第九話 名前の消える朝
御子柴慎がガス処理室で冷たくなってから、一晩が明けた。
七人になった——はずだった。
そう頭では分かっているのに、どこかで数字がしっくり来ない。十三から一人ずつ減っていく感覚が、途中でどこかずれたような違和感だけが、胸の奥に刺さっていた。
「行くか」
高科颯太が、乾いた目をこすりながら言った。眠れていないのは、顔を見ただけで分かる。青いクマと、こわばった頬。
「あの“補正プロトコル”ってやつ、ちゃんと見ておかないと、また何されるか分からないしな」
「……分かった」
黒川凛は、小さく頷いた。
昨夜、ノイズが囁いたのは「そうた」ではなく「しん」だった。高科が自分の名前を何度も何度も録音し、ノイズに重ねてまで「俺を殺せ」と叫んだのに、システムはまったく相手にしなかった。
それどころか、御子柴を選んだ。
自己犠牲なんか、計算に入っていない——それを思い知らされたばかりだ。
だからこそ、今度はこちらの番だ。やられっぱなしでいるわけにはいかない。
◇
管理室は、相変わらず冷たかった。
壁一面のモニターと、低く唸るサーバーラック。昨日まではただの「監視する側の部屋」にしか見えなかったその空間が、今は露骨な敵意を持ってそこにあるように感じられる。
「この辺りのログ、まだちゃんと見てなかったんですよね」
高科が椅子に座り、キーボードを叩き始める。凛と東雲遥は背後から画面を覗き込んだ。
画面には、見慣れない英数字と、日本語のログが混在していた。
——補正プロトコル起動。
——被験者群の嫌悪指標が一時的に低下しています。
——刺激強度を増加します。
——協調行動の発現を検知。
——実験ノイズとしてマークします。
「……協調行動?」
凛がつぶやく。
「たぶん、昨日からの俺たちの動きのことだろうな」
高科は、スクロールしながら説明する。
「罪の告白会。自己犠牲の志願。互いの罪悪感を共有して、矛先を分散させようとした。システムから見れば、あれは『データが乱れる要因』だ」
「だから、『ノイズ』として扱ったのね」
東雲の声には、怒りと納得が入り混じっていた。
「このシステムにとっての“理想的な人間”は、協力し合う人間じゃなくて、互いを切り捨て合う人間。嫌悪の矛先がはっきりしていて、『こいつが死ねばいい』と迷わず指差せる集団」
「なのに、昨日の俺らは逆の方向に行った」
高科が、自嘲するように笑う。
「だから補正が入った。“嫌悪指標が一時的に低下”って、そういうことだ。互いに少しでも理解しようとして、憎しみを薄めた。その分を、“刺激強度”で埋め合わせるってわけだ」
「刺激って、まさか……」
凛が訊ねると、高科は別のログを開いた。
そこには、さらに不快な文言が並んでいた。
——睡眠導入ガスの濃度を3%増加。
——扁桃体反応促進用微量ガス、投与開始。
——被験者の記憶再生頻度をモニタリング。
——感情の揺れ幅が閾値を上回った対象に、個別刺激を追加。
「……脳を、直接いじってるってことですね」
東雲が、顎に手を当てる。
「扁桃体は恐怖や怒りを司る部位。そこを刺激して、記憶の再生を強制する。嫌悪の記憶だけを何度も何度もリプレイさせることで、『こいつだけは許せない』を強化していく」
「最悪だな」
凛は、こみ上げる吐き気を飲み込んだ。
「俺たちが『赦そう』とした分だけ、向こうは『もっと憎め』ってガスを増やしたってことかよ」
「そういうことだ」
高科は、画面の端に表示されている小さなアイコンを指さした。
「ここ。『補正プロトコル:フェーズ2へ移行』……次、何が来るつもりなんだか」
その問いの答えは、すぐに分かることになる。
いや、分かってしまうことになる、というべきか。
◇
異変に気づいたのは、その日の昼過ぎだった。
共有スペースで味気ない昼食を取っていたとき、月岡茜がふと顔をしかめた。
彼女はこの施設に来てからずっと「看護師の女」として扱われてきたが、管理室のデータで彼女のフルネームを知ってから、皆も自然と苗字で呼ぶようになっていた。
「……ちょっと待って」
月岡は立ち上がり、壁際の空調パネルの前に歩み寄る。
「今、風の流れがおかしくなかった?」
「え?」
凛も耳を澄ませる。
