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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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『42歳で絵を始めるなんてもう遅い』と後輩に鼻で笑われた俺。神絵師の腕を喰って【画力チート】に覚醒した結果、AI疑惑を実写手元配信で論破して神絵師の座に君臨する〜今さら擦り寄ってきてももう遅い〜

掲載日:2026/10/30

 神絵師の腕を喰った夜のことを、俺はたぶん、死ぬまで忘れない。


 3年前の秋のことだ。時刻は22時を回っていた。その夜、俺は妹に飯を食わせるために、あいつを呼び出した。


 荒木(あらき)結(ゆい)。当時22歳。俺の17歳下の妹。フリーランスのイラストレーターで、ネットでは『RoughTree(ラフツリー)』と名乗っていた。荒木を英語にしただけの、あいつなりに格好つけた名前だ。


 3日徹夜して何も食べてない、とSNSに書いてあった。同じ家に住んでいても、あいつの様子はSNSで知るほうが早かった。だから俺は、会社を出たところで『焼肉行くぞ』とだけ送った。返事は『わーい』の3文字だった。


 待ち合わせは駅前の交差点。信号が青に変わって、あいつが小走りに横断歩道へ出た、その瞬間だった。


 クラクションが鳴らなかったことを、今でも覚えている。居眠り運転の4トントラックは、警告の一つもなしに、歩道の角のガードレールごと妹を潰した。


 俺が駆け寄ったとき、結はまだ喋れた。喋れる状態ではなかったはずなのに。右の肩から先が、人間の形を失っていた。


「……お兄ちゃん」

「大丈夫か! 喋るな……血が……救急車……!」


 俺は上着を脱いで押し当てた。何の役にも立たない。布がすぐに重くなった。結の目が、ゆっくりと自分の右腕のほうへ流れていく。そして、あいつは笑った。


「これ、食べていいよ」


 子供の頃、結は好き嫌いが多かった。嫌いなおかずを、そっと俺の皿の端に乗せて、上目遣いでこう言うのだ。──お兄ちゃん、これ食べていいよ。兄妹の、合言葉みたいなものだった。


 気が動転していた俺の口は、18年繰り返してきたやりとりのとおりに動いた。


「……しょうがねえな」


 自分が何を言ったのか理解する前に、俺はそれを口に運んだ。

 アスファルトに散った、指の先ほどの肉片を、1つ。


 ぐにゃっとした感触。それだけだ。


 結が、満足そうに目を細めた。

 妹に肉を食わせるために呼び出して、俺が妹の肉を喰った。

 そういう夜だった。


 サイレンが聞こえてきたときには、あいつの鼓動は止まっていた。


 この話は、誰にもしていない。警察にも、両親にも、葬式に来た親戚や結の友達にも。


 ただ一つ確かなことがある。

 俺の体には今も、あの夜に喰った一欠片(ひとかけら)が、脈を打っている。


          ◇


 3年が経って、俺は42歳になっていた。


「見てくださいよ荒木さん、これ30秒っすよ、30秒」


 昼休みのオフィス。後輩の田丸(たまる)がノートPCをこちらに向けてきた。画面には、息を呑むほど綺麗な絵が並んでいた。生成AIの出力だ。


「へえ。すごいな」

 俺は本心からそう言った。


 20年エンジニアをやってきて、技術に嫉妬したことは一度もない。技術は罪を犯さない。


「荒木さんも何か趣味とか作ったらどうです? 定年まであと何年でしたっけ」

「Web小説書いてるよ」


 田丸が身を乗り出した。

「えっ、マジすか。渋いな。何年くらい?」

「辞めてた時期もあるけど、だいたい20年」


 田丸が微妙な顔をした。察しがいい。20年書いて、月間PVはまだ4桁に届かない。タイトルにあらすじを入れろ、冒頭に見せ場を持ってこいと散々言われた。それでも俺は、自分が格好いいと思えるタイトルと、誰にも見つけてもらえない自己満足の作品たちが好きだった。


