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第四獄 ククルトリアは恋を知らない

 ククルトリアは恋を知らない



 魔女ククルトリアは恋を知らなかった。

 難解な魔法の数々を理解しながら、それでも恋だけを知らなかった。

 男性、そんな言葉は生まれてこのかた、文献でしか見聞きしたことがないから。

 簡素な石造りの部屋。その窓際に置かれたベッドの上から、ククルトリアは外を眺めていた。いくつもの八の字を描いたような格子の向こう、目を下に向ければ城下の明かりがぽつぽつと見え、そこから先へと向ければ、夜の暗い田園風景が広がっていた。

 まったく知らない土地――知らない部屋。

 ククルトリアはこの国の魔女討伐の軍に捕まって、城の離れの塔に幽閉されていた。

 最上階と言っていいのか分からないが、一番上に唯一あるこの部屋からは、昼なら果て無きテオドアの山々も見渡せる。その向こうが故郷だ。

 景色は素晴らしく、気分は最悪。

 風に揺れる髪を、ククルトリアは指先で摘んだ。クセの強い肩までの赤い髪。決して嫌いじゃなかったが、出来ればまっすぐな髪になりたかった。大好きな村の先生のような、まっすぐな髪に。

「こんばんは、ククルトリア」

 そんなククルトリアの夢想を壊すようにノックもせずに部屋に入ってきたのは、物腰穏やかな青年だった。歳は十七のククルトリアより五つは上だろうか。

 背中までのまっすぐな黒髪は後ろで一つに束ねられており、ククルトリアよりも長い。そして切れ長の目に少し長い睫毛。すらりと伸びた鼻と細い唇――そのすべてが、元の目つきが冷めているように見えると言われたり、つんと伸びた鼻先が生意気だと言われたククルトリアからすれば、顔立ちで喧嘩を売られているような気さえするのだった。

「すごい目つきだね」

「初めてだもの、男を見るの」

「警戒以外の何かを感じるんだが」

 針緑色と淡銀色の糸でこの国独特の紋様が刺繍された、白い法衣。

 その袖を少しだけまくり、青年――アーシュがククルトリアに向かい合うように椅子に腰を下ろした。

 ククルトリアは人間の男を探していた。魔女と人間が敵対関係にあるのは承知している。だが人間にはおいそれと扱えない魔法を扱う魔女を、いきなり捕まえる者に出会うとは思わなかった。しかもそれが初めて出会う男なんて。

「それと夜の挨拶は、もし相手が寝ていたら起こさないように一鈴二寂三鈴よ、人間」

「君達のしきたりは君達の住む場所で主張しなさい」

「……そうでしたわね、アーシェリオさま」

 そう言うと、アーシュの穏やかな顔色が曇った。

「アーシュと呼んでくれて構わないよ」

「呼び方なんて――」

 ククルトリアはベッドから跳ね、素足で床に降り立った。

 左足首につけられた金色のレグレットがしゃらん、と鳴る。それは羽の意匠が施されていてとても美しく見えるものだったが、これのせいで魔力のほとんどが封じられている。

「――別れの時には必要ないでしょう?」

 ククルトリアが何をするか――いや、何が出来るかを悟ったアーシュが、席を慌てて立とうとする。

 だが遅かった。ククルトリアの指先から放たれた赤い光が、部屋を満たす。

 光が消えた後には、部屋にいくつもの浮遊する剣や槍が現れていた。これは幻覚に過ぎないが、魔法をかけられた者に現実と虚実を判別する術はない。

 多少封じられていたって、幻覚魔法くらいこの通り使えるのだ。

「魔女を舐めないでよね」

 ククルトリアの呟きと共に、数多の武器がアーシュの身体を突き刺した。腹と背中、両側から喰い込んだ刃が内部で噛み合い擦れ合う金属音を、彼は聞けただろうか。

 それほどにあっさりと、末魔の喘ぎすらない終わり。

「じゃあね、アーシェリオ魔女討伐師長」

 実際には傷一つない亡骸に一瞥もくれず、ドアを開けて解放の一歩を踏み出す。

 しかしそこは塔の螺旋階段の踊り場ではなく、雲が眼下に広がる、空の只中だった。

 とっさに手を伸ばす。しかし空の中にぽつんと佇むドアのノブは掴めず、ククルトリアは吸い込まれるように空に落ちていった。

 意識が遠のく。消える。死ぬ?

