『42歳で絵を始めるなんてもう遅い』と後輩に鼻で笑われた俺。神絵師の腕を喰って【画力チート】に覚醒した結果、AI疑惑を実写手元配信で論破して神絵師の座に君臨する〜今さら擦り寄ってきてももう遅い〜
神絵師の腕を喰った夜のことを、俺はたぶん、死ぬまで忘れない。
3年前の秋のことだ。時刻は22時を回っていた。その夜、俺は妹に飯を食わせるために、あいつを呼び出した。
荒木結。当時22歳。俺の17歳下の妹。フリーランスのイラストレーターで、ネットでは『RoughTree』と名乗っていた。荒木を英語にしただけの、あいつなりに格好つけた名前だ。
3日徹夜して何も食べてない、とSNSに書いてあった。同じ家に住んでいても、あいつの様子はSNSで知るほうが早かった。だから俺は、会社を出たところで『焼肉行くぞ』とだけ送った。返事は『わーい』の3文字だった。
待ち合わせは駅前の交差点。信号が青に変わって、あいつが小走りに横断歩道へ出た、その瞬間だった。
クラクションが鳴らなかったことを、今でも覚えている。居眠り運転の4トントラックは、警告の一つもなしに、歩道の角のガードレールごと妹を潰した。
俺が駆け寄ったとき、結はまだ喋れた。喋れる状態ではなかったはずなのに。右の肩から先が、人間の形を失っていた。
「……お兄ちゃん」
「大丈夫か! 喋るな……血が……救急車……!」
俺は上着を脱いで押し当てた。何の役にも立たない。布がすぐに重くなった。結の目が、ゆっくりと自分の右腕のほうへ流れていく。そして、あいつは笑った。
「これ、食べていいよ」
子供の頃、結は好き嫌いが多かった。嫌いなおかずを、そっと俺の皿の端に乗せて、上目遣いでこう言うのだ。──お兄ちゃん、これ食べていいよ。兄妹の、合言葉みたいなものだった。
気が動転していた俺の口は、18年繰り返してきたやりとりのとおりに動いた。
「……しょうがねえな」
自分が何を言ったのか理解する前に、俺はそれを口に運んだ。
アスファルトに散った、指の先ほどの肉片を、1つ。
ぐにゃっとした感触。それだけだ。
結が、満足そうに目を細めた。
妹に肉を食わせるために呼び出して、俺が妹の肉を喰った。
そういう夜だった。
サイレンが聞こえてきたときには、あいつの鼓動は止まっていた。
この話は、誰にもしていない。警察にも、両親にも、葬式に来た親戚や結の友達にも。
ただ一つ確かなことがある。
俺の体には今も、あの夜に喰った一欠片が、脈を打っている。
◇
3年が経って、俺は42歳になっていた。
「見てくださいよ荒木さん、これ30秒っすよ、30秒」
昼休みのオフィス。後輩の田丸がノートPCをこちらに向けてきた。画面には、息を呑むほど綺麗な絵が並んでいた。生成AIの出力だ。
「へえ。すごいな」
俺は本心からそう言った。
20年エンジニアをやってきて、技術に嫉妬したことは一度もない。技術は罪を犯さない。
「荒木さんも何か趣味とか作ったらどうです? 定年まであと何年でしたっけ」
「Web小説書いてるよ」
田丸が身を乗り出した。
「えっ、マジすか。渋いな。何年くらい?」
「辞めてた時期もあるけど、だいたい20年」
田丸が微妙な顔をした。察しがいい。20年書いて、月間PVはまだ4桁に届かない。タイトルにあらすじを入れろ、冒頭に見せ場を持ってこいと散々言われた。それでも俺は、自分が格好いいと思えるタイトルと、誰にも見つけてもらえない自己満足の作品たちが好きだった。
「ま、続けてるのがすごいっすよ」
田丸が話を戻す。
「で、他には?」
箸が止まった。なぜだろう、そのとき俺は、こう言っていた。
「……絵、描いてみようかな」
場が凍った。そして田丸が、鼻で笑った。悪意のない、だからこそ容赦のない笑い方だった。
「いやいや、42歳で絵を始めるなんてもう遅いっすよ」
田丸がPCの画面を指で叩く。
