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第七話 自分の名前を呼ぶ

 その朝、誰も死んでいなかった。


 ガス処理室のランプは最後まで赤のままで、青に変わることはなかった。扉も、自動的にロックが外れることなく、無機質な鋼鉄の板として黙り込んでいる。


 八人全員が寝室に揃っている。それだけの事実なのに、胸の中は妙に落ち着かなかった。


 黒川凛は、自分の手の甲をつねりながら考えていた。


 死が、一晩だけ止まった。


 それは救いだ。けれど同時に、気味が悪い。ここがこれまで「毎晩一人」を機械的に選んできたことを思えば、そのリズムから外れた今夜こそが、いちばん不安定な状態なのかもしれない。


「今日は……誰もいない、よな」


 眠たげな声を無理に張り上げたのは高科颯太だった。


 寝癖のついた髪を片手で押さえながら、彼は寝室を見回す。一人一人の顔を確認し、最後に自分の胸に手を当てる。


「よし、八人。ちゃんといる」


「そう簡単に増えたり減ったりされたら困るわ」


 東雲遥が、薄く笑ってみせた。その顔もやはり青ざめているが、他の誰よりも冷静に見えるのは職業柄だろうか。


 看護師の女性が、胸に手を置いてほっと息を吐く。


「良かった……本当に、誰も」


 安堵の声が寝室に広がる。だが、その安堵はすぐに戸惑いに変わっていった。


「でも、なんで急に止まったんだろうな」


 御子柴慎が、腕を組んだ。


「システムのエラーか? メンテナンス日とか」


「なら、止まった理由もどこかにログが残ってるかもしれないですね」


 高科が言う。


 しかし、凛の頭は違う方向へと転がっていた。


(もし……この“休止”が、何かのサインだとしたら)


 昨日見つけた管理室。問診票。嫌悪ポイント。自分たちの憎しみや恐怖が、すべて数字になって溜められていた。


 そのシステムが、今、何かを考えている。


 そんな想像が、じわじわと嫌な形を取り始めていた。


     ◇


 共有スペースのテーブルには、いつものように八つの紙コップが並べられていた。


 支給されたインスタントの飲み物を分け合いながら、全員が黙って座っている。話題はあるはずなのに、言葉にするのが怖いテーマばかりだ。


 最初に声を出したのは、意外にもインフルエンサーの女性だった。


 派手な髪色はこの数日ですっかり色あせ、化粧もほとんど落ちている。だが、目だけはどこか開き直ったように強かった。


「ねえさ」


 視線が一斉に集まる。


「これ、さ。今夜また“名前”が戻ってきたら、どうするつもり?」


 凛は、紙コップのふちを指でなぞりながら考えた。


 昨日、ノイズは名前を告げなかった。それは偶然かもしれないし、意図的かもしれない。


 だが、どちらにせよ──「何も変えないまま」次の夜を迎えることは、もうできそうになかった。


「……さっきからずっと考えてました」


 高科が、口を開いた。


「もし、このまま何もせずにいたら、また誰かが勝手に選ばれる。俺たちの無意識と、システムのモデルが勝手に決める。“犠牲”を」


 彼は自分の指を見つめる。


「なら、逆に……俺たちの方から“指名”するっていうのは、どうなんでしょう」


「指名?」


 凛が聞き返すと、高科は少し言いよどんでから、続けた。


「最も罪深いと感じている人が、自分で、自分の名前を意識的にノイズに乗せる。『次は俺だ』『俺でいい』って、はっきり願う。そうすれば、少なくとも他の誰かの命は、その夜だけは救えるかもしれない」