「ま、続けてるのがすごいっすよ」

 田丸が話を戻す。

「で、他には?」


 箸が止まった。なぜだろう、そのとき俺は、こう言っていた。


「……絵、描いてみようかな」


 場が凍った。そして田丸が、鼻で笑った。悪意のない、だからこそ容赦のない笑い方だった。


「いやいや、42歳で絵を始めるなんてもう遅いっすよ」

 田丸がPCの画面を指で叩く。

「今から始めるならAIの時代です。10年かけて絵柄作った人が、30秒で追いつかれてる世界っすよ。人間が10年積むのは、もう合理的じゃないんです」


「まあ、そうかもな」

 俺はそう答えて、弁当の蓋を閉じた。


 反論はなかった。全部、正しい。正しすぎて、帰りの電車でずっと喉に刺さっていた。


          ◇


 家に帰って、俺は3年開けていないドアの前に立った。


 結の部屋だ。あいつが死んでから、両親も俺も、この部屋だけは片付けられなかった。


 その日、俺はなんとなくノブを回した。本当に、なんとなくだった。


 27インチの液晶ペンタブレットが、机の上でうっすら埃をかぶっていた。その隣に、デカい業務用モニタが3台。座面のへたった椅子。壁一面のラフのプリントアウト。乾ききった画材。エナジードリンクの空き缶が3つ。絵を描いたことのない中年男とは、縁のない部屋だった。