「今から始めるならAIの時代です。10年かけて絵柄作った人が、30秒で追いつかれてる世界っすよ。人間が10年積むのは、もう合理的じゃないんです」
「まあ、そうかもな」
俺はそう答えて、弁当の蓋を閉じた。
反論はなかった。全部、正しい。正しすぎて、帰りの電車でずっと喉に刺さっていた。
◇
家に帰って、俺は3年開けていないドアの前に立った。
結の部屋だ。あいつが死んでから、両親も俺も、この部屋だけは片付けられなかった。
その日、俺はなんとなくノブを回した。本当に、なんとなくだった。
27インチの液晶ペンタブレットが、机の上でうっすら埃をかぶっていた。その隣に、デカい業務用モニタが3台。座面のへたった椅子。壁一面のラフのプリントアウト。乾ききった画材。エナジードリンクの空き缶が3つ。絵を描いたことのない中年男とは、縁のない部屋だった。
俺は椅子に座った。
電源を入れた。液タブが光った。
そしてペンを握った。
その瞬間、右腕に電流が走った。
比喩じゃない。肩から指先まで太い電線が通って、腕が熱を持った。頭の中に、見たこともない筋肉の断面が浮かんだ。光がどう回り込むかが、答えのほうから先に見えた。
気がついたら、朝の6時だった。
画面には、1枚の絵があった。夜明けの街を見下ろす、翼を持たない少女の絵。俺が描いた。俺が、描いた。
手が震えていた。怖かったからだ。
俺はこれを、嬉しいと思ってしまった。
◇
新規アカウントを取った。名前は『アラキ』。カタカナ3文字。荒木誠という名前から、苗字だけ引っこ抜いた。どうせ誰が見る訳でもない、5秒で決まった。
投稿ボタンを押して、俺は仮眠を取った。
起きたら、世界が燃えていた。
『AI生成でしょこれ』
『過去絵ゼロの新規垢で一発目がこれはない』
『指は誤魔化せても髪と布の落ち方でバレるんだよ』
『トレス元探してくる』
『こういうのが業界を殺してる』
通知が止まらない。引用で回してきた検証系アカウント──フォロワー40万の『ジャッジメント=ミラージュ』とかいう奴が、決定打を打った。
『【ジャッジメント】とある新規垢、AI出力に手描き風フィルタをかけた典型例か!? 作画過程のアップが待たれる!』
1時間で、俺の絵は8000回引用された。
20年書いてきた小説に、20年でついた感想は、全部で3件だ。
俺はコーヒーを淹れて、ひと息ついた。
疑われた側が弁解するのは筋が悪い。疑う側が用意した条件で通すのが検証だ。
返信は、たった1行にした。
『明日の夜21時、手元を映してライブで描きます。条件はそっちで決めてください』
俺がAIじゃないことは、必ず証明できる。
証明できないのは、この腕が俺のものだということのほうだ。
だから俺は、できるほうだけを証明しに行く。
◇
翌日21時。
配信開始ボタンを押す前から、待機所の同時接続が4桁に乗っていた。
画面の構成はシンプルだ。左に液タブのキャプチャ。右に手元を斜め上から撮ったカメラ。角度は配信前に、視聴者の指定どおりに合わせてある。
俺は無言でペンを持った。
右手が画角に入った。
『え』
『は?』
『手、ちょっと待って』
『おっちゃんやん!』
『おっちゃんやん!!!』
『なんでおっちゃんの手なん』
『20代の女の子だと思ってたが?』
「だっておっちゃんだからね」
俺はマイクに向かって答えた。
コメントが加速する。
同接が、1万を超えた。
『声もおっちゃんで草』
『手がシワシワ?』
「おっちゃんだからね」
『情報量が渋滞してる』
『いや待て、それで釣ったつもりか? 絵の話をしろ』
『↑これ』
正論だ。俺は頷いた。
「じゃ、条件決めてくれ。みんなが納得する条件で描くよ」
俺はコメント欄を指した。
「順番に潰していこう。まず、何が疑わしい?」
ここでミラージュ本人が降りてきた。40万人分の重みで、コメントが一瞬加速した後、静まる。
『では条件を』
『1、レイヤーは1枚のみ』
『2、下書き禁止・アタリはOK』
『3、お題はこちらが今から出す』
