表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/11

第九話 名前の消える朝

 御子柴慎がガス処理室で冷たくなってから、一晩が明けた。

 七人になった——はずだった。

 そう頭では分かっているのに、どこかで数字がしっくり来ない。十三から一人ずつ減っていく感覚が、途中でどこかずれたような違和感だけが、胸の奥に刺さっていた。

「行くか」

 高科颯太が、乾いた目をこすりながら言った。眠れていないのは、顔を見ただけで分かる。青いクマと、こわばった頬。

「あの“補正プロトコル”ってやつ、ちゃんと見ておかないと、また何されるか分からないしな」

「……分かった」

 黒川凛は、小さく頷いた。

 昨夜、ノイズが囁いたのは「そうた」ではなく「しん」だった。高科が自分の名前を何度も何度も録音し、ノイズに重ねてまで「俺を殺せ」と叫んだのに、システムはまったく相手にしなかった。

 それどころか、御子柴を選んだ。

 自己犠牲なんか、計算に入っていない——それを思い知らされたばかりだ。

 だからこそ、今度はこちらの番だ。やられっぱなしでいるわけにはいかない。

     ◇

 管理室は、相変わらず冷たかった。

 壁一面のモニターと、低く唸るサーバーラック。昨日まではただの「監視する側の部屋」にしか見えなかったその空間が、今は露骨な敵意を持ってそこにあるように感じられる。

「この辺りのログ、まだちゃんと見てなかったんですよね」

 高科が椅子に座り、キーボードを叩き始める。凛と東雲遥は背後から画面を覗き込んだ。

 画面には、見慣れない英数字と、日本語のログが混在していた。

 ——補正プロトコル起動。

 ——被験者群の嫌悪指標が一時的に低下しています。

 ——刺激強度を増加します。

 ——協調行動の発現を検知。

 ——実験ノイズとしてマークします。

「……協調行動?」

 凛がつぶやく。

「たぶん、昨日からの俺たちの動きのことだろうな」

 高科は、スクロールしながら説明する。

「罪の告白会。自己犠牲の志願。互いの罪悪感を共有して、矛先を分散させようとした。システムから見れば、あれは『データが乱れる要因』だ」

「だから、『ノイズ』として扱ったのね」

 東雲の声には、怒りと納得が入り混じっていた。

「このシステムにとっての“理想的な人間”は、協力し合う人間じゃなくて、互いを切り捨て合う人間。嫌悪の矛先がはっきりしていて、『こいつが死ねばいい』と迷わず指差せる集団」

「なのに、昨日の俺らは逆の方向に行った」

 高科が、自嘲するように笑う。

「だから補正が入った。“嫌悪指標が一時的に低下”って、そういうことだ。互いに少しでも理解しようとして、憎しみを薄めた。その分を、“刺激強度”で埋め合わせるってわけだ」