 俺は椅子に座った。

 電源を入れた。液タブが光った。


 そしてペンを握った。


 その瞬間、右腕に電流が走った。


 比喩じゃない。肩から指先まで太い電線が通って、腕が熱を持った。頭の中に、見たこともない筋肉の断面が浮かんだ。光がどう回り込むかが、答えのほうから先に見えた。


 気がついたら、朝の6時だった。


 画面には、1枚の絵があった。夜明けの街を見下ろす、翼を持たない少女の絵。俺が描いた。俺が、描いた。


 手が震えていた。怖かったからだ。

 俺はこれを、嬉しいと思ってしまった。


          ◇


 新規アカウントを取った。名前は『アラキ』。カタカナ3文字。荒木誠(まこと)という名前から、苗字だけ引っこ抜いた。どうせ誰が見る訳でもない、5秒で決まった。


 投稿ボタンを押して、俺は仮眠を取った。


 起きたら、世界が燃えていた。


『AI生成でしょこれ』

『過去絵ゼロの新規垢で一発目がこれはない』

『指は誤魔化せても髪と布の落ち方でバレるんだよ』

『トレス元探してくる』

『こういうのが業界を殺してる』


 通知が止まらない。引用で回してきた検証系アカウント──フォロワー40万の『ジャッジメント=ミラージュ』とかいう奴が、決定打を打った。


『【ジャッジメント】とある新規垢、AI出力に手描き風フィルタをかけた典型例か!? 作画過程のアップが待たれる!』


 1時間で、俺の絵は8000回引用された。

 20年書いてきた小説に、20年でついた感想は、全部で3件だ。


 俺はコーヒーを淹れて、ひと息ついた。


 疑われた側が弁解するのは筋が悪い。疑う側が用意した条件で通すのが検証だ。


 返信は、たった1行にした。


『明日の夜21時、手元を映してライブで描きます。条件はそっちで決めてください』


 俺がAIじゃないことは、必ず証明できる。

 証明できないのは、この腕が俺のものだということのほうだ。

 だから俺は、できるほうだけを証明しに行く。


          ◇


 翌日21時。

 配信開始ボタンを押す前から、待機所の同時接続が4桁に乗っていた。


 画面の構成はシンプルだ。左に液タブのキャプチャ。右に手元を斜め上から撮ったカメラ。角度は配信前に、視聴者の指定どおりに合わせてある。


 俺は無言でペンを持った。

 右手が画角に入った。


『え』

『は?』

『手、ちょっと待って』

『おっちゃんやん!』

『おっちゃんやん!!!』

『なんでおっちゃんの手なん』

『20代の女の子だと思ってたが?』


「だっておっちゃんだからね」

 俺はマイクに向かって答えた。


 コメントが加速する。

 同接が、1万を超えた。


『声もおっちゃんで草』

『手がシワシワ?』


「おっちゃんだからね」


『情報量が渋滞してる』

『いや待て、それで釣ったつもりか? 絵の話をしろ』

『↑これ』


 正論だ。俺は頷いた。


「じゃ、条件決めてくれ。みんなが納得する条件で描くよ」

 俺はコメント欄を指した。

「順番に潰していこう。まず、何が疑わしい?」


 ここでミラージュ本人が降りてきた。40万人分の重みで、コメントが一瞬加速した後、静まる。


『では条件を』

『1、レイヤーは1枚のみ』

『2、下書き禁止・アタリはOK』

『3、お題はこちらが今から出す』

『4、描画中、一度も画面を切り替えない』

『以上4点、飲めますか』


「飲む」

 俺は即答した。

「ついでに5個目、こっちから足していい?」


『どうぞ』


「画面の隅に、これからコメント欄に出る単語を、そのまま書き込みながら描く。30分おきに1個ずつ。それなら録画の使い回しは成立しないだろ」


 コメント欄が、一瞬止まった。

 それから、一斉に流れた。


『自分から条件足すやつ初めて見た』

『おい待てそれ言い逃げできなくなるぞ』

『おっちゃん喧嘩の作法わかってるな』


 俺はペンを置いて、指を組んだ。

「言っとくけど、俺はAIを憎んでない。仕事でも使ってる。エンジニアだからな」

 カメラに右手をかざす。

「でも、疑うなら正しく疑ってほしいんだ。『上手すぎるから偽物』は検証じゃない。ただの感想だよ」


『正論すぎて草も生えない』

『お題出た! 「雨上がりの、羽根のない天使」だって』

『炎上した1枚目と同じ系統で来たな』


「オーケー」


 そこから3時間、俺は喋りながら描いた。


 レイヤー1枚。

 アタリも必要ない。


 白いキャンバスのいちばん端から、天使の右手の中指の先が現れた。


『は?』

『端から?』

『構図どうなってんの』


「頭の中にある」

 俺はペンを止めずに答えた。

「紙のどこに何を描くか決まっていれば、どこから描いても同じだよ。プリンタだってヘッドは端から動くだろ」


『おっちゃんの喩えがエンジニアすぎる』

『お前はプリンタじゃないだろ』


 中指の先から、手首、肘、肩、鎖骨。人体が、1本の線で編み上がっていく。重なる線も、消す線も、1本もない。


 AIの絵は、指を6本描くことがある。だから俺は、残りの指を描く手前でカメラに自分の左手を寄せて、ひらひらと振ってみせた。


「5本あるよ、ほら」


『やめろwww』

『おっさんの手で煽るな』

『指の本数で煽られたの人生で初めて』


「パスタかラーメンでも食べさせるか?」


『昔のAIネタわからんて』

『いらんわwww』


 そして30分おきに、コメントで出た単語を画面の隅に書き込む。


『ばんそうこう』

『佐藤さん結婚おめでとう』

『味噌汁』


「味噌汁ってなんだよ」

 俺は律儀に、天使の足元へ味噌汁の椀(わん)を描いた。


『描くんかい』

『味噌汁の湯気の描写が神なんだが』

『湯気に本気出すな』


「味噌の噌の漢字が書けないから絵にしといた」


 疑う言葉が減って、質問が増えた。


『何年くらい描いてるの?』


「まだ2日」


『は?』

『日数で答えるな』

『嘘つけ』


『じゃあどうやって上達したの?』


 ペンは止めなかった。

 止めたら、たぶん声が揺れていた。


「神絵師の腕を喰ったら、上手くなってた」


『wwwwwwww』

『出た』

『比喩がキモい』

『ホラー映画観すぎ』

『俺も神絵師の腕を食べて神絵師になりたい』


 笑ってくれてよかった。

 俺は口角を持ち上げて、また線を引いた。


          ◇


 0時を回った頃、雨上がりの光が仕上がった。


 天使が水たまりの上に立っている。羽根がない代わりに、水に映った影だけが、羽根の形をしていた。同じ水面に、5つの単語と、小さな味噌汁の椀も揺れていた。消せないから、全部、絵の一部にした。