 空気が、さらに重たくなる。


 言っていることは、筋が通っているようにも聞こえた。


 罪悪感と恐怖に押し潰されそうになっている全員にとって、「自分の死に意味を持たせる」という考えは、どこか救いでもある。


 だが同時に──


「……きれい事に聞こえるな」


 管理職の男が、かすれた声で口を挟んだ。


「『最も罪深い者が先に死ぬべき』なんて言い出したら、全員が『自分の罪』を語り出すだろう。誰が一番重いか比べ合って、また新しい憎しみが生まれる」


「それでも、黙って順番待つよりマシだ」


 そう言ったのは、これまであまり前に出なかった人物だった。


 三条真琴。


 ショートカットの髪を掻き上げ、眼鏡の奥で細い目を光らせる女だ。


 これまで「元事務職です」とだけ名乗り、あまり自分の話をしなかった三条が、珍しく身を乗り出していた。


「合理的には、最も嫌われてるやつが先に死ぬべきでしょ」


 さらりと言ってのける。


 凛は思わず眉をひそめた。


「……今、この場で言うことですか、それ」


「だってそうじゃない?」


 三条は肩をすくめた。


「ここにいる全員が、お互いに誰かを嫌ってる。その『嫌悪ポイント』とやらがグラフになってる。だったら、その総量が一番高い人間から順番にターゲットになれば、集団としてのストレスは一番低くなる」


 その言い方には、どこかで聞いた裁判ドラマのセリフのような冷たさがあった。


「合理的には、ね」


 東雲が静かに言う。


「でも、その前提は『人を切り捨てるのが当然の社会』でしか成り立ちません」


「……それを目指してる職業も世の中にはあるのよ」


 三条の目が、わずかに笑った。


「私は、弱い依頼人を切り捨てる弁護士を目指していたの」


 凛は言葉を失った。


 御子柴が眉をひそめる。


「どういう意味だ」


「名前の通りよ」


 三条は、紙コップを指先で回しながら淡々と話し始めた。


「弁護士って、一応“弱い人の味方”みたいなイメージあるでしょ。でも現実は違う。金になる案件しか引き受けない人もいれば、勝てる見込みのない依頼人を門前払いする人もいる」


 彼女の声には、感情の起伏がほとんどなかった。


「私が勤めてた事務所は、そういう場所だった。“見込みのない客は捨てろ”ってのが基本方針。私はそこで、電話口で『難しい案件ですね』『うちではお力になれません』って、毎日のように切ってた」


 誰かが小さく息をのむ。


「中には、本当にどうしようもない人もいた。被害妄想だけが膨らんでたり、事実関係もぐちゃぐちゃだったり。でも、たぶん……中には、本当に助けてほしかった人もいたんだと思う」


 三条は、かすかに目を伏せた。


「私は怖かった。ちゃんと話を聞いてしまったら、情が移るのが。『この人の味方になりたい』って思った瞬間、事務所にいられなくなるのが分かってたから。だから、わざと笑いながら切った」


 笑いながら、電話を切る仕草をしてみせる。


「電話を切ったあと、匿名掲示板に書き込んだりもした。『今日のヤバ客スレ』みたいなところに、『自分は絶対被害者だって言い張るおっさんがさあ』って。依頼人の癖とか口癖とか、バレない範囲で真似して笑いものにした」


 凛の中で、何かがざわりと動いた。


 その光景を、どこかで見たことがある。


 相談に来た誰かを笑い、ネタにするスレッド。特定されないギリギリのラインで、誰かの日常が切り取り、弄ばれる場所。


「そのうち、怖くなった」


 三条は続ける。


「自分が何をしてるのか分からなくなる瞬間があった。『この人、誰にも相談できなくて、やっとここに電話してきたのに』って思った時とか。でも、そのたびに『私はただの窓口だし』『断るのが仕事だし』って、自分に言い訳した」


「……」


「本当は、人を守るのが怖かっただけ」


 そこで初めて、彼女の声が僅かに揺れた。


「一歩踏み込めば、自分も一緒に泥をかぶる。相手の人生の責任を背負わされる。それが嫌で、怖くて、『弱い人を切り捨てる側』に回った。安全地帯から笑ってる方が楽だから」