「刺激って、まさか……」

 凛が訊ねると、高科は別のログを開いた。

 そこには、さらに不快な文言が並んでいた。

 ——睡眠導入ガスの濃度を3%増加。

 ——扁桃体反応促進用微量ガス、投与開始。

 ——被験者の記憶再生頻度をモニタリング。

 ——感情の揺れ幅が閾値を上回った対象に、個別刺激を追加。

「……脳を、直接いじってるってことですね」

 東雲が、顎に手を当てる。

「扁桃体は恐怖や怒りを司る部位。そこを刺激して、記憶の再生を強制する。嫌悪の記憶だけを何度も何度もリプレイさせることで、『こいつだけは許せない』を強化していく」

「最悪だな」

 凛は、こみ上げる吐き気を飲み込んだ。

「俺たちが『赦そう』とした分だけ、向こうは『もっと憎め』ってガスを増やしたってことかよ」

「そういうことだ」

 高科は、画面の端に表示されている小さなアイコンを指さした。

「ここ。『補正プロトコル:フェーズ2へ移行』……次、何が来るつもりなんだか」

 その問いの答えは、すぐに分かることになる。

 いや、分かってしまうことになる、というべきか。

     ◇

 異変に気づいたのは、その日の昼過ぎだった。

 共有スペースで味気ない昼食を取っていたとき、月岡茜がふと顔をしかめた。

 彼女はこの施設に来てからずっと「看護師の女」として扱われてきたが、管理室のデータで彼女のフルネームを知ってから、皆も自然と苗字で呼ぶようになっていた。

「……ちょっと待って」

 月岡は立ち上がり、壁際の空調パネルの前に歩み寄る。

「今、風の流れがおかしくなかった?」

「え?」

 凛も耳を澄ませる。

 確かに、いつもと違う音が混じっている気がした。単調だった空調音の奥に、シュー、という小さな噴出音。

 月岡は、手で空気の流れを確かめるように壁をなで、その途中で指を止めた。

「ここ。温度が違う」

 彼女が押さえたのは、これまでただの白い壁だと思っていたパネルの一部だった。

 指先で軽く押すと、「カチ」と音がして、パネルがわずかに浮く。

「やっぱり……」

 月岡は力を込めてパネルを外した。

 その向こうには、細いパイプがぎっしりと張り巡らされていた。ガス処理室へ伸びている太いパイプとは別系統の、細いチューブ。

 そして、その中の一本から、無色透明のガスが微量に噴き出していた。

「……これ、新しく動き始めてる」

「前はなかった?」

「なかった。少なくとも、私が見た限りでは」

 月岡は、眉を寄せる。

「空調の匂いも、微妙に違う。医療現場で使う麻酔ガスに、少し似てる気がする」

「でも、ここにはちゃんとした検査機器なんて……」

「簡易キットならある」

 月岡は共有スペースの棚をあさり、小さなケースを取り出した。

「さっき管理室で見つけたの、持ってきてた。工業用ガスの成分をざっくり調べるタイプ」

 彼女は慣れた手つきでキットを開き、パイプの噴出口近くに小さなセンサーをかざした。

 数秒後、センサーのランプが黄色く点滅し、小さなディスプレイに数値が表示される。

「……やっぱり」

「分かるのか?」

「詳しい成分までは分からないけど、少なくとも呼吸器を直接やられる毒ガスじゃない。濃度も極めて低い。その代わり……」

 月岡は、ディスプレイの端に表示されている化合物の略号を指差した。

「これ、神経伝達物質をいじる系のガスだと思う。中枢に作用する。特に、記憶に関わる部分」

「記憶……?」

 凛の背筋に、冷たい汗が伝う。

「一時的に、記憶の定着や呼び出しを撹乱するタイプの可能性が高い。医療現場で言うと、鎮静剤とか、一部の睡眠薬に近い。でもこれは……もう少しピンポイントに来る」

「ピンポイント?」

「たとえば、『特定の期間に覚えたこと』だけをぼかすとか、『特定の人物に関する記憶』だけ取り出しにくくするとか」

 月岡は、自分の腕を抱いた。

「そんなこと、あっていいはずないんだけど……この施設なら、やっててもおかしくない」

「記憶を……削るガス」

 凛は、無意識に喉を押さえた。

 眠りを操作するガス。無意識を掘り返すガス。感情を増幅するガス。

 そこに今度は、「忘れさせるガス」が加わる。

 何を忘れさせるつもりなのか。

 それを考えた瞬間、嫌な予感が全身を走った。

     ◇

 夕方。

 実験棟の窓のない廊下に、ぼんやりとした蛍光灯の光だけが伸びる。

 高科と凛、東雲、月岡、佐久間、インフルエンサーの女、管理職の男、三条真琴。

 ——そのはずの顔ぶれで、共有スペースのテーブルを囲んでいた。