 コメントは、10秒ほど無音だった。

 誰も何も書き込まないまま、同接だけが1万2000人を指していた。


 最初に流れたコメントは、これだった。


『すいませんでした』


 ミラージュだった。


『完全にこちらの誤りです。条件は全て満たされています。先の投稿は削除し、改めて謝罪文を出します』


 俺はマイクに向かって、少し笑った。

「削除しなくていいよ。あんたが疑ってくれたから、こんなにたくさんの人の前で証明できたんだ」

 カメラの前で、右手を軽く振る。

「疑うのはあんたの仕事だ。ちゃんと謝れるのは人間ができてる証だよ」


 その一言が切り抜かれて、世界を回った。


 翌朝、SNSのフォロワーは8万人、チャンネル登録者は6万人になっていた。


          ◇


 翌週の月曜日。

 オフィスの休憩スペースで、田丸が騒いでいた。


「見ました? アラキってやつの配信。あれヤバいっすよ、マジで」

 田丸がスマホを掲げる。

「レイヤー1枚で3時間っすよ。うちの部署のチャット、その話で持ち切りです」


 俺は自販機の前で、コーヒーのボタンを押した。自分のスマホを開くと、通知が並んでいる。

 イラスト依頼、38件。

 うち企業案件、11件。

 電卓で単価だけ足した。

 全部請ければ、今の月給の4ヶ月分だ。


「荒木さんも見てくださいよ。名前まで同じで、手元がおっさんなんです」

「へえ」

 カップが落ちてくる音がした。


「いや本当に、指とか、こう、ゴツゴツで──」


 俺は自販機からカップを取って、田丸の前に右手を差し出した。


「こんな感じ?」


 田丸が、俺の手を見た。

 そして、俺の顔を見た。

 視線が、また手に戻った。


 スマホが、テーブルの上に落ちた。


「……え、うそ、え、荒木さん、アラキ……え?」


「まだ1週間だよ。絵のほう。42歳で始めてみたんだ」

 俺は封筒を内ポケットから出して、田丸に見せた。


 退職届だ。


 田丸の口が、開いたまま閉じない。


「お前が言ったんだよ。10年積むのはもう合理的じゃない、って」

 コーヒーを一口飲む。

「俺のやってることは、合理的ではないかもな」


「……あの、待ってください。あのときのあれは、その」

「気にすんな。正しかったよ、お前の話は」


 俺はカップを持ったまま、休憩スペースを出た。背中に、田丸の声が追いかけてきた。


「荒木さん! 俺、あの、配信のモデレーターとかやりますんで! なんでもやりますんで!」


 俺は振り返らなかった。

 答える代わりに、封筒を持った手だけ上げた。


          ◇


 会社を辞めた夜も、俺は配信していた。


『おっちゃんさ、そもそもなんで描き始めたの?』


 雑談の合間に、そんなコメントが流れた。俺は手を動かしたまま答えた。


「なんとなく」


『雑www』

『40代の「なんとなく」は重いんだよ』

『いい答えだと思う』


 嘘ではなかった。あの日、俺はなんとなくノブを回した。3年触れられなかったドアが、その日だけ開いた。大事な扉ほど、理由のない日に開く。


 配信を切ったあと、俺は椅子ごと向きを変えて、部屋の奥を見た。そろそろ片付けよう、と思ったのだ。


 積み上げた段ボールの、いちばん下。ガムテープを剥がして、俺は手を止めた。


 漫画のネームだった。コピー用紙の束が、輪ゴムで留められて、400枚以上あった。


 表紙に、鉛筆でこう書いてあった。


『(仮)』


 俺はその場に座り込んで、朝まで読んだ。


 主人公は1人の少女だった。枯れた木に絵を描き続ける。ただ描き続ける。


 絵は、ネームの段階ですでに完成していた。

 物語は、第3話で止まっていた。


 そこから先は、線の引かれていないコマ枠と、余白の書き込みだけだった。


『話が作れない』

『キャラは立つのに、誰も動かない』

『絵だけじゃ足りない。足りない。足りない』

『修正47回目。あと2日で納品。寝る時間がない』

『30歳までに、自分の物語でアニメにする』

『全世界同時配信』

『世界中で人気になる。絶対』