『4、描画中、一度も画面を切り替えない』
『以上4点、飲めますか』
「飲む」
俺は即答した。
「ついでに5個目、こっちから足していい?」
『どうぞ』
「画面の隅に、これからコメント欄に出る単語を、そのまま書き込みながら描く。30分おきに1個ずつ。それなら録画の使い回しは成立しないだろ」
コメント欄が、一瞬止まった。
それから、一斉に流れた。
『自分から条件足すやつ初めて見た』
『おい待てそれ言い逃げできなくなるぞ』
『おっちゃん喧嘩の作法わかってるな』
俺はペンを置いて、指を組んだ。
「言っとくけど、俺はAIを憎んでない。仕事でも使ってる。エンジニアだからな」
カメラに右手をかざす。
「でも、疑うなら正しく疑ってほしいんだ。『上手すぎるから偽物』は検証じゃない。ただの感想だよ」
『正論すぎて草も生えない』
『お題出た! 「雨上がりの、羽根のない天使」だって』
『炎上した1枚目と同じ系統で来たな』
「オーケー」
そこから3時間、俺は喋りながら描いた。
レイヤー1枚。
アタリも必要ない。
白いキャンバスのいちばん端から、天使の右手の中指の先が現れた。
『は?』
『端から?』
『構図どうなってんの』
「頭の中にある」
俺はペンを止めずに答えた。
「紙のどこに何を描くか決まっていれば、どこから描いても同じだよ。プリンタだってヘッドは端から動くだろ」
『おっちゃんの喩えがエンジニアすぎる』
『お前はプリンタじゃないだろ』
中指の先から、手首、肘、肩、鎖骨。人体が、1本の線で編み上がっていく。重なる線も、消す線も、1本もない。
AIの絵は、指を6本描くことがある。だから俺は、残りの指を描く手前でカメラに自分の左手を寄せて、ひらひらと振ってみせた。
「5本あるよ、ほら」
『やめろwww』
『おっさんの手で煽るな』
『指の本数で煽られたの人生で初めて』
「パスタかラーメンでも食べさせるか?」
『昔のAIネタわからんて』
『いらんわwww』
そして30分おきに、コメントで出た単語を画面の隅に書き込む。
『ばんそうこう』
『佐藤さん結婚おめでとう』
『味噌汁』
「味噌汁ってなんだよ」
俺は律儀に、天使の足元へ味噌汁の椀を描いた。
『描くんかい』
『味噌汁の湯気の描写が神なんだが』
『湯気に本気出すな』
「味噌の噌の漢字が書けないから絵にしといた」
疑う言葉が減って、質問が増えた。
『何年くらい描いてるの?』
「まだ2日」
『は?』
『日数で答えるな』
『嘘つけ』
『じゃあどうやって上達したの?』
ペンは止めなかった。
止めたら、たぶん声が揺れていた。
「神絵師の腕を喰ったら、上手くなってた」
『wwwwwwww』
『出た』
『比喩がキモい』
『ホラー映画観すぎ』
『俺も神絵師の腕を食べて神絵師になりたい』
笑ってくれてよかった。
俺は口角を持ち上げて、また線を引いた。
◇
0時を回った頃、雨上がりの光が仕上がった。
天使が水たまりの上に立っている。羽根がない代わりに、水に映った影だけが、羽根の形をしていた。同じ水面に、5つの単語と、小さな味噌汁の椀も揺れていた。消せないから、全部、絵の一部にした。
コメントは、10秒ほど無音だった。
誰も何も書き込まないまま、同接だけが1万2000人を指していた。
最初に流れたコメントは、これだった。
『すいませんでした』
ミラージュだった。
『完全にこちらの誤りです。条件は全て満たされています。先の投稿は削除し、改めて謝罪文を出します』
俺はマイクに向かって、少し笑った。
「削除しなくていいよ。あんたが疑ってくれたから、こんなにたくさんの人の前で証明できたんだ」
カメラの前で、右手を軽く振る。
「疑うのはあんたの仕事だ。ちゃんと謝れるのは人間ができてる証だよ」
その一言が切り抜かれて、世界を回った。
翌朝、SNSのフォロワーは8万人、チャンネル登録者は6万人になっていた。
◇
翌週の月曜日。