「なあ」

 紙コップを指で弄んでいた佐久間が、ふと呟いた。

「俺たちって、最初から七人だったっけ?」

 その言葉に、時間が止まった。

 空調の音だけが、やけに大きく聞こえる。

「……え?」

 凛は、思わず周りを見回した。

 七人。

 テーブルを囲んでいるのは、七つの顔。自分を含めて七人。寝室のベッドも、七つ。

 何もおかしくない——はずなのに。

 胸のどこかが叫んでいた。

 違う、と。

「ちょっと待って」

 東雲が、眉をひそめる。

「何、今の」

「いや……何となく、違和感があってさ」

 佐久間は頭をかいた。

「さっき寝室通ったとき、『ベッド、狭くなったな』って思ったんだよ。前はもっとぎゅうぎゅうだった気がするのに」

「でも、ベッドは七つでしたよね?」

 インフルエンサーの女が言う。

「最初からそうだった気がするけど」

「十三人いた時代の記憶はある?」

 東雲が、皆の顔を順番に見ていく。

 全員、微妙な顔をしていた。

「……人数までは、覚えてないな」

 管理職の男が言った。

「最初に目を覚ましたとき、何人いたかなんて、いちいち数えちゃいない」

「あたしも。『いっぱい』って感じで、それ以上は」

 インフルエンサーが苦笑した。

「ただ、一晩ごとに減っていってるのは、何となく分かるけど」

「今は七人」

 東雲は、指折り数える。

「黒川くん、高科くん、佐久間さん、私、三条さん、月岡さん、インフルエンサーさん、管理職さん——」

 口に出しながら、彼女の表情が固まった。

 八つ、数え終わっている。

「……今、八人って数えませんでした?」

 凛も、同じ違和感に気づいた。

 七人だ、と佐久間は言った。

 だが、こうして数えると、どう考えても八人いる。

 テーブルを囲む顔を、一人ずつ確認する。

 黒川凛。

 高科颯太。

 佐久間晶。

 三条真琴。

 東雲遥。

 月岡茜。

 インフルエンサー。

 管理職。

 八人。

 確かに、八人いる。

「……なんだよ、それ」

 佐久間が、引きつった笑いを漏らした。

「さっき、俺、七人って言ったよな?」

「言いました」

 凛は、背中に冷や汗を感じながら頷いた。

「でも、今ここには八人いる。ベッドは?」

 全員で寝室に駆け込んだ。

 そこに並んでいたベッドは——七つだった。

「……七?」

 高科が、顔をしかめる。

「何でだよ。さっき、八人いたよな。ここに寝てるの、いつもどうしてた?」

「誰かは共有だった?」

「そんなはず……」

 記憶を探ろうとした瞬間、頭の中に靄がかかった。

 最初の夜のこと。誰と誰が隣り合って寝ていたのか。ベッドは何列だったのか。

 思い出そうとすると、すべてがぼやけていく。

 黒板に書かれた文字を消しゴムで消すみたいに、輪郭が曖昧になる。

「ちょっと、落ち着いて」

 東雲が、こめかみに手を当てた。

「数字の話をする前に、『誰がいたか』を思い出してみましょう。今、ここにいる顔とは別に、『いたはずの誰か』の顔、思い出せますか?」

 凛は目を閉じた。

 藤咲ひかり。牧野カイ。百瀬蓮。志村直哉。北条司。御子柴慎。

 死んでいった六人の顔は、はっきりと浮かんだ。

 怒った顔。笑った顔。苦しんだ顔。

 その一人一人に、言葉をかけてやれるくらいには、覚えている。

「……六人ですよね。死んだの」

 凛は言った。

「藤咲さん、牧野さん、百瀬さん、志村さん、北条、御子柴さん。最初十三人だから、今七人。だから——」

 そこまで言って、言葉が止まった。

「十三人」

 その数字自体が、急に心許なく感じられた。

 最初、本当に十三人いたのか?

 誰が「十三」と数えた?

 その記憶が、どこにも見当たらない。

「俺……」

 高科が、おでこを押さえる。

「最初に『十三』って言ったの、たぶん俺だと思うんですけど」

「そうだな。お前が『被験者十三名』ってモニターに表示されてたって言ってた」

 佐久間が頷く。

「でも、その画面……今、見たらどうなってる?」

 全員が無言で頷き合い、走って管理室に戻った。

     ◇

 管理室の端末。

 被験者一覧を表示する画面。

 そこに並んでいるのは、K−01からK−08までの八つの番号——だけだった。

 K−01 黒川凛

 K−02 高科颯太

 K−03 東雲遥

 K−04 佐久間晶

 K−05 三条真琴

 K−06 月岡茜

 K−07 インフルエンサー女(仮名)

 K−08 管理職男(仮名)

