりも知性的な印象を重視した、学術の徒といった雰囲気のドレス。

 確かに王からすれば自分の服は全然地味だが、それでもこれまで十七年の自分の人生からすれば充分すぎるほどに華やかだった。

 しかもただ長いだけだった黒髪も、よく知らない薬湯で艶やかにされ、これが自分だとは信じられないくらいに綺麗に整えられ、一人では絶対に出来ないような結い方でもって上品に頭の後ろで留められている。

 やはり自分がこんな待遇を受けていいのだろうか、疑問が拭えないヒルダは、机の隅にあった端書き用の紙に手を伸ばした。

 そして率直に疑問を紡ぐ。

 ペンは使わない。ヒルダにとっては効率が悪いからだ。

 指先に薄紅の淡い光を宿し、紙をなぞる。

【私なんかが このような仕事をして よいのですか】

 紙を持ち上げ、浮かんだ文字を見せる。

 生まれつき口の利けないヒルダに与えられた、文字を紡ぐだけの魔法。

 レオニールはそれを見るなり笑うのだった。

「前を見る者こそ俺の配下に必要なのだ。喜べ、お前は俺のルールを満たしているぞ」

 それにその魔法はペンより効率がいい、とレオニールは付け加えた。

【私でも お役に立てるのですね】

「クエンテを滅ぼした今、この国の歴史は大きく変わる。小国が大国に変わる様をそばで書き記す栄光に感謝しろよ、声なし」

 まるで世界は自分のものになるとばかりに言い切って、レオニールが部屋を出ていった。

 ヒルダの歴史書記官としての人生は、こうして始まった。



 歴史の編纂作業はヒルダの予想を遥かに超えて膨大なものだった。

 これまでの歴代の王の英雄譚気取りの文書を洗い直し、再文章化。更にレオニールの日々の行動を細かく記録する。後者は取り巻く世界情勢も記さねばならず、初めはついていくのに精一杯で、徹夜することも多かった。