『あの子の口元だけ、いまだに描けない。どんな顔で笑うのか知らない』


 発注元の社名は、『修正47回目』と書いた紙の隅で、力任せに塗り潰してあった。端の2文字だけ、読めた。


 最後の1枚に、震えた字でこう書いてあった。


『たすけて どうすればいい わからない』


 俺は、その紙を持ったまま、しばらく息ができなかった。


 段ボールには、もう1つ束があった。

 見覚えのある文章。俺のWeb小説だった。


 俺が小説を書いてることなんて、あいつが中学か高校の頃に一度話した程度なのに。あいつは、全部プリントアウトして持っていた。付箋がびっしり貼ってあった。


 いちばん最初のページの余白に、結の字で1行だけ。


『おもしろかった』


 俺は声を上げて泣いた。42歳の男が、朝日の差す妹の部屋で、みっともなく泣いた。


 俺たちは、同じ家で、同じ飯を食って育ったのに。物語しか書けない兄と、絵しか描けない妹。それぞれの部屋で、片翼(かたよく)のまま動けずにいた。


 あいつは「たすけて」と書いて、誰にも言わなかった。

 俺は「読んでくれ」と書いて、誰にも言わなかった。


 右手を見た。あの夜に喰った一欠片が、まだ脈を打っている。


 描く理由が、わかった。


 俺は『(仮)』の横に、ペンでタイトルを書き込んだ。


『ラフツリー』


 あいつの描いたものに、あいつの名前をつけた。


 それから俺は、白紙のコマ枠に鉛筆を入れた。第4話。少女が、枯れた木を置いて、隣の街まで歩き出す話だ。木の根が地面の下でどこまで伸びているか、あいつは描かなかった。だったら、俺が決めていい。ほとんど誰にも読まれなかった物語の作り方を、俺はまだ全部覚えていた。


 俺の20年分の物語と、あいつが描き続けた線。

 合わせて、やっと一人前だ。


          ◇


 持ち込みに行った出版社で、芹沢(せりざわ)という編集者は、最初の3話を3回読み返した。それから第4話のネームを一度だけめくって、すぐに顔を上げた。


「荒木さん。これ、何人で作ってます?」

「2人だよ」

「……失礼ですが、もうお1人は」


「妹。3年前に死んだ」


 芹沢は黙り込んだ。


 その指が、第1話の1枚目の瞳の上で止まった。

「このハイライト、2段で抜いてますよね。……RoughTree先生ですか」


「よく分かったな」


「あの人が高校生の頃から追ってました」

 芹沢が身を乗り出した。

「ご遺族の許諾は取れますか。それと、RoughTree名義は出しますか。出せば、初動が10倍違います」


 俺は首を振った。

「名義は出さない。許諾は取る。両親に俺が話す」


 ネームの束に、手を置く。

「あいつは『自分の物語で』アニメにするって書いてた。絵だけ先に神輿にするのは、違う気がする」


「……では、荒木さんが言うまで伏せます」

 芹沢は頭を下げた。

「その代わり、出すときはご自身の口から。うちからは言いません」


 その夜、居間で両親に話した。結のネームを漫画にしたい、と言った。名前はしばらく伏せる、とも言った。


 父の返事は、長いこと来なかった。

「……お前が決めろ」


          ◇


 Webで連載が始まって、3話目で日間トレンド1位になった。

 1年で単行本累計500万部を超えた。


 夜は定期的に配信をした。

 SNSのフォロワーは180万人。

 チャンネル登録者は120万人。

 作画配信の同接は、毎回3万人を割らなかった。

 初見の視聴者は俺を「アラキ先生」と呼んでいたが、慣れるとみんな「おっちゃん」と呼び続けた。


 全部、順調だった。

 絵を描き始めて2年が過ぎた秋に、2度目の炎上が来るまでは。


          ◇


 火種は、ある美大生の考察スレッドだ。結は死ぬ前の何年か、クライアントワークばかりで、自分の絵をほとんど上げなくなっていた。世に残っていたのは、数えるほどだ。タイトルの読みがRoughTreeと同じなのも、絵柄が似ているのも、連載当初から一部で囁かれていた。ファンのオマージュだろう、で済む話だった。


