第四話 二系統のガス
百瀬蓮が死んだ朝から、実験棟の空気は決定的に変わった。
誰もが知っている。次は自分かもしれないということを。
名前を呼んでいるのが自分たちの声だと分かってからは、なおさらたちが悪かった。会話のたびに、誰かの名前を口にするだけで、場の空気がぴりつく。
「……さっき、『お前』って言ったよな」
「名前で呼ぶなって顔したから、ぼかしただけだろ」
「いや、でも、その、『お前』って言い方がさ……」
どうでもいいニュアンスにまでケンカ腰で食ってかかる者が出始める。昨日までの軽口が、今はすべて「殺意の伏線」に見えてしまうのだ。
誰かが誰かを、意図的に「思い浮かべている」のか。
それとも本当に、誰も望んではいないのに、無意識だけが勝手に標的を選んでいるのか。
答えは出ない。その不確かさが、全員の精神をじわじわと削っていった。
共有スペースのテーブルを挟んだ向かい側で、北条司が小さく膝を抱えている。まだ高校二年の少年は、二十代三十代の大人たちに囲まれ、自分が明らかに浮いていることを痛感している様子だった。
「俺、ほんとに何もしてないのに……」
ぽつりと漏らしたその言葉に、すぐ横の管理職らしき男が、苛立ちを隠さず鼻を鳴らした。
「全員そう言うんだよ。警察の取り調べでもな」
「やめましょうって言ってるでしょう」
東雲遥が鋭く制した。
「今は誰かを責めることが、一番この『装置』の思うつぼです。互いの負の感情を煽れば煽るほど、ノイズははっきりしていく」
その言葉に、凛は思わず排気口を見上げた。
天井の角に取り付けられた銀色の格子。その向こうから、昼間もかすかな空調音が聞こえてくる。昨夜よりは弱いが、それでも耳にまとわりつくような不快感があった。
あの向こう側で、誰かが見ている。
どんな顔で、どんな表情で、自分たちの反応を眺めているのか。
想像するだけで、胃の中が逆流しそうになった。
「……ガス室を、もう一度洗う」
低く呟いたのは志村だった。
元刑事の男は、これまで以上に険しい顔をしていた。ひげの剃り跡は濃くなり、目の下には疲労の影が差している。それでも、立ち上がる動きには迷いがなかった。
「百瀬の遺体は、さっき別室に移しておいた。今なら誰もいない。今度は『警察官』じゃなく、『技術屋』として見る」
「技術屋?」
「退職してからやってた仕事だ。セキュリティコンサルってやつをな。企業の建物やシステムを調べて、脆弱性や不正アクセスのルートを洗い出す」
志村は、わずかに口角を上げた。
「人を閉じ込める仕組みを見抜くのは、得意分野だ」
その一言に、凛の胸の中に小さな期待が灯る。誰かが、この状況に「穴」を見つけてくれるかもしれない。
「俺も行きます」
御子柴慎が、椅子から立ち上がった。
「理科準備室や実験棟の配管くらいなら、教師時代に嫌というほど見てきた。学校と研究施設じゃスケールが違うだろうが、考え方は似てるはずだ」
「なら、助かる。二人で調べよう」
志村と御子柴がガス処理室へ向かう準備を始める。高科は端末のログを確認するため、共有スペースに残った。
凛は迷った末に、志村に声をかける。
「俺も行っていいですか」
「駄目だ」
即答だった。
「好奇心で危険区域に人を増やすのは悪手だ。中の構造が分からん以上、最低限の人数で動くべきだ」
「でも……」
「お前にはお前の役目がある」
志村は、凛の目をまっすぐ見た。
「耳がいいやつが、ここでノイズを聞いていてくれ。変化があれば、すぐに報告しろ。外と中の情報を同期させるのが一番大事だ」
言い返せなかった。凛は唇を噛み、頷く。
「わかった。ここで聞いてます」
「頼んだ」
短い会話のあと、志村と御子柴はガス処理室へ向かった。
◇
厚い鋼鉄の扉を抜けると、内部は思った以上に簡素だった。
コンクリート打ちっぱなしの壁。天井には何本ものパイプが縦横に這い、部屋のど真ん中に排気口がある。床には先ほどまで遺体が横たわっていた痕跡が、まだ生々しく残っていた。
「……臭いもしない。完全に換気されてるな」
志村が、鼻をひくつかせながら呟く。
「毒ガスっていうより、『酸欠』に近い反応だったように見えたが……」
「パイプに注目した方がいいでしょうね」
御子柴は、天井を見上げた。
パイプは二種類の色で塗り分けられていた。一本は薄い緑、もう一本は赤に近いオレンジ色。壁際にはそれぞれのパイプに繋がるバルブがいくつも並び、小さなタグが括りつけられている。
「色分け……」
志村は、脚立代わりになる箱を見つけて、それに乗った。
「このタグ、読めるか?」
御子柴が受け取って、目を凝らす。
「O2……こっちはNI。いや、『NI』ってなんだ……番号か?」
「O2は酸素だろうな。NIは……ガス名をそのまま書くとは思えん。コードかもしれんが」
一本のパイプのタグには「O2ライン」、もう一本には「Nライン」と印字されていた。さらに小さく、「通常」と「特別」とだけ書かれている。
「通常と、特別」
御子柴は眉をひそめる。
「どう見ても、『普通の空調』と『別の何か』を切り替えるための系統だな」
志村はパイプを辿り、壁際で一箇所だけ塗装が微妙に違う部分に目を留めた。
そこは、コンクリートの上から薄い鉄板が貼られているような造りになっている。軽く叩くと、周囲とは違う、空洞を含んだような音が返ってきた。