 K−09以降は存在しないかのように、リストが終わっている。

「……おかしい」

 高科が、震える指でスクロールする。

「前は、K−13まであった。死んだ人間も含めて十三人分。ログも、プロフィールも。なのに今、どこにもない」

「削除……された?」

 凛の声は、自分でも驚くほどかすれていた。

「誰か一人分、丸ごと」

「待って」

 東雲が別のメニューを開く。

 ログ閲覧。

 そこには、確かに不自然な空白があった。

 ——20:31 K−07 死亡判定。

 ——07:02 K−04 死亡判定。

 ——12:00 補正プロトコル起動。

 ——12:03 サンプル削除、データ統合。

 ——12:05 被験者リスト更新。

「サンプル……削除」

 月岡が、おぞましい単語を口にした。

「データ統合って何だよ」

「どういうことなの、これ」

 インフルエンサーが、声を震わせる。

「誰か一人が、『死んだ』ことすら許されなかったってこと?」

「死体も、ベッドも、データも」

 東雲が、唇を噛む。

「全部“最初から存在しなかったことにした”」

「そんな……」

 凛は、自分の頭を殴りたくなった。

 忘れている。

 この中にいたはずの誰かのことを。

 一緒にテーブルを囲んだ時間があって、言葉を交わしたはずで、笑ったり、怒ったりしたはずで。

 けれど、その「誰か」の顔も、声も、名前も、まったく浮かんでこない。

 脳みその表面に、つるつるの穴が空いているみたいだった。

 何かがそこにあった痕跡だけが残っていて、中身はきれいにえぐり取られている。

「思い出そうとしても、映像がぼやける」

 高科が、額を押さえて膝をついた。

「本当に……いたのか?」

「いたのよ」

 東雲が、珍しく強い声を出した。

「だって、被験者データの番号が合わないもの。最初にログを見たとき、確かにK−09の欄があった。今は真っ白になっている」

 彼女は、空白の行を指差す。

 名前欄も、経歴も、問診票も、すべて空白。ファイルそのものが存在しないかのように。

 だが、システムが「削除」とわざわざ記している以上、そこには確かに何かがあった。

「名前を呼べない人間は、ノイズにもなれない」

 東雲が、震える声で言った。

「だから、このシステムは、その人の記録ごと消したの」

「名前を呼べない……?」

 凛は、その言葉を反芻した。

 ノイズは、名前を呼ぶ。

 ひかり。カイ。レン。なおや。つかさ。しん。

 声が重なって、誰か一人の音を浮かび上がらせる。

 でも今、彼らは誰か一人の名前を、思い出すことすらできない。

 呼びたくても呼べない。

 それは、この装置にとっても、「扱いようがないサンプル」なのかもしれない。

「だから“消した”」

 東雲は、空白の行を見つめたまま続ける。

「この実験に役立たないデータとして。『嫌悪の矛先』にもなれない、“誰からも十分に嫌われていない人間”だったのかもしれない」

「それって……」

 三条が、眉をひそめる。

「一番まともだったってこと?」

「かもしれないし、一番どうでもよかったってことかもしれない」

 佐久間が、あえて残酷に言う。

「全員から均等にどうでもよがられてて、『嫌いでも好きでもない』って評価しか持たれてなかった。だからグラフに特徴が出ない」

「そういうやつを、“削除”する」

 管理職の男が、かすれた声で呟いた。

「会社のリストラみたいだな。『役に立つ』か『問題がある』やつだけ残して、空気みたいな存在は最初からいなかったことにする」

 凛は、胸の奥がひどく痛くなるのを感じた。

 本来なら、その「誰か」のことを悼むべきだ。

 名前を呼んで、「ごめん」と言うべきだ。

 少なくとも、一緒にここで過ごした時間があるはずなのだから。

 なのに、自分たちは、その誰かに涙を流すことすらできない。

「……クソが」

 思わず悪態が口から漏れた。

「何も覚えてないくせに、悲しんでるつもりになるのも、綺麗事じゃないか」

 自分で自分に向けた言葉だった。

「俺、本当はそこに“いた人”のこと、全然知らないんだ。知らないのに、『かわいそう』とか言ってる。知らないのに、『一緒に戦った仲間でした』みたいな顔ができる」

 凛は拳を握りしめた。

「でも、本気で思い出そうとしたら、何も出てこない。顔も、声も、話した内容も。名前を呼ぼうとした瞬間、喉にガス詰められたみたいに、息が止まる」

 その自己嫌悪は、自分自身に向けた刃だった。

 ノイズに乗るのすら許されなかった「誰か」。

 死体として見つかることもなく、ガス処理室に転がることすらなく、ただ「サンプル削除、データ統合」とだけ記されて消えた存在。

 その人のことを、悲しむ権利も、自分にはないんじゃないか。

「……それが、目的なんでしょうね」

 東雲が、静かに言った。

「『悼む』という行為そのものを奪う。喪失を喪失として認識させない。そうすれば、人は『失ったものの重さ』からも解放される。罪悪感も、少しは軽くなる」

「軽くなってるか?」

 佐久間が乾いた笑いを漏らす。

「俺には、逆に重くなってるようにしか思えないが」