「国営農場の規模を拡大することにした」

 徹夜明けの眠い目をこすっていたところに突然やってきたレオニールに、ヒルダは緊張と共に背筋を伸ばした。

「俺の前でそのような無様な格好、死罪に値するぞ」

【申し訳 ございません】

 指を震わせながら、紙に文字を記す。

「まあ俺も鬼ではない。今回は許してやる」

 連日徹夜させるのは鬼の所業ではないのかしら、と思いつつもヒルダは深く頭を下げる。

「薬草ルーシアの生産量を二倍にする」

【ルーシアは 市場占有率が低い と聞いてますが】

「これまでの滋養薬としてではなく、明確な疾病に向けた薬草として認めさせる。特一級薬効認可が下りれば、国の主力産業になる」

 レオニールが近づいてきて、ヒルダの机の上に腰を下ろした。

【でも 人手は 足りるのですか?】

 そこは疑問だった。すでに多くの民を国営農場に徴用している。

 しかしレオニールはヒルダの疑問を鼻で笑い飛ばすのだった。

「俺を誰だと思っている? 俺が召集したら誰も逆らわせん」

 これは国民のためなのだ、レオニールは臆面なく言い切るのだった。

 獅子王の強硬政策は、ヒルダに休む暇を与えてはくれないようだった。



 平民に過ぎないヒルダは、城の中では疎まれる存在だった。

 宰相マザランを始め、レオニールの臣下はほとんどヒルダの敵と言ってよかった。

 もちろん王に直々に拾われたヒルダを追い出すような真似はしないが、どこからともなく聞こえてくる陰口は、止むことはなかった。

 いわく、王をたぶらかした魔女。

 いわく、下賎な血で城を汚す端女。

 いわく、王の食べかすを狙う野良猫。

 貴族の血が流れていない、それはこの城の中では重罪のようだった。

 たまに訪れる自由な時間は、そんな陰口が頭の中をぐるぐると巡って、部屋から出ることすら躊躇わせた。他の人間の目が怖くて、散歩の一つも出来ない。

 そんなヒルダは、たまたま手にした占術書に逃げるようにのめり込んだ。

「お前最近占いばかりやってるな」

 少ない暇を見つけてはやってくるレオニールが、少し離れた丸テーブルに頬杖を突いてつまらなそうに言った。

【面白いのですよ? 不思議なくらい 当たるのです】

 左手でカードを並べながら、右手で器用に文字を投影してレオニールに見せる。

「ほう、そんなに当たるのか」

 そう言ってレオニールが近づいてきた。

 ヒルダは興味を持ってくれたようなその言葉が嬉しくて、饒舌に文字を紡ぐ。

【レオ様の未来も 占ってみました なんとすばらしいことに すべてうまくい】

 そこまで文字を記したところで、紙が奪われた。そして、

「俺の未来を勝手に決めるな」

 紙ごと机に手を叩きつけるレオニールの剣幕に、ヒルダは思わず縮こまった。

「俺は占いが大嫌いだ。そんな不確かなもので国が動いてたまるか」

【でも】

「黙れ」

 レオニールがヒルダの右手を押さえつけ、呟いた。

 何故、ヒルダは理解が出来ない。占いのいい結果は自信に繋がるし、悪い結果は予言と思えば避けることのできる忠告だと思うのだ。

 それに没頭できる何かがないと、自分はもう陰口に耐えられない。

 ヒルダは空いた左手で文字を紡いだ。

【占術を失ったら 一人の時 寂しくて つらくて どうかなってしまいそうなのです】

 レオニールが何かを言おうとして――それよりも先に、ヒルダは次の紙に文字を打った。

【だからお願いです どうか私から占術を 取り上げないでください】

 そこまで一気に紡いで、涙を浮かべながらレオニールをまっすぐに見つめた。

 しかしレオニールは馬鹿馬鹿しい、と言いたげに溜め息をつくのだった。

「俺がこうして来てやっているだろう」

 その言葉に、ヒルダは押さえつけられた右手を払いのけていた。相手が王ということも忘れていた。

【レオ様がいない時間の方が ぜんぜん多いのですよ!】

 顔の前に紙を突き出し、ばたばた揺らしながら全身で訴える。

 どうして分かってくれないのか。孤独な自分にはつらい出来事を忘れる何かが必要だというのに!

 ヒルダの感情をぶちまけた紙は、しかしあっけなく払いのけられた。

 レオニールが鷲掴むようにヒルダの頭に手を置いてくる。そして、

「ならその間は俺のことを考えろ。俺の姿を想像し、俺との会話を想像し、俺に褒められる瞬間を想像しろ。そして次に俺が訪れるまで何度でも繰り返せ。そうすれば俺もお前に笑顔をくれてやる」

 どこまでも一方的な言葉だった。

 だがレオニールなりの気遣いなのだろう。

 笑顔をくれてやるだなんて、普段の彼からは決して出ない言葉なのだから。

 ――本当ですか?