 と、ククルトリアはベッドから跳ね起きた。

 こめかみを伝う汗と共に横を見やると、アーシュが椅子に座ったまま穏やかに言った。

「随分とうなされていたね」

 悪い夢を見ていた、なんてことがあるわけなかった。

 アーシュはククルトリアの幻覚魔法に、より強い幻覚魔法で対抗してきたのだ。

 まるで悪夢にうなされる自分を見守っていたとでもいうかのような振る舞いに、ククルトリアは思わず叫んでいた。

「出てって!」



 アーシュはそれからも毎晩ククルトリアの部屋を訪れた。

 強大な魔力を封じられているとは言え、幻覚魔法くらいは操れるククルトリアを見張れるのは自分だけだ、と言いながら。

 部屋の外で見張っている部下を、適当な理由をつけてぞんざいに追い払う声が聞こえたらそれが合図。やはり一鈴二寂三鈴などせずに部屋に入ってくる。

「見張るなら外にいなさいよ」

「見張るなら見える位置にいないとね」

 いつもの椅子に座りアーシュが軽口を叩く。

 眠気を誘う梟の鳴き声が響くが、こんな近くに人間の男がいるのでは落ち着いて寝られやしない。もっとも、アーシュなりに床に見えない線を引いているらしく、それ以上こちらに近づいてくるような真似を働くこともなかったが(いや夜遅くに乙女の部屋に勝手に来るのだ、充分最低だわ)。