『ラフツリーの作画、5年前に更新が止まった伝説の絵師「RoughTree」に酷似している件(現存する9枚との比較)』


 鋭い指摘だと思った。感心すらした。


『瞳のハイライトを2段で抜く癖が完全一致』

『雨の描き方。線じゃなくて「抜け」で描いている』

『そもそもタイトルが「ラフツリー」って何? 喧嘩売ってんの?』

『RoughTree先生、死亡説あるよね。無断学習では』

『死亡説ガチ?就職だと思ってた』

『故人の絵柄をAIに食わせて金稼いでるなら最悪なんだが』


 1日で、規模は初回の炎上の10倍になった。今回は、最初のライブ配信を知らない層が主力らしかった。


 芹沢から電話が来た。声が完全に裏返っていた。


「荒木さん、一度こちらで声明を出します。事情は伏せて、無断学習ではない、とだけでも──」


「いや、いい」

 俺は電話を肩に挟んで、機材の電源を入れた。

「今夜、いつもの時間に配信するよ」


          ◇


 21時。

 同接は開始3分で17万人に届いた。

 過去最高だった。


 俺はいつもどおりペンを持って、右手を画角に入れた。


『おっちゃんやん!』

『こんな日でもおっちゃんやん』

『手のシワ増えた?』


「おっちゃんだからね」

 俺は苦笑した。

「今日はちゃんと答えるよ。何でも訊いてくれ」


 少しの沈黙のあと、誰かが直球を投げた。


『ラフツリー先生のパクリですか?』


 コメントが止まった。

 17万人が、一斉に息を呑んだのが分かった。


 俺は画面を見て、口の端だけ上げた。


「あー、似てるよね」


 ペンを、キャンバスの上に置く。


「……兄妹なんだよね」


『は』

『え』

『待って』

『え?』


「あいつは英語で格好つけて『RoughTree』なんて名乗ってたけどさ」

 俺は肩をすくめた。

「漢字にしたら、ただの『荒木』だよ。荒れた木。俺も苗字から引っこ抜いただけだ」


 コメントの流れが速すぎて見えない。


「5年前に事故で死んだ。22だった」

 ネームの束を、カメラの前に掲げる。

「この漫画は、あいつが3話まで描いて置いていったやつだ。4話目から先は、俺が描いてる」


 ネームを下ろす。

「2年黙ってたのは、俺の判断だ。編集は最初から知ってた」

 カメラを見る。

「絵だけ先に騒がれたら、あいつが『絵の人』で終わる。あいつがやりたかったのは、そっちじゃない」


          ◇


 その夜、ネットは壊れた。


 世界トレンドに、「ラフツリー」、「RoughTree」、「おっちゃん」、「アラキの妹」が並んだ。

 5年前に止まった神絵師のアカウントに、3日で60万件のリプライがついた。全部、届かない宛先への手紙だった。


 最初のライブ配信の切り抜きが掘り起こされ、数千万回再生された。

 どの動画も、同じところで一時停止されて出回っていた。


『じゃあどうやって上達したの?』

「神絵師の腕を喰ったら、上手くなってた」


 本気にしたコメントは、見た限り一つもなかった。兄の不器用な冗談だ、という空気だけがタイムラインを流れていった。配信で言った「まだ2日」も同じ扱いだった。兄は妹を亡くしてから何年も絵を追いかけてきたのだろう──そんな書き込みばかりが並んだ。


 その日から、ネットはまるごとおっちゃんの味方になった。


 結のことを明かした夜、配信を切って部屋を出ると、廊下に母が座り込んでいた。

 何も言わずに、ずっと鼻をすすっていた。


          ◇


 アニメ化の連絡が来たのは、その2ヶ月後だった。


 芹沢が会議室で分厚い資料を広げ、最後の1枚をめくった。配信スケジュール表だ。


「全世界、同日同時刻の配信です。190の国と地域で」


 俺は、そのページをしばらく見ていた。結のネームの余白に書いてあった字が、そのまま印刷されているみたいだった。


『全世界同時配信』


「荒木さん?」


 俺は右手を見ていた。

「……全世界同時だってさ、結」


          ◇


 アニメ『ラフツリー』第1話が放送された夜、俺は1人で画面の前に座っていた。


 枯れた木が動いた。少女が喋った。あいつが紙の上に閉じ込めていたものが、音と色を持って、世界中で同時に流れていた。


 エンドロールの、いちばん上。

 白い文字が、2行。


『原作:アラキ』

『キャラクター原案:RoughTree』


 俺は録画を巻き戻して、その2行をもう一度見た。

 それから、もう一度。


          ◇


 異変に気づいたのは、アニメの放送が始まって3話目の頃だ。


 朝、ペンを握った。

 線が、1ミリずれた。


 最初は疲れだと思った。

 次の日は、2ミリずれた。


 1ヶ月後、俺は頭の中に絵が浮かばなくなった。

 いや、浮かぶ。浮かぶのに、その絵と手が、繋がらない。


 病院に行った。異常なし。腱鞘炎(けんしょうえん)ですらなかった。作画配信は、その月から休んだ。告知には、原作に専念する、としか書かなかった。


 ただ、消えていくのは、線のほうに限られていた。物語のほうの翼は、最初から俺のものだったらしい。


 原作の最終回を描き上げるのに、3ヶ月かかった。いつもなら2週間の仕事だ。ずれた線を1コマずつ引き直して、前の回までの絵柄に寄せた。


 最後の見開きに、どうしても引けない1本があった。枯れた木の、いちばん高い枝だ。第1話のネームであいつが描いた枝と、入りから抜きまで揃っていなければ意味がなかった。なぞって形を重ねるなら、1分で済む。その1本に、いつもの1話分にあたる2週間を使った。枝だけは、あいつの線になった。