 佐久間が、ふっと笑った。


「そういう意味では、俺はあんたに親近感がわくな。安全圏から石を投げるのは、大事なスキルだよ」


「褒め言葉には聞こえないわね」


 三条も、わずかに笑って返す。


「でも、そうね。あんたと私は似てるのかも。だからここで、こうして喋ってるんだと思う」


 彼女は自分の胸を軽く叩いた。


「合理的には、最も嫌われてるやつ──一番『切り捨てる側』にいたやつが、先に死ぬべきなのよ」


「だからって、『死ぬべき』なんて言葉、自分の口で言うもんじゃない」


 御子柴が低く言った。


「それは周りが勝手に思うことであって、自分から選ぶ話じゃない」


「でも、もう“周り”任せにはできないでしょ」


 三条は、まっすぐ彼を見つめ返した。


「この装置は、私たちの『無意識』を計算して誰かを選ぶ。でも、そこに『意識的な選択』を紛れ込ませることはできるかもしれない」


「自分から、名乗り出る……ってことか」


 凛は、喉の奥にたまった何かを飲み込んだ。


 最も罪深いと感じている者が、自分の名前を意識的にノイズに乗せれば、他の誰かの命を救えるかもしれない。


 理屈は分かる。


 でも、その瞬間、自分の中の何かも一緒に壊れる気がした。


     ◇


「罪の告白会みたいになってきたな」


 佐久間が、わざと軽い口調で言った。


「どうせなら、全員やるか? 『自分のクソみたいな過去』をここで披露し合って、誰が一番ヘイト集めるか決める」


「あんた、本当に言い方どうにかならないの?」


 看護師が呆れた声を出す。


 だが、誰もはっきりと否定しなかった。


 もう隠し事をしている余裕はない。昨日見つけた問診票と被験者データが示していたのは、「とっくに全部見られている」という現実だ。


 だったらせめて、自分の口で、自分の言葉で話したい。


 そう思うのは、わがままだろうか。


「……俺から、行く」


 御子柴が、静かに手を挙げた。


「さっき三条さんが、電話の向こうの人間を切り捨てた話をしただろ。それ聞いてて、どうしても言わなきゃいけないことがある気がした」


 凛は、彼の横顔を見つめた。


 あの日の問診票。サンプルデータ。御子柴の教え子のイニシャル。


「俺は教師だった。何度か言ったと思うが」


 御子柴の声は低いが、はっきりとしていた。


「中学校で、生活指導と理科を受け持ってた。そこそこ評判も良くてな。生徒には厳しいけど信頼されてる、みたいなポジションを、自分で勝手に気に入ってた」


 それが、いかに自己満足だったかは、今なら分かる、と彼は続ける。


「あるクラスで、いじめがあった。表面化したときには、もうだいぶ長く続いてたらしい。机に落書き。私物隠し。無視。よくあるパターンだ」


 凛の胸が、きゅっと縮んだ。


「俺は担任じゃなかったが、生活指導として何度かそのクラスに入った。加害側の生徒を呼び出して指導もした。『お前ら、やってること分かってんのか』『人として恥ずかしくないのか』ってな」


 そのときの自分の顔を思い出したのか、御子柴は苦笑した。


「でも、本気じゃなかった」


 そう言い切った。


「本気で止めようとしてなかった。あくまで『指導の一環』として、マニュアル通りに怒ってただけだ。なぜかと言えば……正直、しんどかったからだ」


 誰も口を挟まない。


「いじめなんて、本気で関わろうとしたら、ものすごく重い。加害側の家庭の事情。被害者の心の傷。クラスの空気。その全部を背負い込まなきゃいけない。そうなると、自分の生活も削られる。気が休まる時間なんてなくなる」


 御子柴は、自分の拳を見つめた。


「俺はそこまでの覚悟がなかった。『ここまで踏み込んだら戻れなくなる』ってラインを本能で分かっていて、そこから一歩引いたところで止まった。『きつく指導もしたし、学校としてできることはやった』ってところで、満足した」


 その結果どうなったか──。


「いじめられてた生徒は、転校した」


 彼の声が、少しだけ震えた。


「本人の希望だってことになってた。でも、あいつが職員室に連れて来られたときの顔を、俺はまだ覚えてる。『先生、ここにいていいんですか』って聞かれて、俺は『大丈夫だ』って言った」