オフィスの休憩スペースで、田丸が騒いでいた。
「見ました? アラキってやつの配信。あれヤバいっすよ、マジで」
田丸がスマホを掲げる。
「レイヤー1枚で3時間っすよ。うちの部署のチャット、その話で持ち切りです」
俺は自販機の前で、コーヒーのボタンを押した。自分のスマホを開くと、通知が並んでいる。
イラスト依頼、38件。
うち企業案件、11件。
電卓で単価だけ足した。
全部請ければ、今の月給の4ヶ月分だ。
「荒木さんも見てくださいよ。名前まで同じで、手元がおっさんなんです」
「へえ」
カップが落ちてくる音がした。
「いや本当に、指とか、こう、ゴツゴツで──」
俺は自販機からカップを取って、田丸の前に右手を差し出した。
「こんな感じ?」
田丸が、俺の手を見た。
そして、俺の顔を見た。
視線が、また手に戻った。
スマホが、テーブルの上に落ちた。
「……え、うそ、え、荒木さん、アラキ……え?」
「まだ1週間だよ。絵のほう。42歳で始めてみたんだ」
俺は封筒を内ポケットから出して、田丸に見せた。
退職届だ。
田丸の口が、開いたまま閉じない。
「お前が言ったんだよ。10年積むのはもう合理的じゃない、って」
コーヒーを一口飲む。
「俺のやってることは、合理的ではないかもな」
「……あの、待ってください。あのときのあれは、その」
「気にすんな。正しかったよ、お前の話は」
俺はカップを持ったまま、休憩スペースを出た。背中に、田丸の声が追いかけてきた。
「荒木さん! 俺、あの、配信のモデレーターとかやりますんで! なんでもやりますんで!」
俺は振り返らなかった。
答える代わりに、封筒を持った手だけ上げた。
◇
会社を辞めた夜も、俺は配信していた。
『おっちゃんさ、そもそもなんで描き始めたの?』
雑談の合間に、そんなコメントが流れた。俺は手を動かしたまま答えた。
「なんとなく」
『雑www』
『40代の「なんとなく」は重いんだよ』
『いい答えだと思う』
嘘ではなかった。あの日、俺はなんとなくノブを回した。3年触れられなかったドアが、その日だけ開いた。大事な扉ほど、理由のない日に開く。
配信を切ったあと、俺は椅子ごと向きを変えて、部屋の奥を見た。そろそろ片付けよう、と思ったのだ。
積み上げた段ボールの、いちばん下。ガムテープを剥がして、俺は手を止めた。
漫画のネームだった。コピー用紙の束が、輪ゴムで留められて、400枚以上あった。
表紙に、鉛筆でこう書いてあった。
『(仮)』
俺はその場に座り込んで、朝まで読んだ。
主人公は1人の少女だった。枯れた木に絵を描き続ける。ただ描き続ける。
絵は、ネームの段階ですでに完成していた。
物語は、第3話で止まっていた。
そこから先は、線の引かれていないコマ枠と、余白の書き込みだけだった。
『話が作れない』
『キャラは立つのに、誰も動かない』
『絵だけじゃ足りない。足りない。足りない』
『修正47回目。あと2日で納品。寝る時間がない』
『30歳までに、自分の物語でアニメにする』
『全世界同時配信』
『世界中で人気になる。絶対』
『あの子の口元だけ、いまだに描けない。どんな顔で笑うのか知らない』
発注元の社名は、『修正47回目』と書いた紙の隅で、力任せに塗り潰してあった。端の2文字だけ、読めた。
最後の1枚に、震えた字でこう書いてあった。
『たすけて どうすればいい わからない』
俺は、その紙を持ったまま、しばらく息ができなかった。
段ボールには、もう1つ束があった。
見覚えのある文章。俺のWeb小説だった。
俺が小説を書いてることなんて、あいつが中学か高校の頃に一度話した程度なのに。あいつは、全部プリントアウトして持っていた。付箋がびっしり貼ってあった。
いちばん最初のページの余白に、結の字で1行だけ。
『おもしろかった』
俺は声を上げて泣いた。42歳の男が、朝日の差す妹の部屋で、みっともなく泣いた。
