甘い煙の残像—イケおじシガレット—
昭和の終わりを告げるような、蒸し暑い夏の終わり。都心から少し離れた古いビルの三階、株式会社東洋商事営業第二課。木製の机が並び、床は擦り切れ、扇風機の羽がカタカタと乾いた音を立て続けていた。
佐藤健一、四十九歳。
オールバックの黒髪に白いものがわずかに混じり、銀縁眼鏡の奥の目は眠たげでありながら鋭かった。彼が課に入ってきた瞬間、空気が張りつめた。
口の端にコーラシガレットを軽く咥え、低く掠れた声で「よお」と一言。
その声は蒸し暑い朝の空気を震わせ、美香の胸に小さく熱を刺した。
「佐藤さん、またそれ咥えてますね。朝からもう三箱目ですよ」
資料を抱えた美香が、からかうような目で近づいてきた。二十五歳。口の端に生意気な笑みを浮かべるのが癖だ。
「火はついてねえよ。うるさいな」
佐藤は薄く笑い、指先で短い駄菓子を軽く回した。甘い砂糖の匂いが埃っぽい空気に溶けていく。
その日も、課は彼を中心に回っていた。
大口取引先からの急な仕様変更、納期のずれ、部下の計算ミス。電話が鳴り響く中、佐藤は汗ばんだ首筋を指で拭いながら指示を飛ばした。ネクタイを緩める長い指が動くたび、美香はつい視線を奪われた。
夕方、美香が淹れたコーヒーを前に、佐藤は小さく首を振った。
代わりに練乳をたっぷり入れた甘いココアを作り、新しい小箱からコーラシガレットを一本取り出して咥えた。
美香が声を低くした。
「佐藤さん、なんでいつもそんな子供っぽいもの咥えてるんですか。強がってるみたいで……見ててイラッとする」
その瞳には、からかいとは別の熱が滲んでいた。
佐藤は窓の外のオレンジ色の空を眺めたまま、短く答えた。
「親父の匂いだ」
それ以上は言わなかった。
夜七時を過ぎ、致命的なトラブルが発覚した。
契約書の数字に数億円規模の誤り。翌朝九時の重役会議で報告しなければならない。
「みんな、慌てるな」
佐藤はオールバックを軽く整え、コーラシガレットを強く奥歯で噛んだ。ネクタイを緩め、上着を脱ぎ捨てる。汗で白いワイシャツが胸に張り付き、厚い胸板の輪郭を浮かび上がらせた。
「私が全部責任を持つ。美香、過去資料を全部出せ。中山は代替案のコストを今すぐ見直せ。徹夜で行くぞ」
夜十時を過ぎても、彼は机に張り付いていた。
机の端に空いた小箱が二つ転がり、三つ目の封を切る。汗を拭いながら数字を何度も確認する。掠れた声で美香の名を呼ぶたび、彼女は資料を差し出す指先がわずかに震えるのを感じていた。汗と甘いコーラの香りが混じった空気の中で、息が苦しくなった。
午前二時を過ぎ、佐藤はトイレの個室に逃げ込んだ。
誰もいない狭い空間で、コーラシガレットを強く咥え、冷たい壁に額を押し付けた。
喉の奥から荒い息が漏れ、指の間で短い駄菓子が小刻みに震えていた。
朝八時四十五分。
会議室前で佐藤はスーツの皺を伸ばし、最後にコーラシガレットの入った箱をポケットに押し込んだ。完璧な笑顔を被り、ドアを開けた。
会議は荒れた。
非難の声が飛び交い、社長の顔色は最悪だった。しかし佐藤は低く落ち着いた声で代替案を提示し、疲れきった体で誠意を込めて説明した。その声には、不思議な説得力があった。
最後に社長から「佐藤、今回は危なかったな。でもよくやったよ。皆ご苦労さん」と言われた瞬間、課の面々は小さく安堵の息を吐いた。
昼休み、美香が一番近くで柔らかい笑顔を見せた。
「佐藤さん、ありがとうございました」
すぐにいつもの棘を混ぜて続ける。
「……でも、いつもカッコつけすぎですよ。たまには私たちにも頼ってくれないと、私たちの立つ瀬がないでしょ」
その夜、誰もいなくなったオフィスに佐藤は一人残っていた。
扇風機の乾いた音だけが響く中、彼は引き出しから新しい小箱を取り出し、ゆっくりと封を切った。一本を咥える。甘い味が舌に広がる。
指先で赤い箱を強く握りしめたまま、佐藤は低く息を吐いた。
喉の奥で何かが震えたが、音にはならなかった。
コーラシガレットの先端が、小刻みに震えていた。それだけだった。
甘い残像だけが、誰もいないオフィスに静かに溶けていった。
あらすじ
昭和末の蒸し暑い夏、古びたオフィスで四十九歳の佐藤健一は、いつも甘いコーラシガレットを口に咥え、仕事に励む。そんなある日、重大なミスが発覚して——!?
責任を一身に背負う男の奮闘と、誰も知らない孤独な残像を描く。
あとがき
シゴデキなイケおじを書いてみたくて。それがきっかけでした。
でも佐藤健一をただカッコいいだけの男にしたくありませんでした。
彼は「イケおじ」であると同時に、昭和の終わりを背負った、一人のサラリーマンでもあります。部下を守り、会社を守り、みんなの前では頼れる存在。でもその裏には彼の弱さが。
強がりで、子供っぽくて、それでも頼りになるおじさん。
コーラシガレットはそんな彼にとっての「仮面」であり、同時に「素顔」でもあります。
でも佐藤さん、甘いもの食べすぎです。もう少し控えてください。糖尿病になってしまいますよ。
最後に、色々ツッコミどころあるこの作品を読んでくださったあなたに、心から感謝。コーラシガレット、食べてみてください。懐かしい味がしますから。
2026年 蒸し暑い夜に、エアコンと扇風機の音を聞きながら
作者より
あとがき
シゴデキなイケおじを書いてみたくて。それがきっかけでした。
でも佐藤健一をただカッコいいだけの男にしたくありませんでした。
彼は「イケおじ」であると同時に、昭和の終わりを背負った、一人のサラリーマンでもあります。部下を守り、会社を守り、みんなの前では頼れる存在。でもその裏には彼の弱さが。
強がりで、子供っぽくて、それでも頼りになるおじさん。
コーラシガレットはそんな彼にとっての「仮面」であり、同時に「素顔」でもあります。
でも佐藤さん、甘いもの食べすぎです。もう少し控えてください。糖尿病になってしまいますよ。
最後に、色々ツッコミどころあるこの作品を読んでくださったあなたに、心から感謝。コーラシガレット、食べてみてください。懐かしい味がしますから。
2026年 蒸し暑い夜に、エアコンと扇風機の音を聞きながら
作者より