確かに、いつもと違う音が混じっている気がした。単調だった空調音の奥に、シュー、という小さな噴出音。
月岡は、手で空気の流れを確かめるように壁をなで、その途中で指を止めた。
「ここ。温度が違う」
彼女が押さえたのは、これまでただの白い壁だと思っていたパネルの一部だった。
指先で軽く押すと、「カチ」と音がして、パネルがわずかに浮く。
「やっぱり……」
月岡は力を込めてパネルを外した。
その向こうには、細いパイプがぎっしりと張り巡らされていた。ガス処理室へ伸びている太いパイプとは別系統の、細いチューブ。
そして、その中の一本から、無色透明のガスが微量に噴き出していた。
「……これ、新しく動き始めてる」
「前はなかった?」
「なかった。少なくとも、私が見た限りでは」
月岡は、眉を寄せる。
「空調の匂いも、微妙に違う。医療現場で使う麻酔ガスに、少し似てる気がする」
「でも、ここにはちゃんとした検査機器なんて……」
「簡易キットならある」
月岡は共有スペースの棚をあさり、小さなケースを取り出した。
「さっき管理室で見つけたの、持ってきてた。工業用ガスの成分をざっくり調べるタイプ」
彼女は慣れた手つきでキットを開き、パイプの噴出口近くに小さなセンサーをかざした。
数秒後、センサーのランプが黄色く点滅し、小さなディスプレイに数値が表示される。
「……やっぱり」
「分かるのか?」
「詳しい成分までは分からないけど、少なくとも呼吸器を直接やられる毒ガスじゃない。濃度も極めて低い。その代わり……」
月岡は、ディスプレイの端に表示されている化合物の略号を指差した。
「これ、神経伝達物質をいじる系のガスだと思う。中枢に作用する。特に、記憶に関わる部分」
「記憶……?」
凛の背筋に、冷たい汗が伝う。
「一時的に、記憶の定着や呼び出しを撹乱するタイプの可能性が高い。医療現場で言うと、鎮静剤とか、一部の睡眠薬に近い。でもこれは……もう少しピンポイントに来る」
「ピンポイント?」
「たとえば、『特定の期間に覚えたこと』だけをぼかすとか、『特定の人物に関する記憶』だけ取り出しにくくするとか」
月岡は、自分の腕を抱いた。
「そんなこと、あっていいはずないんだけど……この施設なら、やっててもおかしくない」
「記憶を……削るガス」
凛は、無意識に喉を押さえた。
眠りを操作するガス。無意識を掘り返すガス。感情を増幅するガス。
そこに今度は、「忘れさせるガス」が加わる。
何を忘れさせるつもりなのか。
それを考えた瞬間、嫌な予感が全身を走った。
◇
夕方。
実験棟の窓のない廊下に、ぼんやりとした蛍光灯の光だけが伸びる。
高科と凛、東雲、月岡、佐久間、インフルエンサーの女、管理職の男、三条真琴。
——そのはずの顔ぶれで、共有スペースのテーブルを囲んでいた。
「なあ」
紙コップを指で弄んでいた佐久間が、ふと呟いた。
「俺たちって、最初から七人だったっけ?」
その言葉に、時間が止まった。
空調の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……え?」
凛は、思わず周りを見回した。
七人。
テーブルを囲んでいるのは、七つの顔。自分を含めて七人。寝室のベッドも、七つ。
何もおかしくない——はずなのに。
胸のどこかが叫んでいた。
違う、と。
「ちょっと待って」
東雲が、眉をひそめる。
「何、今の」
「いや……何となく、違和感があってさ」
佐久間は頭をかいた。
「さっき寝室通ったとき、『ベッド、狭くなったな』って思ったんだよ。前はもっとぎゅうぎゅうだった気がするのに」
「でも、ベッドは七つでしたよね?」
インフルエンサーの女が言う。
「最初からそうだった気がするけど」
「十三人いた時代の記憶はある?」
東雲が、皆の顔を順番に見ていく。
全員、微妙な顔をしていた。
「……人数までは、覚えてないな」
管理職の男が言った。
「最初に目を覚ましたとき、何人いたかなんて、いちいち数えちゃいない」
「あたしも。『いっぱい』って感じで、それ以上は」
インフルエンサーが苦笑した。
「ただ、一晩ごとに減っていってるのは、何となく分かるけど」
「今は七人」
東雲は、指折り数える。