俺たちは、同じ家で、同じ飯を食って育ったのに。物語しか書けない兄と、絵しか描けない妹。それぞれの部屋で、片翼のまま動けずにいた。
あいつは「たすけて」と書いて、誰にも言わなかった。
俺は「読んでくれ」と書いて、誰にも言わなかった。
右手を見た。あの夜に喰った一欠片が、まだ脈を打っている。
描く理由が、わかった。
俺は『(仮)』の横に、ペンでタイトルを書き込んだ。
『ラフツリー』
あいつの描いたものに、あいつの名前をつけた。
それから俺は、白紙のコマ枠に鉛筆を入れた。第4話。少女が、枯れた木を置いて、隣の街まで歩き出す話だ。木の根が地面の下でどこまで伸びているか、あいつは描かなかった。だったら、俺が決めていい。ほとんど誰にも読まれなかった物語の作り方を、俺はまだ全部覚えていた。
俺の20年分の物語と、あいつが描き続けた線。
合わせて、やっと一人前だ。
◇
持ち込みに行った出版社で、芹沢という編集者は、最初の3話を3回読み返した。それから第4話のネームを一度だけめくって、すぐに顔を上げた。
「荒木さん。これ、何人で作ってます?」
「2人だよ」
「……失礼ですが、もうお1人は」
「妹。3年前に死んだ」
芹沢は黙り込んだ。
その指が、第1話の1枚目の瞳の上で止まった。
「このハイライト、2段で抜いてますよね。……RoughTree先生ですか」
「よく分かったな」
「あの人が高校生の頃から追ってました」
芹沢が身を乗り出した。
「ご遺族の許諾は取れますか。それと、RoughTree名義は出しますか。出せば、初動が10倍違います」
俺は首を振った。
「名義は出さない。許諾は取る。両親に俺が話す」
ネームの束に、手を置く。
「あいつは『自分の物語で』アニメにするって書いてた。絵だけ先に神輿にするのは、違う気がする」
「……では、荒木さんが言うまで伏せます」
芹沢は頭を下げた。
「その代わり、出すときはご自身の口から。うちからは言いません」
その夜、居間で両親に話した。結のネームを漫画にしたい、と言った。名前はしばらく伏せる、とも言った。
父の返事は、長いこと来なかった。
「……お前が決めろ」
◇
Webで連載が始まって、3話目で日間トレンド1位になった。
1年で単行本累計500万部を超えた。
夜は定期的に配信をした。
SNSのフォロワーは180万人。
チャンネル登録者は120万人。
作画配信の同接は、毎回3万人を割らなかった。
初見の視聴者は俺を「アラキ先生」と呼んでいたが、慣れるとみんな「おっちゃん」と呼び続けた。
全部、順調だった。
絵を描き始めて2年が過ぎた秋に、2度目の炎上が来るまでは。
◇
火種は、ある美大生の考察スレッドだ。結は死ぬ前の何年か、クライアントワークばかりで、自分の絵をほとんど上げなくなっていた。世に残っていたのは、数えるほどだ。タイトルの読みがRoughTreeと同じなのも、絵柄が似ているのも、連載当初から一部で囁かれていた。ファンのオマージュだろう、で済む話だった。
『ラフツリーの作画、5年前に更新が止まった伝説の絵師「RoughTree」に酷似している件(現存する9枚との比較)』
鋭い指摘だと思った。感心すらした。
『瞳のハイライトを2段で抜く癖が完全一致』
『雨の描き方。線じゃなくて「抜け」で描いている』
『そもそもタイトルが「ラフツリー」って何? 喧嘩売ってんの?』
『RoughTree先生、死亡説あるよね。無断学習では』
『死亡説ガチ?就職だと思ってた』
『故人の絵柄をAIに食わせて金稼いでるなら最悪なんだが』
1日で、規模は初回の炎上の10倍になった。今回は、最初のライブ配信を知らない層が主力らしかった。
芹沢から電話が来た。声が完全に裏返っていた。
「荒木さん、一度こちらで声明を出します。事情は伏せて、無断学習ではない、とだけでも──」
「いや、いい」
俺は電話を肩に挟んで、機材の電源を入れた。