 念押しに尋ねようと動かした右手が、再び押さえつけられる。

「だから待っていろ」

 レオニールが強い眼差しで見つめてくる。

 ヒルダはまともに彼の顔を見れず、俯きがちに頷いた。

 胸の苦しみはいつの間にか、穏やかな波のように静まっていた。


 こうしてレオニールは占術書を禁止する王命・二百三十六禁ニ令を発した。

 占術書はすべて回収され、三日後には国からすべて消えた。



【国営農場 不満の声が 上がっているそうですね】

 ある日の昼下がり。

 臣下の目を盗むことなく堂々と執務室を訪れたレオニールに、ヒルダは心配そうに言葉を紡いだ。

「みたいだな。新しい生活基盤を理解できない馬鹿どもは、痩せた麦を食って飢えてる方が好きらしい」

 嘲るように呟いて、レオニールが椅子にどかっと腰を下ろした。国営農場は半ば強制的に民を徴用している。それに対して国民から不満が上がっているようだ。

「まだ作業してんのか。のろまめ」

【ではもう一人 書記官を増やして下さい】

 ヒルダは左手で歴史書をめくりながら、作業の合間に器用にレオニールへの文句を紡ぐ。

「駄目だな。二人っきりの状況でお前を罵るのが俺の趣味だからな」

【獅子王ともあろうお方の 嗜みとは思えないですね】

「言うようになったな」

 レオニールが愉快そうに笑う。

【レオ様の 教えの賜物です】

「グズが俺を真似てもグズなのだがな」

【そうです 私はグズなので 今日はお話している余裕が ありません】

「まあむくれるな。朗報だ」

 背もたれに深く預けていた身体を起こし、レオニールが続ける。

「ルーシアの特一級薬効認可が下りた。シーラインを使った新規ルートも確保してきた」

 レオニールの言葉にヒルダは思わず立ち上がっていた。王の強硬政策がこうも早く実を結んだことへの驚きと、実行力への感動とで。

 あとは生産性を上げれば、ルーシアは強い効力ながら安価で、薬草市場を席巻できる。

 そのための準備はもう整っている。国営農場は二年前から着々とルーシアを増産しているのだ。去年は生産しても大量に売れ残る有様だったが、今年は違うだろう。

【おめでとう ございます!】

「落ち着け紙女、揺れて文字が読めん」

 嬉しさで紙をひらひらさせていたヒルダは、窘められてしゅんとする。

「まあこれで薬草市場がひっくり返る。この国はもっと強くなるぞ」

【国民の皆さんも 喜んでくれますね!】

「……だといいがな」

【きっと 絶対 そうなります!】

 力強く紙を突き出す。

 しかしヒルダは気づいていなかった。

 レオニールの表情が翳っていることに。



 カーテンを閉めて尚、窓を打つ雨が強い晩のこと。

 手明かりほどの燭台の火で編纂作業を行っていたヒルダは、突然乱暴に開いたドアに驚いて身体を振るわせた。

 入ってきたのは、宰相マザランだった。

「王をどこにやった!」

 まるで犯人だとばかりに怒鳴られ、ヒルダは怯えながら首を横に振った。そして紙に【見ていません】と表そうとしたところで、

「野良猫を愛でてるわけではなかったか」

 舌打ちしながら、マザランは去っていった。

 ヒルダは跳ね上がった心臓の鼓動を落ち着かせて――ようやく事の重大さに気づいた。

 ――レオ様がいない?

 そう胸中で呟いた時には、ヒルダは立ち上がっていた。脇に置いておいたストールを羽織り、部屋を出る。

 事故、失踪、暗殺、嫌な言葉ばかりが浮かぶ頭を、かぶりを振って追い出しながら小さな歩幅で必死に駆ける。

 心当たりはない。だが宰相自ら駆け回っているということは、一般兵には知らされていない場所、立ち入ることの出来ない場所の可能性も考えているのだろう。だからもしいるとするなら、巡回兵の多い中庭ではない。

 ヒルダは一つの当たりをつけていた。それに従っていくうちに、王を呼ぶ臣下達の声は段々と遠ざかっていった。

 やがて辿り着いたのは、建造中の憧憬塔。

 この国で一番高い塔建造へのレオニールの情熱を、ヒルダは一番理解しているつもりだ。

 だから迷わず螺旋階段を上がる。息も絶え絶えに、それでも止まらず。

 階にすれば七階ほどの高さまで上がったところで、階段は途切れていた。横には扉。

 凝った意匠の扉は今は開け放たれていて、外の様子が窺えた。

 雨にさらされた展望テラスに、レオニールはいた。

 こちらに背を向け、柵にもたれている。

 ヒルダは扉を叩いて呼びかけたが、雨のせいか彼に届かない。

 誰か呼びに行こうか――と考えて、やめた。

 自分には声はなくとも足があるのだから。

 それに、なんとなくこれは自分の役割であるような気がしたのだ。

 一歩踏み出すと、途端に雨が全身を叩いてきた。頬に髪が張り付き、薄手の書記官服は身体のシルエットを浮かび上がらせる。ヒルダは、せめてもの雨よけに手を瞼にかざしながら、レオニールの元に向かった。