 凛の胸に、似たような光景が刺さる。


「嘘だった。大丈夫なんかじゃなかった。何一つ、大丈夫じゃなかった」


 御子柴は、息を吐いた。


「でも、俺はそれ以上、何もしてやれなかった。転校してからあいつがどうなったのかも、知らないままだ」


「だから、今日あのデータを見て……」


 凛が言うと、御子柴は頷いた。


「あいつのイニシャルを見た瞬間、心臓が止まりそうになった。『問題児』『指導歴あり』って、俺が書いた評価そのまんまだったからな」


 彼は自嘲気味に笑った。


「もしかしたら、あいつもどこかで『心理テスト』なんてものに答えさせられたのかもしれない。『教師への信頼度:低』ってな。そんな回答が、ここみたいな場所に送られてたら、と考えたら……俺はここで、何度殺されても足りない」


 その言葉に、凛は喉の奥が熱くなるのを感じた。


 自分の経験と重なりすぎていたからだ。


     ◇


「じゃあ、次は私ですね」


 東雲遥が、静かに口を開いた。


「私は臨床心理士ですが、大学院時代に、臨床実験にも関わっていました。薬物療法とカウンセリングを併用したうつ病の治療プログラム。被験者を集めて、半年間の経過を追う研究です」


 彼女は、まっすぐ前を見たまま淡々と話す。


「ある患者さんがいました。二十代女性。小さな会社で事務の仕事をしていて、上司からのパワハラで心を病んでいました。最初はとても警戒心が強くて、私たち研究者に対してもなかなか心を開いてくれなかった」


 凛は、指先に力を込める。


「ある日、その方がいつもより少しだけ饒舌になって、『昨日、久しぶりにちゃんと寝られました』と話してくれたんです。新しい薬が効き始めた兆候でした。私は嬉しくて、『この調子で行きましょう』と笑った」


 そこまで話して、遥はほんの少し目を伏せた。


「でも、その同じ週に、彼女は自殺未遂をしました」


 共有スペースの温度が、一気に下がった気がした。


「薬の副作用が出ていたことに、私は気づけなかった。彼女は、『気分は少し楽になったけど、何にも興味が持てない』と言っていたのに、私はそれを『うつの症状がぶり返しただけ』と解釈してしまった」


 遥の声は揺れていなかった。しかし、その手はテーブルの上で強く握りしめられていた。


「彼女は、未遂で済みました。その後、別の病院に転院して、私は二度と会っていません。でも、あのとき、私は『研究の成功』を優先してしまった。『良いデータが取れそうだ』という欲が、患者さんの細かなサインを見落とさせたんです」


「……責任を、全部自分で背負う必要はないと思う」


 看護師が、小さな声で言う。


「医療の現場は、本当はチームで……」


「理屈では分かってます」


 遥は、静かにかぶりを振った。


「でも、私の中には、あの人の顔がずっと残っている。『あなたの笑顔を見て、私も頑張ろうって思ったんです』と言われた日のことと、自殺未遂の報告書を読んだ日のことが、同じファイルに綴じられている」


 彼女は、自分の胸を指先で押さえた。


「私は、誰かを救うためにこの仕事を選んだはずでした。でも、気づけば『データ』のために人を見ていた時期があった。その罪悪感がある限り、私はここで自分を“安全な側”だとは言えません」


 東雲の告白は、妙な説得力を持っていた。


 救う側でありながら、救えなかった人間の顔を抱え続ける罪。


 その重さは、思った以上に凛の胸を締めつけた。


     ◇


「じゃ、次は?」


 佐久間が、わざと軽く言う。


「この流れだと、黒川くんだな」


 いきなり名指しされて、凛の心臓が跳ねた。


「い、いきなり……」


「俺はもう結構喋ったしな。『嫌いなやつを決めろ』って煽るクソ野郎枠は十分だろ。順番に、な?」


 逃げ場はなさそうだった。


 凛は、紙コップを握りしめて息を吸った。


「……俺は、たぶん、みんなと比べたら大したことしてないです」


 そう前置きしながら、自分でその言い方に嫌気がさす。


「でも、自分の中では、ずっと引っかかっていることがあります」


 御子柴が、じっと凛を見た。


「俺のクラスに、一人、孤立してたやつがいました」


 凛は、机の一点を見つめながら話し始めた。


「いつも一人で弁当食べてて、体育のときも最後に余ったペア。話しかければ普通に喋るんですけど、空気が読めないって言われてて、だんだん距離を置かれていって」


 あの教室の匂いが、喉の奥によみがえる。


「最初は、俺も普通に接してたんです。席が近かったから、ノートの貸し借りとかもしてて。でも、ある日そいつの悪口がクラスのグループLINEに流れ始めて……俺も、何も言えなかった」