「黒川くん、高科くん、佐久間さん、私、三条さん、月岡さん、インフルエンサーさん、管理職さん——」
口に出しながら、彼女の表情が固まった。
八つ、数え終わっている。
「……今、八人って数えませんでした?」
凛も、同じ違和感に気づいた。
七人だ、と佐久間は言った。
だが、こうして数えると、どう考えても八人いる。
テーブルを囲む顔を、一人ずつ確認する。
黒川凛。
高科颯太。
佐久間晶。
三条真琴。
東雲遥。
月岡茜。
インフルエンサー。
管理職。
八人。
確かに、八人いる。
「……なんだよ、それ」
佐久間が、引きつった笑いを漏らした。
「さっき、俺、七人って言ったよな?」
「言いました」
凛は、背中に冷や汗を感じながら頷いた。
「でも、今ここには八人いる。ベッドは?」
全員で寝室に駆け込んだ。
そこに並んでいたベッドは——七つだった。
「……七?」
高科が、顔をしかめる。
「何でだよ。さっき、八人いたよな。ここに寝てるの、いつもどうしてた?」
「誰かは共有だった?」
「そんなはず……」
記憶を探ろうとした瞬間、頭の中に靄がかかった。
最初の夜のこと。誰と誰が隣り合って寝ていたのか。ベッドは何列だったのか。
思い出そうとすると、すべてがぼやけていく。
黒板に書かれた文字を消しゴムで消すみたいに、輪郭が曖昧になる。
「ちょっと、落ち着いて」
東雲が、こめかみに手を当てた。
「数字の話をする前に、『誰がいたか』を思い出してみましょう。今、ここにいる顔とは別に、『いたはずの誰か』の顔、思い出せますか?」
凛は目を閉じた。
藤咲ひかり。牧野カイ。百瀬蓮。志村直哉。北条司。御子柴慎。
死んでいった六人の顔は、はっきりと浮かんだ。
怒った顔。笑った顔。苦しんだ顔。
その一人一人に、言葉をかけてやれるくらいには、覚えている。
「……六人ですよね。死んだの」
凛は言った。
「藤咲さん、牧野さん、百瀬さん、志村さん、北条、御子柴さん。最初十三人だから、今七人。だから——」
そこまで言って、言葉が止まった。
「十三人」
その数字自体が、急に心許なく感じられた。
最初、本当に十三人いたのか?
誰が「十三」と数えた?
その記憶が、どこにも見当たらない。
「俺……」
高科が、おでこを押さえる。
「最初に『十三』って言ったの、たぶん俺だと思うんですけど」
「そうだな。お前が『被験者十三名』ってモニターに表示されてたって言ってた」
佐久間が頷く。
「でも、その画面……今、見たらどうなってる?」
全員が無言で頷き合い、走って管理室に戻った。
◇
管理室の端末。
被験者一覧を表示する画面。
そこに並んでいるのは、K−01からK−08までの八つの番号——だけだった。
K−01 黒川凛
K−02 高科颯太
K−03 東雲遥
K−04 佐久間晶
K−05 三条真琴
K−06 月岡茜
K−07 インフルエンサー女(仮名)
K−08 管理職男(仮名)
K−09以降は存在しないかのように、リストが終わっている。
「……おかしい」
高科が、震える指でスクロールする。
「前は、K−13まであった。死んだ人間も含めて十三人分。ログも、プロフィールも。なのに今、どこにもない」
「削除……された?」
凛の声は、自分でも驚くほどかすれていた。
「誰か一人分、丸ごと」
「待って」
東雲が別のメニューを開く。
ログ閲覧。
そこには、確かに不自然な空白があった。
——20:31 K−07 死亡判定。
——07:02 K−04 死亡判定。
——12:00 補正プロトコル起動。
——12:03 サンプル削除、データ統合。
——12:05 被験者リスト更新。
「サンプル……削除」
月岡が、おぞましい単語を口にした。
「データ統合って何だよ」
「どういうことなの、これ」
インフルエンサーが、声を震わせる。
「誰か一人が、『死んだ』ことすら許されなかったってこと?」
「死体も、ベッドも、データも」
東雲が、唇を噛む。
「全部“最初から存在しなかったことにした”」
「そんな……」
凛は、自分の頭を殴りたくなった。
忘れている。
この中にいたはずの誰かのことを。
一緒にテーブルを囲んだ時間があって、言葉を交わしたはずで、笑ったり、怒ったりしたはずで。
けれど、その「誰か」の顔も、声も、名前も、まったく浮かんでこない。