「いいかげん私をどうするか教えなさいよ」

「上は決めかねているよ」

 大事な取引材料だからね、とアーシュは淡々と告げる。

 魔女と人間は相容れぬ存在だ。同じ人間の筈なのに、他の民族とはあまりにかけ離れている性質を持っているというだけで、彼女らは迫害され。そして人間は報復され。

 数百年経った今でも、その繰り返しだ。

「じゃあ今のうちにあなたを殺して、このレグレットを外すわ」

 言うや否やククルトリアは幻覚魔法を放つ。

 光の後、部屋は海中へと世界を一変させた。今夜は無限の深海に落ちていく幻覚だ。

 アーシュは呼吸がしたくてもがき苦しみ、人魚も近寄らぬ暗闇の海へ落ちていく――

 と、背後を振り向くと、山と間違うほどの巨大な鯨が口を開けて迫ってくるのが見えた。回避しようにも、山のような相手にどこへ逃げろというのか。

 そしてククルトリアは鯨に飲まれ――視界と意識が暗転したかと思った瞬間、意識を取り戻した。

「勝てないよ、君じゃあ」

「レグレットの、せい、よ」

 ベッドの上で仰向けになりながら、ククルトリアはぜえぜえと喘いだ。

「君が私に捕まった時、レグレットはあったかい?」

「……うる、さい」

 アーシュは相変わらず汗一つかかずに椅子に座っていた。

「ククル、君の努力は賞賛に値するよ。深海を再現できるなんて、相当修練に励んだのだろうね。でも私の努力の方が賞賛の賞賛に値するようだ」

「何よ、その子供の理論は」

 枕を投げつけると、アーシュは片手で受け止め、そっと膝の上に置いた。

「ねえ。何で毎晩来るの」

「君は人間を知らない。私は魔女を知らない」

「そうね」

「だから、少しでも知りたいんだ。君達のこと」

「話したら、私は空の下を歩けるの?」

 その問いにアーシュは答えない。ククルトリアの望む答えなど、きっと持ち合わせていないから。

 それはとても卑怯な沈黙。

 時を刻む針は、残酷なまでにのろまだった。



 ククルトリアとアーシュの夜毎の対決は、それでも続いた。

 だがククルトリアは一度も勝てない。

 沼に沈めれば、直後に雷に打たれ。

 火口に落とせば、直後に意思を持った噴煙に巻かれ。

 永久氷壁に閉じ込めれば、直後に灼熱のオーロラに照射され。

 一度、どうやっても勝てずに不貞腐れた夜は『神秘的な幻覚世界の構築より、相手の虚を突く攻撃法を考えるべきだ』とアドバイスまでされる始末だった。

「じゃあさ。巨大な獣に襲われると見せかけて、その後ろの小動物に食べられちゃうってのはどうかしら?」

「なかなかいいんじゃないか? 普通なら巨大な獣の方に防衛本能が働くから」

「やった! ちょっとコツが掴めたかもしれないわ!」

 ベッドの上で手を合わせて喜んだ後で、ククルトリアははっと気づいて両手をシーツに叩きつけた。

「いつまでいる気よ! 早く帰って!」

 確かに、時刻は十一の刻を過ぎていた。

 久しぶりに時間が早く過ぎたことには、ククルトリアも驚きを隠せなかった。



『恋?』

「そう。私達にはたった一度しか許されない幸せな想いのことよ」

 年の離れた姉のような先生は、口を揃えて反復するククルトリアら生徒達にそう言った。

 すぐさま口々にあがる生徒達の質問、しかしそれはとても一言では言い表せないものらしく、答えは人それぞれとしか教えてもらえなかった。分かったのは『うんめいのひと』という人間の男性とするものだ、ということくらいだった。

「ずっとつかまえて離してほしくない、って想いでしたね。先生にとっての恋は」

 窓の外、谷を吹き抜ける風の行く先へ目を向けた先生はとても穏やかで。

 何よりその後に見せた少女のようなはにかみが、ククルトリアには忘れられない。

 敵である人間を思い浮かべて、どうしてあんな表情が出来るのか。

 うんめいのひと、に会えば自分も優しくなって、離れたくないと思うのだろうか。

 それが、恋?

 それから五年、十七になった日にしきたりに従って『うんめいのひと』を探す旅に出てから今日まで。何一つ分かっちゃいない。

「だから早く逃げ出さなきゃ」

 レグレットは、アーシュの魔力が弱まれば外れるだろう。

 明かりの落ちた真っ暗な部屋の中、ククルトリアは次こそは勝つのだと誓うのだった。



 次の晩。

 毎晩九の刻に部屋を訪れていたアーシュが、やって来なかった。

 せっかく今日は新しい幻覚魔法を見せてやろうと思ったのに、である。

 時間にきっちりとしていただけに、今日はもう来ないだろう。という予感。

 それでも二の刻の間、ベッドの上から彼専用と成り果てた椅子を見つめ続けた。

 壁の時計が、十一の刻を告げ。

 足のレグレットをそっと撫でる。

 そのまま、ククルトリアは膝を抱えて目をつぶった。



「待ち焦がれたの。何でかな」

「私に恋でもしたかな」

「恋を知ってるの?」

「いや。きっと、知らない」

 二日ぶりにアーシュが部屋に来た時間は、やはり九の刻ぴったりだった。

「なんなんだろうね、恋ってば」

「私も探求中だ」

 アーシュは苦笑いを見せながら、椅子に座らずにいきなり魔法を放った。

 部屋が白と黒に凍りついたかと思った次の瞬間、景色が切り替わった。

 一面真っ白な世界の中、巨大な円形の牢獄が二人を包んでいた。天井を仰ぐと、アーチのようにすべての格子が中央へと収束していた。それでククルトリアは、これが巨大な鳥篭なのだと気づいた。初めて見る、アーシュの幻覚魔法世界。

「今日はあなたからなんだ?」

「……本当は魔女はもっと悪い存在かと思っていた。でもきっと、君達は何も悪くないのだろうな」

 ただ男性が生きられぬ土地に住んでいた。それ故に女性だけで構成される民族になった。何故か、彼女らは全員膨大な魔力を持った。そして子孫を残すために一生に一度男性を探す、その性質を、外の地域の人間は『男を惑わしどこかへ連れ去る魔女』と忌み嫌うようになっていった。