「今夜、いつもの時間に配信するよ」
◇
21時。
同接は開始3分で17万人に届いた。
過去最高だった。
俺はいつもどおりペンを持って、右手を画角に入れた。
『おっちゃんやん!』
『こんな日でもおっちゃんやん』
『手のシワ増えた?』
「おっちゃんだからね」
俺は苦笑した。
「今日はちゃんと答えるよ。何でも訊いてくれ」
少しの沈黙のあと、誰かが直球を投げた。
『ラフツリー先生のパクリですか?』
コメントが止まった。
17万人が、一斉に息を呑んだのが分かった。
俺は画面を見て、口の端だけ上げた。
「あー、似てるよね」
ペンを、キャンバスの上に置く。
「……兄妹なんだよね」
『は』
『え』
『待って』
『え?』
「あいつは英語で格好つけて『RoughTree』なんて名乗ってたけどさ」
俺は肩をすくめた。
「漢字にしたら、ただの『荒木』だよ。荒れた木。俺も苗字から引っこ抜いただけだ」
コメントの流れが速すぎて見えない。
「5年前に事故で死んだ。22だった」
ネームの束を、カメラの前に掲げる。
「この漫画は、あいつが3話まで描いて置いていったやつだ。4話目から先は、俺が描いてる」
ネームを下ろす。
「2年黙ってたのは、俺の判断だ。編集は最初から知ってた」
カメラを見る。
「絵だけ先に騒がれたら、あいつが『絵の人』で終わる。あいつがやりたかったのは、そっちじゃない」
◇
その夜、ネットは壊れた。
世界トレンドに、「ラフツリー」、「RoughTree」、「おっちゃん」、「アラキの妹」が並んだ。
5年前に止まった神絵師のアカウントに、3日で60万件のリプライがついた。全部、届かない宛先への手紙だった。
最初のライブ配信の切り抜きが掘り起こされ、数千万回再生された。
どの動画も、同じところで一時停止されて出回っていた。
『じゃあどうやって上達したの?』
「神絵師の腕を喰ったら、上手くなってた」
本気にしたコメントは、見た限り一つもなかった。兄の不器用な冗談だ、という空気だけがタイムラインを流れていった。配信で言った「まだ2日」も同じ扱いだった。兄は妹を亡くしてから何年も絵を追いかけてきたのだろう──そんな書き込みばかりが並んだ。
その日から、ネットはまるごとおっちゃんの味方になった。
結のことを明かした夜、配信を切って部屋を出ると、廊下に母が座り込んでいた。
何も言わずに、ずっと鼻をすすっていた。
◇
アニメ化の連絡が来たのは、その2ヶ月後だった。
芹沢が会議室で分厚い資料を広げ、最後の1枚をめくった。配信スケジュール表だ。
「全世界、同日同時刻の配信です。190の国と地域で」
俺は、そのページをしばらく見ていた。結のネームの余白に書いてあった字が、そのまま印刷されているみたいだった。
『全世界同時配信』
「荒木さん?」
俺は右手を見ていた。
「……全世界同時だってさ、結」
◇
アニメ『ラフツリー』第1話が放送された夜、俺は1人で画面の前に座っていた。
枯れた木が動いた。少女が喋った。あいつが紙の上に閉じ込めていたものが、音と色を持って、世界中で同時に流れていた。
エンドロールの、いちばん上。
白い文字が、2行。
『原作:アラキ』
『キャラクター原案:RoughTree』
俺は録画を巻き戻して、その2行をもう一度見た。
それから、もう一度。
◇
異変に気づいたのは、アニメの放送が始まって3話目の頃だ。
朝、ペンを握った。
線が、1ミリずれた。
最初は疲れだと思った。
次の日は、2ミリずれた。
1ヶ月後、俺は頭の中に絵が浮かばなくなった。
いや、浮かぶ。浮かぶのに、その絵と手が、繋がらない。
病院に行った。異常なし。腱鞘炎ですらなかった。作画配信は、その月から休んだ。告知には、原作に専念する、としか書かなかった。
ただ、消えていくのは、線のほうに限られていた。物語のほうの翼は、最初から俺のものだったらしい。