脳みその表面に、つるつるの穴が空いているみたいだった。
何かがそこにあった痕跡だけが残っていて、中身はきれいにえぐり取られている。
「思い出そうとしても、映像がぼやける」
高科が、額を押さえて膝をついた。
「本当に……いたのか?」
「いたのよ」
東雲が、珍しく強い声を出した。
「だって、被験者データの番号が合わないもの。最初にログを見たとき、確かにK−09の欄があった。今は真っ白になっている」
彼女は、空白の行を指差す。
名前欄も、経歴も、問診票も、すべて空白。ファイルそのものが存在しないかのように。
だが、システムが「削除」とわざわざ記している以上、そこには確かに何かがあった。
「名前を呼べない人間は、ノイズにもなれない」
東雲が、震える声で言った。
「だから、このシステムは、その人の記録ごと消したの」
「名前を呼べない……?」
凛は、その言葉を反芻した。
ノイズは、名前を呼ぶ。
ひかり。カイ。レン。なおや。つかさ。しん。
声が重なって、誰か一人の音を浮かび上がらせる。
でも今、彼らは誰か一人の名前を、思い出すことすらできない。
呼びたくても呼べない。
それは、この装置にとっても、「扱いようがないサンプル」なのかもしれない。
「だから“消した”」
東雲は、空白の行を見つめたまま続ける。
「この実験に役立たないデータとして。『嫌悪の矛先』にもなれない、“誰からも十分に嫌われていない人間”だったのかもしれない」
「それって……」
三条が、眉をひそめる。
「一番まともだったってこと?」
「かもしれないし、一番どうでもよかったってことかもしれない」
佐久間が、あえて残酷に言う。
「全員から均等にどうでもよがられてて、『嫌いでも好きでもない』って評価しか持たれてなかった。だからグラフに特徴が出ない」
「そういうやつを、“削除”する」
管理職の男が、かすれた声で呟いた。
「会社のリストラみたいだな。『役に立つ』か『問題がある』やつだけ残して、空気みたいな存在は最初からいなかったことにする」
凛は、胸の奥がひどく痛くなるのを感じた。
本来なら、その「誰か」のことを悼むべきだ。
名前を呼んで、「ごめん」と言うべきだ。
少なくとも、一緒にここで過ごした時間があるはずなのだから。
なのに、自分たちは、その誰かに涙を流すことすらできない。
「……クソが」
思わず悪態が口から漏れた。
「何も覚えてないくせに、悲しんでるつもりになるのも、綺麗事じゃないか」
自分で自分に向けた言葉だった。
「俺、本当はそこに“いた人”のこと、全然知らないんだ。知らないのに、『かわいそう』とか言ってる。知らないのに、『一緒に戦った仲間でした』みたいな顔ができる」
凛は拳を握りしめた。
「でも、本気で思い出そうとしたら、何も出てこない。顔も、声も、話した内容も。名前を呼ぼうとした瞬間、喉にガス詰められたみたいに、息が止まる」
その自己嫌悪は、自分自身に向けた刃だった。
ノイズに乗るのすら許されなかった「誰か」。
死体として見つかることもなく、ガス処理室に転がることすらなく、ただ「サンプル削除、データ統合」とだけ記されて消えた存在。
その人のことを、悲しむ権利も、自分にはないんじゃないか。
「……それが、目的なんでしょうね」
東雲が、静かに言った。
「『悼む』という行為そのものを奪う。喪失を喪失として認識させない。そうすれば、人は『失ったものの重さ』からも解放される。罪悪感も、少しは軽くなる」
「軽くなってるか?」
佐久間が乾いた笑いを漏らす。
「俺には、逆に重くなってるようにしか思えないが」
「そうね」
月岡も、うつむく。
「もし、私たちがこのままここから出られたとしても——」
その「もし」は、あまりにも遠かったが、それでも彼女は続けた。
「外に出て、『あの施設には何人で閉じ込められていたのか』って聞かれたとき、どう答えるのかな」
「七人でした、って笑って言うかもな」
佐久間が、冗談にもならない冗談を言う。
「本当は十三人だったかもしれないのに」
「十三という数字すら、怪しい」
高科が、ログを睨みつけながら言った。
「俺らが『十三』って認識したのは、あくまでここのシステムが見せた情報を見たからだ。そこに最初から細工がしてあれば、いくらでも操作できる」