 そして横に並び立つ。見上げた彼はヒルダにまったく気づく様子はなかった。

 ヒルダは、無礼だと思いながらもレオニールの天鵞絨のプールポワンを摘まんで引っ張った。

「お前か」

 こくこく、と頷いてヒルダは憧憬塔の中に戻るよう指差した。しかしレオニールは動こうとはしなかった。

「この塔の意味をお前は覚えているか?」

 唐突な質問にヒルダは一瞬目を丸くしてから、強く頷いた。

 この塔は民が常に上を目指せるよう――意識的に見上げさせ、国民が一丸となって強い国を作り上げられるように、との願いが込められている。この意味を聞いた時、ヒルダはとてもレオニールらしくて素晴らしいと思ったものだった。

「だが城下ではこう呼ばれているらしい。『王が民を支配し監視するための塔』だとな」

 遠くを見ながら嘲笑気味に呟くレオニールの顔は、ヒルダからはよく見えなかった。

 何故だろう。口調と裏腹に苦しそうに聞こえるのは。

 紙がないと会話の出来ない自分が恨めしい。

「占術書の禁止、国営農場への反強制的な徴用、憧憬塔の建築。国民に痛みを強いているのは確かだ。だがそれはこの先国民全員が一丸となって――」

 熱くなったところで、レオニールが口をつぐんだ。

「お前に言っても無駄だな。忘れろ。そして帰れ」

 手を払って追い出そうとするレオニールの背中に、ヒルダは寄り添った。

 言葉で伝えられないならせめてこうして、理想を求めるレオニールについていくことを示したかった。

 と、ふいに振り返ったレオニールが抱きしめてきた。

 腰に回る腕は、果実をかじる寸前で止めるような、繊細でいて嗜虐的なもので。

 ヒルダは少しだけ苦しそうに顔を歪めた。

 顔が紅潮していくのが自分でもはっきりと分かる。

 気を抜いたら簡単に身を委ねてしまいそうなくらいに、求められているのが理解できる。

 雨で張り付いた前髪が、かきあげられる。

 ヒルダがレオニールの瞳に吸い込まれそうなように、レオニールもまたヒルダの瞳だけを見ていた。

 虚ろにも見える彼の瞳が、近づいてくる。

 それで、気づいた。

 レオニールは今、すべてを忘れたいのだと。

 ヒルダはレオニールの胸に両手を添え、彼を押し留めるように力を込めた。

 そして唇を動かし、声なき声で拒絶の言葉を口にした。それは魔法で言葉を扱うようになってから初めてだったかもしれない。

「……ヒルダ」

 王の誘いを断るなど、無礼の極みだと分かっている。ことさらレオニールなれば、この場で斬って捨てられてもおかしくない。

 ――いっそ斬ってくれた方がマシだった。

 ヒルダは震える指で、憧憬塔のてっぺんを――空を指した。

 指の示す先を目で追ったレオニールは、ややあって、

「俺に指図、か。……無礼者め」

 自虐的な笑みを浮かべた。

 そして、腰に回っていた手が離れた。

「戻るぞ、のろま」

 ヒルダはレオニールに乱暴に手を引かれながら、帰路に着いた。

 螺旋階段を下りる間、レオニールはずっと手を引いてくれた。しかしそれは先ほどのような繋がりを求めるものではなく、彼なりの紳士的な振る舞いの一環でしかなかった。

「これから忙しくなる。記すべきことは増えるから覚悟しておけ」

 レオニールは一度も振り返らなかった。

 それでいい、とヒルダも思った。



 時は過ぎる。想像を超える速さで。

 レオニールはいつもどおりに時間を見つけてはヒルダの執務室にやってくる。だが以前のように他愛のない会話はほとんどない。

 憧憬塔の建造は急ピッチで進み、国営農場も徴用する国民の数を大幅に増やした。

 クエンテの撃破以降掲げたレオの強硬政策は、ここにきて更に強さを増した。とある外国の有識者は『経済基盤を築いた状況では正しい選択』と述べ、また別の者は『正しい独裁の推移』と述べた。