 スマホの画面に流れるスタンプと嘲笑の文。


『あいつマジ無理』

『空気読めなさすぎ』

『クラスから消えてほしい人アンケ、やる?』


 今でも、指先にそのスクロール感覚が残っている。


「ある日、誰かが回してきたんです。『心理テスト』って名前のアンケート。リンクを開いたら、『クラスから消してもいいと思う人の特徴を選んでください』っていう質問があった」


 高科が、眉をひそめる。


「項目は、曖昧にぼかされてた。『人の話を聞かない』『空気を読まない』『清潔感がない』とか。名前はどこにも書いてなかった。でも、誰のことを言ってるのかは、全員分かってた」


 凛は、自分の拳を握り締めた。


「俺は……クリックした」


 「送信」のボタンをタップする瞬間の、あの軽さ。


「『どうせネタだし』『直接名前を書いてるわけじゃないし』って、自分に言い訳して。何個かチェックして、『送信』して、何事もなかったみたいな顔して授業を受けた」


 テーブルの上の視線が、凛に集まる。


 責めているわけじゃない。ただ、見ている。


「後で分かったんですけど、そのアンケート結果がスクショにされて、匿名掲示板に上がってたんです。『クラスで嫌われてるやつの特徴一覧』みたいなスレタイトルで。そいつのことも、ほぼ特定できる形で晒されてた」


 あの日の、彼の背中を思い出す。


 いつもよりさらに小さく見えた肩。教室のドアを出ていくとき、誰とも目を合わせなかった顔。


「あいつは、転校しました」


 声が震えないようにするだけで精一杯だった。


「俺は、その前の日まで、隣の席に座ってました。教室の中で、一番近くにいた。なのに、最後まで、何も言えなかった。『やめろよ』の一言すら、言えなかった」


 御子柴が、ゆっくりと頷いた。


「……俺は、そのとき、心の中でこう思ってたんです」


 凛は、自分の胸を押さえた。


「『俺がターゲットじゃなくて良かった』って」


 その言葉を口にした瞬間、自分の中の何かがぽきっと折れた気がした。


「それが、たぶん俺のいちばんの罪です。誰か一人を“消してもいい”って心のどこかで選んで、自分は安全な場所に座った」


 しばらく沈黙が続いた。


 その沈黙を破ったのは、看護師の女性の、小さな溜め息だった。


「……十分、重いですよ。それ」


「え?」


「自分で『大したことない』なんて言わない方がいいです」


 彼女は、少しだけ笑った。


「ここにいる全員、同じ種類の罪を持ってる。誰かを選んで、誰かを切り捨てて、自分だけ安全な場所にいようとした。それが極端になった人だけ、ここに集められたんだと思う」


「そうですね」


 東雲も頷く。


「黒川くんがクリックした『心理テスト』も、きっとどこかでこのシステムに吸い上げられている。『誰を消してもいいと思ったか』『どんなタイプを排除したいと思ったか』。その一つ一つが、ここでの“名前”を形作っている」


 凛は、自分の指を見つめた。


 スマホの画面をタップした指。


 誰かの名前を、心の中で呼んでしまった指。


 その指が今、ガス室の排気口に向かって伸びたがっているのだと思うと、鳥肌が立った。


     ◇


 告白は、それだけでは終わらなかった。


 管理職の男は、部下のミスを自分の判断で「切り捨てた」話をした。社内の責任を一人に押しつけて、誰より先に逃げたこと。


 看護師は、忙しさにかまけてある患者の訴えを聞き流し、その人が翌日急変した日のことを話した。自分の不注意と、病院というシステムの限界と、その境界線が分からなくなったこと。