「きっと惑わしたのではなく、君達を好きになった男が選んだ結果なのだろう」

「うん。先生はうんめいのひとを思い出して、優しい目をしていたわ」

「こんな――」

 立場じゃなければ。そう呟いたところで、アーシュは考えを払うように首を横に振った。

 長い黒髪が、遅れてふわりと舞う。

「私には守らなければいけない民がいる。今日で終わらせることにした」

「私は勝ってここを出て行くわ」

「させないよ」

 アーシュが人間の倍はあるだろう金色の巨大な鷲を呼び出し、ククルトリアへと放つ。

 襲い来る鋭い爪、しかしククルトリアは自身の背に髪と同じ紅い羽を生やし、紙一重ですれ違うようにして大鷲よりさらに高い位置へと逃れる。

 その瞬間、頬を矢が掠めた。見下ろすとアーシュが神世の天使の弓を具現化させ、矢をつがえていた。すぐに矢が横殴りの雨のごとく飛来する。

 ならば雨。

 ククルトリアは矢と自分の間に鋭い水圧の雨をカーテンのように展開し、矢を叩き落した。そのままアーシュの上にも降り注がせる。

 それはまるで連想ゲーム。

 鳥は羽に、羽は天使に、無数の天使の矢は鋭き雨に、鋭き雨はすべてを弾く傘に。

 互いの攻撃は一つも届かず、されど攻防は終わることを知らない。

「ククルは伴侶を探しに魔女の地を出たのかい?」

「ええ、そうよ」

「最初の人間の男が私だったのが運の尽きだったね」

「まったくだわ」

 雨を弾き返すアーシュの傘が邪魔で、北風を呼ぶククルトリア。傘は北風の息吹であっさりと吹き飛ぶ。

 二人の戦いは、発端は民族同士の問題であったかもしれない。だがそんな戦いの始まりなど、ククルトリアにもアーシュにも遠い昔話でしかない。

 立場で言えば互いに邪魔者。でもそれは、今に生きる二人が互いに憎み合うことを意味しない。

 もちろん塔から出るためにアーシュを倒すことに躊躇いはない。なのに『もう少しだけこのまま』と思う自分がいる。

 人間の男とは、すべてがこんなに心を揺さぶる者達なのか。

 初めて出会った人間の男がアーシュじゃなかったら、こんな風には思わなかったのだろうか。

 何が正しいか分からなくなってしまった心で、それでもたった一つ輝く想いに正直になるとするのなら。

「もしかして、あなた」

「ああ、楽しいな。ククルの考えが分かるのは」

「……実は私も」

 北風を生み出すククルトリアの雲を、アーシュが灼熱の太陽光で散らした。

 同じ考えだったことは、ククルトリアにとってこの上なく面白いことだった。命を削りあっている最中でなかったら、おなかを抱えて笑い転げていたに違いない。

 彼の考えを分かる自分。

 自分の考えを理解してくれる彼。

 それが何故、こんなにも楽しいのだろう。

「でも、これはどうかしら」

 灼熱の太陽光を、小さな不死なる火の鳥でククルトリアは返す。

「真似は駄目だろう」

 アーシュが高速で襲い来る不死鳥を身体を翻して避け、上空に指を向けた。するとこの牢獄を縮小化したような鳥篭が出現し、ククルトリアの頭上に落ちて、戻った火の鳥ごと彼女を捕えた。