 日を追うごとに、記す出来事の濃度が上がっていく。

 それはまるでレオニールが命を削って時に刻み付けているようだった。

 彼の作り上げる国の歩みを書き留め、それによって変化する諸外国の戦況や経済状況をチェックし、時に市場査察にも出向き――ヒルダもまた、忙殺されていた。

 少し寂しいけれど、幸せだと思う。

『お前は臆病なくせに、ここぞというところで退かぬのだな』

 戦火の中でクエンテ軍から助けてくれたレオニールが、ヒルダに言った言葉。

 無茶だったと思う。隠れていたのに、村の祭具に火が放たれると思ったら飛び出していたのだ。この村がなかったことにされてしまう気がして、どうしても防ぎたかったのだ。

 レオニールが通りかからなかったら、間違いなく死んでいた。

『何故隠れていなかった?』

【あなた様も 譲れない何かがあるから ここにいらっしゃるのでしょう?】

 思わずそう答えて、レオニールが馬上で高笑いしたのを覚えている。

 そしてレオニールは、自分をさらった。

 だから、もしもあの最初の言葉が自分を書記官として登用したきっかけだというなら、自分はそれを貫かなくてはならない、と思ったのだ。

 本当はあの時、身を委ねたかった。

 でもそれは自分達の進むべき道を曲げあってしまう。

 レオニールは前へ前へ突き進み、自分はそんな彼の足跡を記し続けて。

 それこそが、二人の正しい道だとヒルダは思うのだった。

 だから互いにもう、立ち止まらない。

「おい鈍亀、同盟国協議の結晶炭保有比率の項が抜けてるぞ」

【そのような項は 上がってきた議事録に ありませんでした】

「本当か? ……ああ、記されてないな。担当した奴は処刑だな」

【それが レオ様の道に 必要ならば】

「必要さ。俺の部下に使えぬ者はいらん」

 言って、議事録を手にレオニールは執務室を出ていった。

 前を向くことを強制したのは自分。

 暴君でいることを強いたのも自分。

 いまさら咎める資格などありはしない。

 死ぬまでレオニールの背中を見続ける。それが書記官としての自分の道だ。

 時は過ぎる。

 想像を超える速さで。



 クーデターは迅速に行われ、獅子王レオニールはあっさりと玉座から引きずり下ろされた。たった三年弱の実に短い独裁政権だった。

 首謀者は宰相だったマザラン。彼の掲げる『民衆による政治』という旗印はこれまでの圧政への反動もあって、たった一夜で多数の国民に支持された。

 その、歴史的変化の最初の仕事とばかりに、レオニールの処刑は大々的に行われることとなった。

 刻刑。設定した時刻になると首が刎ねられるそれは文字通り時計で、長針の刃と短針の刃の間に罪人の首をくくりつける。

「貴様ら、随分と大胆な行動に出れるようになったな。褒めてつかわす」

 刻台に縛りつけられながらも、レオニールは普段どおりだった。恐怖を感じている様子は欠片も見られない。ぎらつくほどに強い光を湛える双眸は、今も獅子王のままだった。

 ヒルダは兵に両肩を掴まれながら、その様子を見守った。歴史書を抱える手の震えは、一向に治まる気配はない。

 それでも、助けには入れない。――いや、入らない。

 レオニールが王で在り続けているのだ。だから口を固く結んで、彼の姿を見届けるのだ。

 この国のために身を捧げたレオニール。

 長年の仇敵とも言えるクエンテを撃破したのは彼。ルーシアで市場を席巻し莫大な経済効果をもたらしたのは彼。結晶炭の最保有国になったのも彼のおかげ。国営農場の徴用に不満が募っていたが、そうしなければ百万を超える民がのたれ死んでいた。それを解決したのだって――彼なのだ。