 インフルエンサーの女性は、炎上したときに自分を守るために平気でファンを切り捨てたことを告白した。アンチをあおり、数字のために誰かのメンタルを踏みにじった投稿。


 誰もが、自分の「一番醜い部分」をテーブルの上に並べた。


 部屋の空気は、重力が何倍にも増したように沈んでいく。


 それでも、誰かが話すたびに、わずかに何かが軽くなっている気もした。


 罪の告白は、懺悔であると同時に、「自分で自分を裁こうとする行為」でもある。


 それがどれほど意味を持つのかは分からない。


 けれど、黙ったままノイズに心を覗かせ続けるよりは、まだマシだと全員が感じていた。


     ◇


「……で、結局どうする」


 長い沈黙のあと、佐久間が言った。


「『一番罪深い奴から名乗り出る』って案は、採用すんのか、しないのか」


「制度化はしない方がいいと思います」


 東雲が、即座に答えた。


「ランキングをつけて、『お前の方が悪い』『お前の罪の方が重い』と言い合うことになる。それは、この実験の思うつぼです」


「じゃあ、どうする」


「それでも、もし自分で『覚悟を決めたい』と思う人がいるなら、その人が自分の判断でやるしかないでしょう」


 彼女は、高科の方を見た。


 高科は、ずっと黙ってテーブルの隅で自分の指をいじっていた。


 視線が集まると、彼はゆっくりと顔を上げる。


「……やるなら、俺かなって思ってます」


 凛の胸が跳ねた。


「高科……」


「俺は、ここに来てからずっと『観測者』でいようとしてた。解析班、とか格好つけてさ。みんなの声を分析して、波形を見て、『これはこういう仕組みだ』って言ってれば、どこか安全だと思ってた」


 高科の笑いは、ひどく乾いていた。


「でも、本当はいちばん卑怯だ。自分は直接誰も選んでない顔をして、裏で『嫌悪ポイント』のグラフを見てる。ノイズと同じことを、人間がやってるだけだ」


 その自己認識は、痛いほど的確だった。


「だから……」


 彼は、拳を握る。


「今夜、自分の名前だけを頭の中で繰り返します。『次は俺だ』『俺でいい』って。録音もして、ノイズにぶつけてみる」


「録音?」


 凛が聞き返すと、高科は頷いた。


「この棟の端末、まだ音声解析ソフトが生きてるんですよね。なら、俺の声を録って、ノイズとミックスできるはずです。排気口の下で再生してやれば、少なくともノイズの『入力』には影響を与えられる」