原作の最終回を描き上げるのに、3ヶ月かかった。いつもなら2週間の仕事だ。ずれた線を1コマずつ引き直して、前の回までの絵柄に寄せた。
最後の見開きに、どうしても引けない1本があった。枯れた木の、いちばん高い枝だ。第1話のネームであいつが描いた枝と、入りから抜きまで揃っていなければ意味がなかった。なぞって形を重ねるなら、1分で済む。その1本に、いつもの1話分にあたる2週間を使った。枝だけは、あいつの線になった。
芹沢は原稿を見て、何も言わなかった。他のコマがわずかに変わったことに、たぶん気づいていた。それでも、直しを求めずに受け取ってくれた。
結末は、1年半前にプロットでアニメ側へ渡してあった。紙の上の俺が、ようやくその結末まで描き進んだ。
連載は完結した。
アニメの最終話まで、あと1ヶ月あった。
◇
最終話の完成映像を、先に見せてもらった夜、俺は自分の右手を明かりに透かしてみた。あの日からずっと感じていた熱が、指先から順に、薄くなっていた。
残り少ないのだと、直感でわかる。時間で切れるんじゃない。使い切るから切れるのだ。あいつの『全世界同時配信』まで、ちょうど足りる分だけ入っていたらしい。指の先ほどの肉片1つで、よくここまで描かせてくれたと思う。
俺は泣かなかった。
泣くところは、たぶんもっと先にあると分かっていた。
◇
アニメ『ラフツリー』最終話の放送当日。
21時から、俺は久しぶりの作画配信をした。
完結記念だった。
同接は、開始と同時に80万人に達した。
「よう」
俺はいつもどおり、右手を画角に入れた。
『おっちゃんやん!』
『おっちゃんやん!!!』
『最終回おめでとう』
『4年前からいるやつだけ静かに手を挙げろ』
『今日も手がシワシワ!』
「おっちゃんだからね」
『何年くらい描いてるの?』
「もう4年になるね」
自分で言って、可笑しくなった。
「いや、まだ4年か。人生って長いな」
俺はペンを握った。今夜描くのは、あいつが生んだ主人公だ。
枯れた木に絵を描き続けた少女。名前は、苗という。結が最初に描いて、最後まで描けなかったキャラだった。本編でも、苗は一度も笑わなかった。笑わせる場面だけは、俺にも書けなかった。
ペン先を下ろした。
線が、揺れた。
『ん?』
『あれ』
『線ブレてる?』
俺はアンドゥを押した。もう一度引いた。また揺れた。3回目で、ようやく1本になった。ひどく頼りない線だった。
『おっちゃん、手』
『手、震えてない?』
『大丈夫?』
その後、コメントの流れが落ちた。80万人分の視線が、俺の右手に集まっていた。
俺はカメラのほうへ、震える手をゆっくり上げてみせた。
「おっちゃんも歳だからね」
◇
俺は喋るのをやめて、ただ描いた。
以前なら2時間で描けたものが、5時間かかった。
線が引けないというのは、こういうことか、と改めて噛みしめた。Web小説を始めた頃、たった1行のために夜が明けたことがある。何度直しても、思っている場面にならなかった。あのときと、まったく同じ感触だ。
あいつは、あの部屋で、ずっとこれと戦っていたのだ。
途中から、涙が止まらなくなった。液タブの画面に落ちるたび、タッチが誤作動する。俺は袖で拭った。拭えば拭うほど、線が乱れた。
コメント欄には、励ましだけが流れ続けていた。
『おっちゃん、ゆっくりでいいよ』
『待つから』
『何時間でも待つ』
『無理しないで』
『【モデレーター】荒らしは全部こっちで消します。描いててください』
深夜2時が近づいた頃、右下のサブモニタで、アニメの最終話がクライマックスに入った。
枯れた木の根が、地面の下で、隣の街の木と繋がっている。その絵が、190の国で、同じ時刻に流れていた。
そして、24回目のエンドロールが始まった。
俺はペンを止めた。
エンドロールの、いちばん上。
半年間、毎週見てきた2行が、最後にもう一度流れていく。
『原作:アラキ』
『キャラクター原案:RoughTree』
何度見ても、そこで息が止まる。