 芹沢は原稿を見て、何も言わなかった。他のコマがわずかに変わったことに、たぶん気づいていた。それでも、直しを求めずに受け取ってくれた。


 結末は、1年半前にプロットでアニメ側へ渡してあった。紙の上の俺が、ようやくその結末まで描き進んだ。


 連載は完結した。

 アニメの最終話まで、あと1ヶ月あった。


          ◇


 最終話の完成映像を、先に見せてもらった夜、俺は自分の右手を明かりに透かしてみた。あの日からずっと感じていた熱が、指先から順に、薄くなっていた。


 残り少ないのだと、直感でわかる。時間で切れるんじゃない。使い切るから切れるのだ。あいつの『全世界同時配信』まで、ちょうど足りる分だけ入っていたらしい。指の先ほどの肉片1つで、よくここまで描かせてくれたと思う。


 俺は泣かなかった。

 泣くところは、たぶんもっと先にあると分かっていた。


          ◇


 アニメ『ラフツリー』最終話の放送当日。

 21時から、俺は久しぶりの作画配信をした。

 完結記念だった。


 同接は、開始と同時に80万人に達した。


「よう」

 俺はいつもどおり、右手を画角に入れた。


『おっちゃんやん!』

『おっちゃんやん!!!』

『最終回おめでとう』

『4年前からいるやつだけ静かに手を挙げろ』

『今日も手がシワシワ!』


「おっちゃんだからね」


『何年くらい描いてるの?』


「もう4年になるね」

 自分で言って、可笑しくなった。

「いや、まだ4年か。人生って長いな」


 俺はペンを握った。今夜描くのは、あいつが生んだ主人公だ。


 枯れた木に絵を描き続けた少女。名前は、苗(なえ)という。結が最初に描いて、最後まで描けなかったキャラだった。本編でも、苗は一度も笑わなかった。笑わせる場面だけは、俺にも書けなかった。


 ペン先を下ろした。


 線が、揺れた。


『ん?』

『あれ』

『線ブレてる?』


 俺はアンドゥを押した。もう一度引いた。また揺れた。3回目で、ようやく1本になった。ひどく頼りない線だった。


『おっちゃん、手』

『手、震えてない?』

『大丈夫?』


 その後、コメントの流れが落ちた。80万人分の視線が、俺の右手に集まっていた。


 俺はカメラのほうへ、震える手をゆっくり上げてみせた。


「おっちゃんも歳だからね」


          ◇


 俺は喋るのをやめて、ただ描いた。


 以前なら2時間で描けたものが、5時間かかった。


 線が引けないというのは、こういうことか、と改めて噛みしめた。Web小説を始めた頃、たった1行のために夜が明けたことがある。何度直しても、思っている場面にならなかった。あのときと、まったく同じ感触だ。