 がしゃん、という残響音と共に、連想なる戦いが止まる。

「最初の大鷲の時点でこうしていれば、ククルの勝ちだったかもな」

 格子を掴むククルトリアにゆっくりと近づくアーシュは、表情を翳らせながら言った。この戦いが終わってしまったのを、残念がっているようにも見える。

 しかし。

「いいえ。鳥篭を出したあなたの負けよ」

 ククルトリアは不敵に笑う。

 アーシュは自分を覆って余りある巨大な影に気づき、背後を振り返った。

 世界を包む外側の鉄格子のさらに外に、鳥篭より大きい猫がいた。

 猫は興味津々な様子で、鳥篭に飛びついてくる。

 ――鳥篭はいたずら好きな猫にひっくり返される。

 ククルトリアの思い出にはその光景があった。アーシュにはきっと、そのような思い出がなかった。ただそれだけの、違い。

 鳥篭が倒され、世界がひっくり返る。そして暗転していく。それはアーシュの幻覚世界の崩壊を意味していた。

 これはただ世界を崩壊させただけで、殺すどころか昏倒もさせられないだろう。

 それでも、ククルトリアは少しだけでもアーシュの先に行けたことが嬉しかった。



「私の勝ちね、アーシュ!」

 現実に戻るなり、ククルトリアはベッドの上に立ち上がってアーシュに指を突きつけた。

 しかし、どんな反応を見せるのか、と楽しみに見つめるククルトリアの予想を裏切って、アーシュは床に膝をつき倒れた。

「アーシュ……?」

 素足のまま冷たい石床に降り、駆け寄る。

 初めて人間の男に触れることに少しばかり躊躇いながら、彼の頬に触れる。そして前髪を払って顔を覗き込んだ。

 アーシュは気を失っていた。

 薄闇の中よく見ると、彼の目の淵にくまができていた。

 彼ほどの魔法の使い手なら、疲労こそ感じるものの昏倒なんてするはずがないと思ったのだが、きっと徹夜でもして疲れていたのだろう。

 溜め息まじりの笑みと共にククルトリアは石床に座り、アーシュの頭を膝の上に乗せた。

 彼の黒髪を梳くように撫でながら、窓に目をやる。絡み合う蛇のような格子の向こうに佇む月は、優しく部屋に斜光をもたらしてくれていた。

 と、部屋の外から何か言い争うような話し声が聞こえ、

「アーシェリオさま!」

 乱暴にドアが開き、何人かの兵と共に一人の女性が部屋に駆け込んできた。ふわりと後ろで結い上げられた金髪に少し釣りあがった目尻、歳はククルトリアより少しだけ上だろうか。気の強そうな印象を受ける美女だった。

 女性は塔を駆け上がってきたのだろう。息切れで、簡素な夜間用の白いドレスの上に羽織った、宵の空を思わせる色のストラが乱れていた。

「誰、あなた」

「ふ、不埒な……!」

 女性はククルトリアの問いには答えず、ひどく傷ついた表情で涙ぐんだ。

 フェリシエ様危険です、と横の兵が女性をたしなめる。

「でも! この魔女は今まさにアーシェリオさまを惑わしているのよ!」

「静かにして。アーシュ、疲れてる」

「私の運命の人をアーシュだなんて気安く呼ばないで!」

「あなたはアーシュの『うんめいのひと』なの? じゃあ恋っていうのも知ってる?」

 それは純粋な問いに過ぎなかったが、女性――フェリシエは何故だか更に怒るのだった。

「当たり前じゃない! 私がどれだけアーシェリオさまに恋しているか! あなたには分からないでしょう!」

 そう言って、フェリシエはアーシュがどれだけすばらしいかを語り始めた。

 彼は数百年の歴史を持つ由緒正しい貴族の家柄で、またそれに恥じない功績を収めていて、王宮の誰もが羨む完璧な人間で。きっと本当は前線になんて出たくないのに、危険を伴う魔女討伐に行ってしまうほど責任感が強くて。魔女の根絶を心から願う、人間の鑑で。

 まさにこの国の王にふさわしい彼。だから婚約者の自分は何も言わず、じっと見守っているのだ、と。

「やっと遠征から帰ってこられた。それなのにアーシェリオさまは何の気まぐれか、まだあなたを処刑しない!」

「それは、上がまだ決めかねているんでしょう?」

「この件はアーシェリオさまが『一番上』よ!」

 雷鳴のように叫んだフェリシエに、ククルトリアは呆然した表情でアーシュに目を落とした。

 ――もしかして、いつか勝たせるつもりだった?

 最初は純粋に魔女のことを知りたくて話を聞きに来ただけだろう。本当に取引材料、あるいは処刑も考えていたかもしれない。

 けれどもしも、自分がアーシュを待ち焦がれるようになっていったように、アーシュもいつしか焦がれるようになっていってくれたのだとすれば。

 アーシュが何故毎晩会いに来てくれたのか、納得できる気がする。

 ねえ、どうなの?

 そうアーシュに胸中から問いかけてみるが、彼が反応することはもちろんなかった。

 でもそうだとして、アーシュがそれを言葉にすることなど出来ないことを、ククルトリアは痛いほどに理解していた。守らなければならない民がいる彼には、ククルトリアを逃がすという提案はできなかったのだから。その前提がある限り、二人はどうしたって敵同士にしかなり得ないのだ。互いに悪い存在ではないと気づいたのだとしても。

 ククルトリアと同じく、アーシュもきっと囚われていたのだ。この国という鳥篭に。

 でも、だからこそ命の削りあいにもかかわらず、笑顔になれたのだ。

 言葉ではどうしてもつきまとう民族同士のしがらみも、あの世界には一切存在しなかった。ただ互いに心を読みあい、魔法で応えるのみだった。

 他の誰にも出来やしない、二人だけの魂の共鳴。

 ――これ以上の会話がどこにある?

