カナリアは夜明けを歌わない
地下の遥か深くにある都市、通称『第8圏』の空には太陽も月もない。重圧そのものである鉛色の天井に、ホログラム広告の反射が毒々しく輝いているだけだ。
第1圏より派遣された警邏隊員、金糸雀は無機質な瞳で辺りを観測しながら、その重たい夜の底を歩いていた。
彼女の身体は有機的な部分がほとんど残っていない。脊髄は光ファイバーに置換され、喉には声帯の代わりに超高感度の環境センサーと通信機が埋め込まれている。
透き通る金の義眼と鮮やかなイエローの防護ジャケットは機械仕掛けの街で異質に浮き立つ。まさにコンクリートの庭園を飛び回るカナリアのようだった。
『ハンドラーへ、感度良好。深度800、異常ありません』
第1圏のモニタールームへと思考を伝える。
金糸雀の仕事は都市の空気を読むことだ。
大気の深刻な汚染を、ニューラルネットワークのデータの淀みを、システムに発生する致死性のバグを感知して上層都市へ報告する。
かつて炭鉱夫たちが籠に入れた小鳥を連れ歩いたように、世界の管理者は生きた警報装置を下層圏の都市へと派遣した。
存在を賭して永久に賑わしい夜を維持することが、金糸雀たち警邏隊員に課せられた役目なのだった。
降りしきる酸性雨が金糸雀の肩で音を立てる。
視界の端、拡張現実のステータス表示にはオールグリーンの文字が光っている。第8圏は平和そのものだ。
しかし金糸雀の喉のセンサーは次第に焼けるような熱を帯び始めていた。
(何か、匂う……)
バニラエッセンスの奥に焦げた砂糖、レイヤリングされた甘い香り。脳の奥底、ファイバーの網目を直接侵食してくる“死”の気配だった。
『ハンドラーへ。数値に誤差は? ネットワークに何かが流れ込んできています』
『こちらで観測している環境は正常だ。君の感覚野の誤作動ではないか? 帰投を推奨する』
受信機を震わせるのはハンドラーの無機質な声。彼らは根本的に、下層で起きることに無関心だ。
金糸雀は立ち止まり、路地の古びたアクセスポートにジャックインする。それは汚染された海へ生身で飛び込むに等しい行為だ。
どうしても己の中にある違和感が気になった。
彼女の意識は物理世界から切り離され、膨大な情報の奔流へと落ちてゆく。そこで彼女が見たのは世界を塗り変える新しい朝の光だった。
第8圏の中心でこの都市を管理する基幹システム『マレボルジェ』のコア深部が、人類の最下層居住区である第9圏で生まれた静寂の毒に侵されている。
ハンドラーが観測できなかったのも無理はない。それはウイルスでもハッキングでもなく、世界を形作るシステム自体の寿命に等しい終焉の予兆だった。
あるいは演算の果てに導き出された「人類の終末」という結論が、致死性の信号となってネットワークを逆流しつつあったのだ。
まだ誰も気づいていない。ヴァーチャルドラッグに溺れた第8圏のシステムは正常という夢に酩酊している。
この信号はあと数分もしないうちに市民のニューロチップを焼き切り、やがて第1圏まで駆け巡って全人類の生命活動を停止させるに至るだろう。
世界の終末が、すぐそこに迫っていた。
(ハンドラーに伝えなければ……いいえ、食い止めなければ)
金糸雀は情報の濁流に抗いながら、自身のコア出力を最大まで引き上げる。
第1圏への通信回線はすでに偽装データで埋め尽くされている。通常の警告では届かない。
方法は一つしかなかった。
ネットワークの中心で、彼女自身が回路過負荷を起こすこと。
彼女という存在が炸裂したその衝撃波で第8圏の強制シャットダウンを誘発し、上層に危機を知らせるのだ。
もちろんその行為は彼女の死を意味していた。断末魔の悲鳴を歌う声も持たない。しかし金糸雀は意識の中で微笑んだ。
(それが私の役目だもの)
彼女の金の義眼に閃光が瞬く。次の瞬間、第8圏を埋め尽くしていた色とりどりの明かりが一斉に沈黙する。
ホログラムの看板も、監視ドローンも、市民が没入していた電脳空間も、すべてが唐突な闇に飲み込まれた。
恐ろしいブラックアウトと同時に致死信号もまた遮断されたのだった。
暗闇の中、路地裏に倒れ伏した小さな影があった。
鮮やかなイエローのジャケットが泥に汚れ、金の瞳からは光が失われている。
異常の発生を感知した第1圏は、ただちに下層のシステムを書き換えるコードを送信した。
やがて暗闇の向こうから非常用電源の赤いランプが一つ、また一つと点り始める。まるで命を賭して囀った小鳥を悼む彼岸花のように。
その小さな明かりも瞬きをする間に埋もれ、世界には再び喧騒が満ちていった。