 国民には伝わらなかったのかもしれない。

 それでも、レオニールはこの国を強くした。礎を築いた。それは真実なのだ。

「憧憬塔だけは壊すな。あれはまだ貴様らには必要だ」

 ともすれば嘲笑っているかのような表情で、レオニールが言った。

 きっと、この意味を理解する者は、今はいないのだろう。ヒルダは思った。

 最後に言い残すことは、とマザランがレオニールに尋ねる。

 レオニールの瞳がヒルダに向く。

「泣かなかったな。偉いぞ」

 満足そうに笑って――レオニールは滑る金属音と共に、その人生に幕を下ろした。

 すぐにヒルダは歴史書を開いた。

 彼の成した道を残すために。



『獅子王レオニールは、千里戦争において隣国クエンテを撃破。

 王は民に新たな未来を示した。

 王は占術書を禁止する王命・二百三十六禁ニ令を発する。

 だがそれは、民と王が不確定な未来に頼らず、結束するためのものだ。

 この国の薬草・ルーシアが特一級薬効認可を取得。更には海上のルートを開拓。

 国営農場が本格的に運営を開始。同盟国間での結晶炭の六割保有を達成。

 すべては民に国の強さを見せるため。

 憧憬塔の建造に着手。それは王が民を愛した象徴。

 孤独な王の苦しみを、民は知っている。

 民は王に深く感謝し、彼の死を嘆き、永遠に愛した。』



 レオニールの略歴、その最後の一行を追記した瞬間、歴史書がマザランに奪われた。

 マザランはつまらなそうに内容を一瞥すると、嘲笑と共に歴史書を閉じるのだった。 

「全部嘘だな」

【これは 嘘ではありません】

 ヒルダは気丈にもマザランに紙を突き出してから――その紙を放り捨てた。

 王の略歴に書いたこれは、確かに今は少しだけ嘘かもしれない。民は感謝などしていないのだから。感謝するとするなら、本当に自分の足で立った時だろう。その時、みな王の育てた土壌の価値に気づく。

 いわばこれは、理想も追記したものだ。

 だがいずれ真実になるものだ。

「平民が無礼にも歴史書に落書きをしたようだな。まったく嘆かわしい」

 大仰な仕草で首を横に振って、マザランが溜め息をつく。

「しっかり記さねばな。ここにあるすべての出来事を成したのはマザランだと」

【歴史の改竄は 獅子王の厳命で 禁止されています】

「王は我だ、嘘紡ぎの端女」

【なんて ひどい!】

 レオニールの作り上げた歴史がすべてなかったことにされてしまう――ヒルダはマザランの歴史書を取り戻そうと、拘束を振りほどいて駆け出した。

「処刑しろ」

 汚いものをみるような目を向けながら、マザランが言った。

 周囲の兵士達が一斉に槍を突き出す。

 まるで空中に縫い止められるかのように、ヒルダの華奢な身体は十を超える槍によって、持ち上げられるように貫かれた。

 歴史が消される。

 ならば、せめて。

 ヒルダの指先が、歴史書を求めて彷徨う。

 そして最後の力を振り絞って、魔法の薄紅光を生み出した。

 本当はずっと秘めたままにするつもりだった、隠れたメッセージを解き放つのだ。

 唇の端から血を流し、ヒルダは微笑む。

 魔法は確かに届いたから。



 ヒルダの魔法は、王の略歴に魔法文字で記されたすべての『民』を『私』に置換した。

 現れたレオニールへの親愛のメッセージは、今となってはヒルダだけの彼の証明。

 私だけは真実の歴史を知っている、と。

 公正な歴史書ではないだろう。矮小な証でしかないだろう。

 でも、この自分の主観だけは、誰も嘘だと言えない真実だ。

 口伝では移ろいゆくものも、記せば永遠となりぬ。

 ――ですよね? レオ様。

 薄れていく意識の中で、ヒルダはレオニールの力強い頷きを、確かに見た。


 ―了―

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