「そんなことをして、もしお前以外の名前が呼ばれたらどうする」


 三条が問いかける。


「その可能性は、十分あるわ」


「そのときは、そのときです」


 高科は、まっすぐ彼女を見返した。


「俺の自己満足で誰かが死んだら、それこそ最悪ですけど……今のままでも、誰かは死ぬ。だったらせめて、『俺は逃げなかった』って言える夜が一度くらいあってもいい」


「……」


 誰も、すぐには何も言えなかった。


 凛は、胸の奥がズキズキと痛むのを感じていた。


 高科の言っていることは、一種の自己犠牲だ。だが、その裏には「自分の罪を自分で決着させたい」という強い欲望が透けて見えていた。


 それは、凛自身の中にある願望とも似ていた。


 誰かに選ばれるくらいなら、自分で自分を選びたい。


 誰かを指差した指の罰を、自分で受けたい。


 そう思う自分を、どう扱えばいいのか分からなかった。


     ◇


 夜。


 非常灯の赤い光の下、八つのベッドのうち一つだけに、人の気配がなかった。


 とはいえ、誰も勝手にガス処理室に行ったわけではない。


 高科颯太は、排気口の真下の共有スペースに座っていた。


 端末とマイクを前に置き、何度も録音と再生を繰り返している。


 凛と東雲は、少し離れた場所からそれを見守っていた。御子柴も、壁にもたれかかったまま起きている。


「じゃあ、行きます」


 高科は、マイクに向かって息を吸った。


「たかしなそうたです。俺が、次に死にます。俺を、選べ。ターゲットは、俺だ。俺でいい」


 単調な文を、何度も何度も言い換えて録音する。


 自分の名前を、ひたすら口にする作業は、見ているだけで胃がひっくり返りそうだった。


「もう一パターン」


 彼は、声色を少し変えて続ける。


「次は高科颯太。たかしなそうた。たかしなそうた。ターゲット一、たかしなそうた」


 録音を終えると、波形をざっと確認し、ノイズのサンプルとミックスする。


 端末の画面には、ノイズの帯と高科の声の帯が重なって表示されていた。


「これをスピーカーで流す」


 彼は、簡易スピーカーを排気口の下に置いた。


「ノイズに乗せるんじゃなくて、ノイズと重ねる。システム側が『これもノイズの一部』だと認識してくれれば……」


「そんな都合よくいくと思う?」


 三条の冷静なツッコミにも、高科は肩をすくめただけだった。


「思わないです。でも、やらなきゃ何も分からない」


 スイッチが押される。


 スピーカーから、あのザザザというノイズが再生される。そこに、高科の声が重なる。


「たかしなそうた……ターゲット一、俺だ……俺を殺せ……」


 自分で自分に向かって「殺せ」と言い続ける声は、聞いているだけで頭がおかしくなりそうだった。


 ノイズと声が干渉し合い、奇妙なハウリングが起きる。


 耳障りな高音が、部屋の中にキィンと響いた。


「やめた方がいいんじゃないか」


 御子柴が、顔をしかめる。


「脳がやられるぞ」


「もう、だいぶやられてるんで」


 高科は、自嘲気味に笑った。


 凛は、ベッドの端に座って耳を塞いだ。指の隙間から、それでも声が漏れ聞こえてくる。


 たかしなそうた。たかしなそうた。俺だ。俺を選べ。


 意識の遠いところで、凛の中の何かがざらざらと揺れる。


(こんなこと……意味ない。意味ないはずだ)


 頭ではそう思うのに、心のどこかで、「これで終わるなら、それでいい」と願っている自分もいた。


 高科が死ねば、自分は助かるかもしれない。


 その最低な考えが頭をよぎった瞬間、凛は自分の頬を平手で叩いた。


「黒川?」


「大丈夫です」


 声がうまく出ない。


 東雲は、その様子をじっと見つめていた。


「ノイズの上に、彼の声が乗っている」


 遥の言葉どおり、排気口の奥から聞こえる本物のノイズと、スピーカーから流れる偽物のノイズが混ざり合って、部屋全体がざわめいているようだった。


 どれくらい時間が経ったのか分からない。


 やがて、スピーカーから流れる音が止まり、代わりに天井の排気口からのノイズだけが残った。


 それは変わらず、一定のリズムで鳴り続けている。


 高科は、スピーカーの電源を切り、床に座り込んだ。


「……疲れた」


「当たり前だ」


 御子柴が、ため息をつく。


「寝ろ。どうせ起きててもロクなこと考えない」


「そうですね」


 高科は、笑いとも涙ともつかない声を漏らした。


「じゃあ、先に寝ます。……起きたら、笑ってやってください。『無駄だったな』って」


 彼は、自分のベッドに向かった。


 凛は、布団をかぶりながら天井を見上げる。


 ノイズは、いつになく深く、重く聞こえた。


 誰かの名前を探している音。


 誰かの罪を計算している音。


 そのどこかに、自分の名前も混ざっている。


(次は、誰だ)