「そうね」

 月岡も、うつむく。

「もし、私たちがこのままここから出られたとしても——」

 その「もし」は、あまりにも遠かったが、それでも彼女は続けた。

「外に出て、『あの施設には何人で閉じ込められていたのか』って聞かれたとき、どう答えるのかな」

「七人でした、って笑って言うかもな」

 佐久間が、冗談にもならない冗談を言う。

「本当は十三人だったかもしれないのに」

「十三という数字すら、怪しい」

 高科が、ログを睨みつけながら言った。

「俺らが『十三』って認識したのは、あくまでここのシステムが見せた情報を見たからだ。そこに最初から細工がしてあれば、いくらでも操作できる」

「じゃあ、今この空白の場所にも、本当はもっとたくさんの名前があったかもしれないってこと?」

 インフルエンサーが、恐る恐る訊ねる。

「俺たちはすでに、『何人も消された後』の七人かもしれない」

 管理職の男の言葉に、全員が息を呑んだ。

 考えないようにしてきた可能性。

 自分たちが「最初の十三」だという前提が、どこにも保証されていないという事実。

 そのすべてが、今、一気に目の前に突きつけられている。

     ◇

 その日の夕方から、ノイズは夜を待たずに流れ始めた。

 これまでは照明が落ち、非常灯だけになったころに大きくなっていたザザザという音が、まだ白々と明かりのついた時間帯に、はっきりと聞こえるようになってきたのだ。

「昼なのに……」

 凛は、共有スペースのソファに座りながら耳を澄ませた。

 ザザ……ザザザ……。

 今までは空調の低い唸り音に紛れていたものが、壁の中から直接響いてくるような近さで感じられる。

「聞き間違いじゃないですよね」

「うん、はっきり聞こえる」

 月岡も、顔をしかめる。

「まるで、夜と昼の境目をなくすつもりみたい」

「フェーズが変わったってことだろ」

 高科が、管理室で見たログを思い出しながら言った。

「“夜だけの儀式”から、“一日中の実験”へ。俺たちの感情や記憶が落ち着く隙間を、全部埋めに来てる」

「昼間から囁きが聞こえたら、休まる時間がなくなるものね」

 東雲は、目を閉じてノイズを聞いていた。

「意識がはっきりしているうちに名前を刷り込んでおけば、夜にはもっと鮮明に浮かび上がる。そういう意図もあるかもしれない」

「……聞こえる?」

 凛は、天井を見上げた。

 ノイズの向こうから、かすかに何かが混じっている気がした。

 名前——のような音。

 でも、それはすぐに砂嵐に飲み込まれていく。

「まだ、はっきりとは」

「よくないわね」

 東雲が、こめかみを押さえた。

「名前が聞こえない分だけ、私たちの脳は“聞こうとしてしまう”。それがストレスになって、余計に感情が揺さぶられる」

「名前を聞いても地獄、聞けなくても地獄か」

 佐久間は、天井に中指を立てるジェスチャーだけして、すぐに手を下ろした。

「それに……」

 凛は、唇を噛んだ。

「さっきの“消された誰か”のことも、このノイズの中に紛れてるんじゃないかって、勝手に思ってしまう」

 ノイズのざらつきの一粒一粒が、人間の声の欠片みたいに感じられる。

 その中には、きっと、あの空白のK−09の声も混ざっている。

 でも、自分たちはそれを聞き分けることができない。

 名前を呼べない人間は、ノイズにもなれない——東雲の言葉が、重くのしかかってくる。

「俺たちの中で、一番弱いくせに、一番見えなくて、一番忘れられやすい奴」

 佐久間が、ぼそりと言った。

「そういう存在を、『消しても誰も気づかない』って分かったから、システムは気を良くしてるのかもな」

「やめてくださいよ」

 インフルエンサーが、泣きそうな顔で言う。

「そんなこと言われたら、自分が消される側かもって怖くなるじゃないですか」

「誰だって、その可能性はある」

 管理職の男が、疲れた笑いを漏らす。

「明日には、自分の名前がリストから消えて、ここにいる全員が『最初から七人だった』って顔をしてるかもしれない」

 その光景を想像した瞬間、凛の背中に鳥肌が立った。

 自分が消えた世界。

 ガス処理室に運ばれることもなく、誰かの遺体として発見されることもなく。

 ただ、「いなかった」として整えられた世界。

 その中で、残された誰かが、「最初から七人だったっけ?」と首をかしげる。

「……」

 その想像が、あまりにもリアルで、言葉が出なかった。

 ノイズは、少しずつ大きくなっていた。

 昼と夜の境界が溶けていく。

 囁きはまだ、はっきりした名前にはなっていない。だが、いつその靄の中から一つの音が浮かび上がってもおかしくない。

 そして今度選ばれるのは、「死ぬ」ことすら許されず、「存在ごと消される」誰かかもしれない。

 凛は、奥歯を噛みしめた。

 自分の名前が、消される前に。

 自分の指が、誰かを指差す前に。

 せめて何か、ノイズの外側に残せるものはないのか——そんな無茶な願いだけが、胸の奥でじりじりと燃えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