「私の夫にもっと相応しい人間になるために、アーシェリオさまはこんなところで立ち止まりたくないと思ってるはずだわ。だから魔女、アーシェリオさまを返しなさい!」

 フェリシエが憎々しげに叫ぶ。

 確かに、この部屋ではアーシュをゆっくり休ませることも出来ない。ククルトリアは素直にアーシュから離れ、自分のベッドに戻った。すぐに、まるで火の海から救い出すような勢いで兵達がアーシュの身体を担ぎ上げ下がった。

「それでいいのよ。ではさようなら、恋も知らないお馬鹿な魔女」

「……私は恋を知らないけれど」

 ククルトリアは足のレグレットに手を伸ばしながら、去っていくフェリシエの背中に呟いた。

「あなたのはちょっと違う気がする」



 自室のベッドの上で目を覚ましたアーシュは、上体を起こしたものの、それ以上動く気にはなれなかった。もう太陽は随分と高くにまで上がっているようだ。

 随分眠ったはずなのに、ひどく疲れている。服装もそのままでベッドに入るなど、普段の自分からしたらあり得ないことだった。

 昨晩、自分は何をしていたか。ククルトリアの部屋には行っただろうか――

 と思ったところで、城壁に攻城槌でも打ち込まれたかのような轟音がどこかで響き、アーシュははっとなってベッドから飛び降りた。

 慌てふためく城内の者達の間を駆け抜けながら、ククルトリアの塔へと急ぐ。

 すべて思い出した。自分は彼女と全力で戦って、その上でちゃんと負けれたのだ。

「アーシェリオ様!」

 見張りの兵士が駆けつけたアーシュに指示を請うのを無視して、轟音の発生場所であるククルトリアの部屋へと飛び込んだ。

「ククル!」

 いまだ煙が上がる部屋の中、袖で口元を押さえながらアーシュは叫んだ。

 吹き飛んだ壁から煙が流れ消え――ククルトリアは、瓦礫と化した壁の淵に立っていた。右手を鳥に見立てて空へとかざす彼女の姿に、アーシュは思わず見入ってしまう。

「おはよう、アーシェリオ魔女討伐師長」

「外したみたいだね、レグレット。……私の負けだものな」

 ククルトリアは無言で首を横に振って、ポケットから魔封のレグレットを取り出した。そしてそれを、胸の前で大事に握り締めた。

「私達に勝ち負けがあるとするのなら、それはどちらかが死んだ時。――だから何度でもかかってくるといい。私は人間の敵、魔女ククルトリアなのだから」

 冷めた瞳を置き土産に、ククルトリアは鳥篭のような部屋から空へと飛び立った。

 アーシュはただ立ち尽くす。

 遅れて入ってきた兵の問いかけも聞こえない様子で。



 テオドア山脈を越えた先、魔女の谷の近くの湖で。

 ククルトリアは月を背に、静かに倒木に腰掛けていた。その様子はまるで素敵なひとと待ち合わせでもしているよう。

 この辺りは人も魔女も住まない地域だった。だから梟や虫が楽園だと鳴き続けている。

 そんな中、鈴の音がこだまする。一回――それから二拍の静寂。そして三回の鈴の音。

「夜の挨拶を覚えてくれていたのね」

 ククルトリアは湖畔に現れた長い黒髪の青年に向かって、そう呟いた。

 一月ぶりの彼――アーシュの姿を見て、ククルトリアは何故だか身体が熱くなる。

「私は魔女討伐師長として、君を捕える」

「そうね。今日も全身全霊で戦いましょう」

 そう言うものの、おそらく今夜も決着はつかないだろう。

 ――だからまた、私は遠くへ逃げよう。そしてまた、二人だけの魂の会話をしよう。

 アーシュはきっとうんめいのひとではない。

 何故なら、先生の言葉どおりなら『アーシュにつかまりたくない』というこの想いは、きっと恋とは呼べないだろうから。

 風のさざめきに、水面に映る月が揺れる。

 恋なんて知らなくてもいい。うんめいのひとが見つからなくてもいい。

 今はただ、このまま。

「だからずっと、追いかけてきて」


 ―了―

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