 その問いを自分に向けた瞬間、「俺だ」と答える声と、「違う誰かだ」と願う声が、同時に胸の中でぶつかり合った。


 眠気は、すぐにやってきた。


 睡眠導入ガスのせいなのか、疲労のせいなのか分からない。瞼が重くなり、意識がゆっくりと落ちていく。


 その境目で、凛は確かに聞いた。


 ノイズの奥で、何かが軋む音を。


 そして──


「……しん」


 囁き声が、耳の奥に直接落ちてきた。


 シン。


 しん。


 目を閉じたまま、その音を反芻する。


 しん。


 「颯太」の「そうた」ではない。


 高科がいくら自分の名前を繰り返しても、ノイズの向こう側で選ばれたのは、別の音だった。


 その事実を理解した瞬間、凛の意識は、暗闇に沈んでいった。


     ◇


 朝。


 凛は、何か嫌な夢を見た気がして、胸の奥に残るざらつきで目を覚ました。


 寝返りを打ち、天井を見上げる。


 ノイズは、いつものように小さく鳴っている。


 起き上がると、隣のベッドで高科が目をこすっていた。


「あ……生きてる」


 思わず漏れた凛の言葉に、高科が苦笑した。


「そう簡単には死なないみたいですね、俺」


「……良かった」


 本心だった。


 安堵と同時に、胸の奥がさらに重くなる意味も、同じくらいはっきり分かった。


 誰かは、生きていた。


 なら、誰かが死んでいる。


 ガス処理室前に集まる足音は、昨日よりも遅かった。


 誰も「今度こそ止まっているかもしれない」という希望を口にできなかった。


 御子柴が、いつものように点呼を取る。


 黒川凛。

 高科颯太。

 東雲遥。

 佐久間晶。

 看護師。

 インフルエンサー。

 管理職。


 そこで、声が途切れた。


 誰も、「御子柴慎」と呼んでくれない。


 全員の視線が、自然と同じ方向を向いた。


 ガス処理室。


 ランプは、赤から青へと変わっていた。


 ロックが外れる音。鋼鉄の扉が、重くスライドしていく。


 冷たい空気が、足元をなでた。


 凛は、息を止めた。


 そこに、倒れていたのは──


「……御子柴さん」


 看護師のかすれた声が、部屋に落ちた。


 実験用の床の中央。


 志村と、北条と、百瀬と、牧野と、藤咲が倒れていたのと同じ場所に、御子柴慎が横たわっていた。


 いつものように少し猫背気味の姿勢ではなく、背筋を伸ばして仰向けに。


 眼鏡は外れて床の端に転がり、目は半開きのまま天井を見上げている。喉元には青い痕。口元には、うっすらと泡。


「……嘘だろ」


 高科が、膝から崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。


「だって、昨日……俺が……」


 彼の実験は、何の意味も持たなかった。


 自分の名前をいくら繰り返しても、ノイズはそれを「入力」として処理しなかった。


 代わりにシステムが選んだのは、「しん」という音。


 しん。


 御子柴慎。


「グループ全体の……」


 東雲が、小さく呟いた。


「グループ全体の『憎しみの配分』を計算したのね」


 昨夜の告白。


 教師として、いじめを止めきれなかったこと。問題児を切り捨てた過去。教え子のサンプルデータ。


 あの話を聞いたあと、誰もが心のどこかで御子柴を「重い」と感じていた。


 尊敬と、頼もしさと、その裏返しとしての恐怖。


 「こうはなりたくない」という感情も含めて、彼に向けられた感情の総量は、この数日で一気に跳ね上がっていたのだろう。


 高科が自分に向けた「俺でいい」という願いよりも。


 ノイズは、個人の自己犠牲ではなく、集団全体の矢印を優先した。


「自己犠牲は、計算に入ってない」


 佐久間が、乾いた声で言った。


「『こいつは自分から死にたがってるから減点』とか、そういう補正すらしてるかもな。生き延びたいくせに、人を切り捨てたやつの方が、よっぽど“観察しがいがある”」


 その言葉は、あまりにも残酷だった。


 だが、凛は否定できなかった。


 自分の名前を、自分で選ぶことはできない。


 自分で自分を裁こうとしても、この実験システムはそれを受け取らない。


 代わりに、周囲の目線と、無意識の嫌悪と、積もり積もった罪悪感だけを冷徹に計算して、「最もふさわしい犠牲」を選び出す。


 御子柴慎は、その結果として殺された。


 次の「データ」として。


 凛は、御子柴の顔を見た。


 厳しい眉。生徒を叱るときの鋭さと、ふとした瞬間に見せる優しい目。


 そのすべてが、今はただの表情として固まっている。


 胃の奥から込み上げてくるものを、必死に飲み込む。


(俺の指も、御子柴さんを指差してたのかもしれない)


 あの告白を聞いて、「そんなの先生のせいだけじゃない」と言いながら、どこかで「それでも、お前は大人だろ」と責めていた。自分が見て見ぬふりをしたいじめの話と重ねて、「あんたも同じだ」と決めつけていた。


 その醜さが、今、目の前の死体として横たわっている。


「……ごめん、御子柴さん」


 声に出すことはできなかった。


 名前を呼ぶことが、これほど怖い世界で、謝罪の一言すら喉を通ってくれなかった。


 天井の排気口からは、今日もノイズだけが流れている。


 今夜も、また誰かの名前を探すために。

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