「じゃあ、今この空白の場所にも、本当はもっとたくさんの名前があったかもしれないってこと?」
インフルエンサーが、恐る恐る訊ねる。
「俺たちはすでに、『何人も消された後』の七人かもしれない」
管理職の男の言葉に、全員が息を呑んだ。
考えないようにしてきた可能性。
自分たちが「最初の十三」だという前提が、どこにも保証されていないという事実。
そのすべてが、今、一気に目の前に突きつけられている。
◇
その日の夕方から、ノイズは夜を待たずに流れ始めた。
これまでは照明が落ち、非常灯だけになったころに大きくなっていたザザザという音が、まだ白々と明かりのついた時間帯に、はっきりと聞こえるようになってきたのだ。
「昼なのに……」
凛は、共有スペースのソファに座りながら耳を澄ませた。
ザザ……ザザザ……。
今までは空調の低い唸り音に紛れていたものが、壁の中から直接響いてくるような近さで感じられる。
「聞き間違いじゃないですよね」
「うん、はっきり聞こえる」
月岡も、顔をしかめる。
「まるで、夜と昼の境目をなくすつもりみたい」
「フェーズが変わったってことだろ」
高科が、管理室で見たログを思い出しながら言った。
「“夜だけの儀式”から、“一日中の実験”へ。俺たちの感情や記憶が落ち着く隙間を、全部埋めに来てる」
「昼間から囁きが聞こえたら、休まる時間がなくなるものね」
東雲は、目を閉じてノイズを聞いていた。
「意識がはっきりしているうちに名前を刷り込んでおけば、夜にはもっと鮮明に浮かび上がる。そういう意図もあるかもしれない」
「……聞こえる?」
凛は、天井を見上げた。
ノイズの向こうから、かすかに何かが混じっている気がした。
名前——のような音。
でも、それはすぐに砂嵐に飲み込まれていく。
「まだ、はっきりとは」
「よくないわね」
東雲が、こめかみを押さえた。
「名前が聞こえない分だけ、私たちの脳は“聞こうとしてしまう”。それがストレスになって、余計に感情が揺さぶられる」
「名前を聞いても地獄、聞けなくても地獄か」
佐久間は、天井に中指を立てるジェスチャーだけして、すぐに手を下ろした。
「それに……」
凛は、唇を噛んだ。
「さっきの“消された誰か”のことも、このノイズの中に紛れてるんじゃないかって、勝手に思ってしまう」
ノイズのざらつきの一粒一粒が、人間の声の欠片みたいに感じられる。
その中には、きっと、あの空白のK−09の声も混ざっている。
でも、自分たちはそれを聞き分けることができない。
名前を呼べない人間は、ノイズにもなれない——東雲の言葉が、重くのしかかってくる。
「俺たちの中で、一番弱いくせに、一番見えなくて、一番忘れられやすい奴」
佐久間が、ぼそりと言った。
「そういう存在を、『消しても誰も気づかない』って分かったから、システムは気を良くしてるのかもな」
「やめてくださいよ」
インフルエンサーが、泣きそうな顔で言う。
「そんなこと言われたら、自分が消される側かもって怖くなるじゃないですか」
「誰だって、その可能性はある」
管理職の男が、疲れた笑いを漏らす。
「明日には、自分の名前がリストから消えて、ここにいる全員が『最初から七人だった』って顔をしてるかもしれない」
その光景を想像した瞬間、凛の背中に鳥肌が立った。
自分が消えた世界。
ガス処理室に運ばれることもなく、誰かの遺体として発見されることもなく。
ただ、「いなかった」として整えられた世界。
その中で、残された誰かが、「最初から七人だったっけ?」と首をかしげる。
「……」
その想像が、あまりにもリアルで、言葉が出なかった。
ノイズは、少しずつ大きくなっていた。
昼と夜の境界が溶けていく。
囁きはまだ、はっきりした名前にはなっていない。だが、いつその靄の中から一つの音が浮かび上がってもおかしくない。
そして今度選ばれるのは、「死ぬ」ことすら許されず、「存在ごと消される」誰かかもしれない。
凛は、奥歯を噛みしめた。
自分の名前が、消される前に。
自分の指が、誰かを指差す前に。
せめて何か、ノイズの外側に残せるものはないのか——そんな無茶な願いだけが、胸の奥でじりじりと燃えていた。