 あいつは、あの部屋で、ずっとこれと戦っていたのだ。


 途中から、涙が止まらなくなった。液タブの画面に落ちるたび、タッチが誤作動する。俺は袖で拭った。拭えば拭うほど、線が乱れた。


 コメント欄には、励ましだけが流れ続けていた。


『おっちゃん、ゆっくりでいいよ』

『待つから』

『何時間でも待つ』

『無理しないで』

『【モデレーター】荒らしは全部こっちで消します。描いててください』


 深夜2時が近づいた頃、右下のサブモニタで、アニメの最終話がクライマックスに入った。


 枯れた木の根が、地面の下で、隣の街の木と繋がっている。その絵が、190の国で、同じ時刻に流れていた。


 そして、24回目のエンドロールが始まった。


 俺はペンを止めた。


 エンドロールの、いちばん上。

 半年間、毎週見てきた2行が、最後にもう一度流れていく。


『原作:アラキ』

『キャラクター原案:RoughTree』


 何度見ても、そこで息が止まる。

 俺たちは、やっと同じ画面に並んだのだ。


 あいつが生きていたら、29だ。

 30には、間に合った。


          ◇


 その瞬間、右腕から熱が抜けた。


 痛みはなかった。ただ、ずっと誰かに握られていた手を、そっと離されたのが分かった。


 目の前に、結がいた。


 22歳のまま、3日徹夜したあとのひどい顔をしている。

 両腕とも、ちゃんとあった。


 結は俺の右手を見て、それから画面のエンドロールを見て、笑った。


「お兄ちゃん、ありがとう」


 俺は、何か気の利いたことを言おうとした。

 出てきたのは、あの夜の続きだけだ。


「……ごちそうさま」


 結が、満足そうに目を細めた。

 あの夜と、同じ顔をしていた。


 そして、光の中に消えた。


          ◇


 俺は右手を見た。


 シワが目立って、少し荒れた、46歳の手だ。

 もう、何も脈を打っていない。


 画面の中の苗は、まだ完成していなかった。髪も、瞳のハイライトも、あいつの癖が全部入っている。残るのは、口元だけだ。


 俺は震える手に、ペンを持たせた。


 1本。

 歪んだ線だ。神絵じゃない。誰にも自慢できない。

 でも、それは4年で初めて、俺自身が引いた1本だった。


 苗が、笑った。


 俺は保存ボタンを押して、配信を終了した。


 最後に流れたコメントを、俺はスクリーンショットで残してある。


『苗、初めて笑った』

『おっちゃん、最高の漫画をありがとう』

『妹さんにも、ありがとうって伝えてください』

『伝わってるよ、絶対』

『おつかれさま、おっちゃん』


          ◇


 翌日。


 メールボックスが壊れていた。劇場版の企画書。原画集の打診。海外のスタジオからのオファー。テレビ局の出演依頼。大手出版社の引き抜き。あいつに『修正47回目』を書かせた会社からも、来ていた。塗り潰しの端に残っていた2文字が、差出人の社名の頭にあった。本文は『弊社は以前より先生の作品の大ファンで』と始まっていた。


 劇場版だけは、受けた。あいつの物語の続きだ。俺が線を引く仕事じゃない。


 残りは全部、断った。原画集にも、どのオファーにも、最後には必ず『描き下ろしを1枚』の一文が添えてあった。返信は、どれも同じ文面にした。


『申し訳ありません。あの絵は、もう描けません』


 嘘じゃない。

 あの絵を描いていた右腕は、昨日の夜で終わった。

 今さら擦り寄ってきても、もう遅い。本当に、取り返しがつかないほど、もう遅い。


 ただ、毛色の違うものが2通あった。


 1通は、最初の炎上で俺を晒したミラージュからだ。件名は『ご報告』。去年から絵を描き始めたこと、まだ全然描けないこと、それだけが書いてあった。そのメールには、SNSからDMで返事を出した。


『まだ2日でも、まだ1年でも、同じだよ。がんばれ』


 もう1通は、久しぶりに見る、辞めた会社のドメインからだった。


『あの日、振り返ってもらえなかったんで、名乗らないままやってました。4年間、楽しかったです。俺も、なんとなく始めてみます』


 机の上には、朝からずっと1枚の紙が置いてある。コピー用紙だ。コマ枠は定規で引いた。


 枯れた木と、その前に立つ小さな人影。線はよれて、パースは狂っていて、木の枝は5本しかない。


 新しい漫画の1コマ目だ。他のものが思いつかなかった。たぶん、しばらくは思いつかない。


 誰かが見たら笑うだろう。後輩に『42歳で絵を始めるなんてもう遅い』と言われた男が、46歳になって描いた絵がこれだ。


 でも、いいのだ。


「画力は消えちゃったけどさ」

 俺は妹の椅子に座って呟いた。

「今のおっちゃんには、時間もお金もあるからね」


 ペンを構える。電流は走らない。全能感もない。線は、頭の中から降りてこない。


 もし誰かに『何年くらい描いてるの?』と訊かれたら。

 きっと、こう答える。


 ──まだ1週間だよ。


「結に追いつくまで、また一から練習を始めるよ」


 俺は自分の手で、ペンを握り直した。

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もしかしたらどこかにアラキが出てくるかも……?

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