俺たちは、やっと同じ画面に並んだのだ。
あいつが生きていたら、29だ。
30には、間に合った。
◇
その瞬間、右腕から熱が抜けた。
痛みはなかった。ただ、ずっと誰かに握られていた手を、そっと離されたのが分かった。
目の前に、結がいた。
22歳のまま、3日徹夜したあとのひどい顔をしている。
両腕とも、ちゃんとあった。
結は俺の右手を見て、それから画面のエンドロールを見て、笑った。
「お兄ちゃん、ありがとう」
俺は、何か気の利いたことを言おうとした。
出てきたのは、あの夜の続きだけだ。
「……ごちそうさま」
結が、満足そうに目を細めた。
あの夜と、同じ顔をしていた。
そして、光の中に消えた。
◇
俺は右手を見た。
シワが目立って、少し荒れた、46歳の手だ。
もう、何も脈を打っていない。
画面の中の苗は、まだ完成していなかった。髪も、瞳のハイライトも、あいつの癖が全部入っている。残るのは、口元だけだ。
俺は震える手に、ペンを持たせた。
1本。
歪んだ線だ。神絵じゃない。誰にも自慢できない。
でも、それは4年で初めて、俺自身が引いた1本だった。
苗が、笑った。
俺は保存ボタンを押して、配信を終了した。
最後に流れたコメントを、俺はスクリーンショットで残してある。
『苗、初めて笑った』
『おっちゃん、最高の漫画をありがとう』
『妹さんにも、ありがとうって伝えてください』
『伝わってるよ、絶対』
『おつかれさま、おっちゃん』
◇
翌日。
メールボックスが壊れていた。劇場版の企画書。原画集の打診。海外のスタジオからのオファー。テレビ局の出演依頼。大手出版社の引き抜き。あいつに『修正47回目』を書かせた会社からも、来ていた。塗り潰しの端に残っていた2文字が、差出人の社名の頭にあった。本文は『弊社は以前より先生の作品の大ファンで』と始まっていた。
劇場版だけは、受けた。あいつの物語の続きだ。俺が線を引く仕事じゃない。
残りは全部、断った。原画集にも、どのオファーにも、最後には必ず『描き下ろしを1枚』の一文が添えてあった。返信は、どれも同じ文面にした。
『申し訳ありません。あの絵は、もう描けません』
嘘じゃない。
あの絵を描いていた右腕は、昨日の夜で終わった。
今さら擦り寄ってきても、もう遅い。本当に、取り返しがつかないほど、もう遅い。
ただ、毛色の違うものが2通あった。
1通は、最初の炎上で俺を晒したミラージュからだ。件名は『ご報告』。去年から絵を描き始めたこと、まだ全然描けないこと、それだけが書いてあった。そのメールには、SNSからDMで返事を出した。
『まだ2日でも、まだ1年でも、同じだよ。がんばれ』
もう1通は、久しぶりに見る、辞めた会社のドメインからだった。
『あの日、振り返ってもらえなかったんで、名乗らないままやってました。4年間、楽しかったです。俺も、なんとなく始めてみます』
机の上には、朝からずっと1枚の紙が置いてある。コピー用紙だ。コマ枠は定規で引いた。
枯れた木と、その前に立つ小さな人影。線はよれて、パースは狂っていて、木の枝は5本しかない。
新しい漫画の1コマ目だ。他のものが思いつかなかった。たぶん、しばらくは思いつかない。
誰かが見たら笑うだろう。後輩に『42歳で絵を始めるなんてもう遅い』と言われた男が、46歳になって描いた絵がこれだ。
でも、いいのだ。
「画力は消えちゃったけどさ」
俺は妹の椅子に座って呟いた。
「今のおっちゃんには、時間もお金もあるからね」
ペンを構える。電流は走らない。全能感もない。線は、頭の中から降りてこない。
もし誰かに『何年くらい描いてるの?』と訊かれたら。
きっと、こう答える。
──まだ1週間だよ。
「結に追いつくまで、また一から練習を始めるよ」
俺は自分の手で、ペンを握り直した。
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