「ここだな」
志村はポケットから、細いドライバーのような道具を取り出した。緊急時用として配られていた簡易工具セットの中の一本だ。
ネジ穴を探し、慎重に鉄板をこじ開けていく。やがて、「パキッ」と鈍い音を立ててパネルが外れた。
その奥に現れたのは、ぎっしりと詰まった配線と、小さなモニターがついた電子制御装置だった。
「出たな」
志村が小さく息を吐く。
モニターには、無機質なフォントで簡単な情報が表示されていた。
O2ライン:稼働
Nライン:待機
睡眠補助:微量
ターゲット:1
「……ターゲット?」
御子柴が読み上げる。
「1って……何の数字だ」
「さあな」
志村は操作パネルのボタンに手を伸ばし、「表示切替」を押した。画面が切り替わり、簡易なグラフとともに説明らしき英数字が並ぶ。
「O2ラインは酸素濃度の調整用。ここまでは分かりやすい。問題はNラインだ」
志村は、画面の一部を指さした。
「『Nライン:特殊ガス、致死濃度調整可能』……って、書いてあるな。要するに、こっちが“毒”だ」
御子柴の顔色がさらに悪くなる。
「つまり、この部屋には少なくとも二系統のガスがある。一つは空気を入れ替えるための通常運転用。もう一つは、スイッチひとつで致死濃度まで上げられる毒ガス用」
「で、『ターゲット:1』ってのは……」
二人の視線が、同時に「ターゲット」の項目に向かった。
その隣には、小さなバーグラフが表示されている。0から13までの目盛りのうち、「1」の位置だけが赤くハイライトされていた。
「一回に殺す人数、ってことかもしれん」
志村の声が、低く落ちる。
「ターゲットを1にセットして、Nラインの出力を上げる。そうすれば、この部屋にいる人間のうち、条件に合致した一人だけが致死濃度に達するように調整される」
「条件……?」
「例えば、体格や呼吸パターン、心拍数。あるいは、この棟全体から収集した『評価』だ」
志村は、嫌そうに口の端を歪めた。
「ノイズの装置と連動しているんだろう。排気口で『名前』を選び、この制御装置に『誰を殺すか』をパケットで送る」
「ノイズが、ターゲットを決めてる……」
御子柴の喉が鳴る。
「高科くんや東雲さんの仮説、そのまんまだな」
「まさか、本当にここまで露骨なシステムだとは思わなかったがな」
志村は、画面の「睡眠補助」の項目にも目を留めた。
「睡眠補助:微量。これは何だ」
「睡眠導入ガスかもしれませんね」
御子柴が言う。
「夜になると妙に眠くなるの、全員感じてましたよね。俺も、普段なら徹夜くらい平気なのに、ここでは二時を過ぎたあたりからまぶたが重くて仕方なかった」
「『寝ている間の脳波』を利用して、感情を増幅させる……って線か」
志村は眉間に皺を刻む。
「高科が言ってた『集団の無意識』ってやつと、この睡眠補助が繋がっている可能性は高いな」
「だとしたら、逆手に取れるかもしれません」
御子柴は、壁にもたれかかりながら言った。
「睡眠導入ガスの影響が強いときに、無意識があぶり出される。なら、その時間帯に『意識を保ち続ける』ことができれば、ノイズに感情を吸われずに済むかもしれない」
「徹夜、か」
「ええ。あえて夜通し起きてみる。少なくとも、試してみる価値はあると思います」
志村は黙り込み、モニターの「睡眠補助」の部分をじっと見つめた。
睡眠ガスの濃度を下げるボタンも、画面には確かに存在している。だが、それを押してしまった瞬間、この施設の制御プログラムがどう反応するか分からない。
下手なことをすれば、一気にNラインが全開になっても不思議ではない。
「直接いじるのはリスクが高い。だが、『徹夜で耐える』くらいなら、俺たちにもできるな」
志村は小さく息を吐いた。
「分かった。みんなのところに戻ろう。情報を共有して、夜の作戦を立てる」
◇
「二系統のガス」の存在と、「ターゲット:1」の文字は、皆の顔をさらに青ざめさせた。
「ターゲットって……そんな、ゲームの設定みたいに」
司が震える声で呟く。
「殺す人数を数字で指定してるってこと?」
「仮説だ」
志村は、あえて言い切らなかった。
「だが、今のところ『一晩に一人』という結果と矛盾はしない」
「睡眠導入ガスも流されている可能性があります」
東雲が続ける。
「夜になると、私たちの脳波が変化し、無意識下の感情が増幅されるように設計されている。眠りに落ちる直前や、浅い眠りの最中は特に、感情がむき出しになりやすい。カウンセリングの現場でも、それはよく観察される現象です」
「だから、あのノイズは夜になると大きくなるのか」
凛は口の中でつぶやいた。
「俺たちが『眠りかけている』状態を、狙い撃ちにしてくる」
「そこで、提案です」
東雲は一同を見渡した。
「今夜、あえて『徹夜で起きてみる』のはどうでしょう。睡眠導入ガスの効果を完全には避けられないとしても、意識レベルを落とさないように努力することで、無意識がノイズに引きずり出されるのを防げるかもしれません」
「徹夜、ねえ……」
誰かが疲れたように笑う。
「簡単に言うけど、俺らもう限界に近いんだぞ」
「だからこそ、です」
遥の目は真剣だった。
「何もしないで『次は誰だろう』と怯えているだけでは、いずれ順番が回ってきます。だったら一度くらい、ルールそのものに逆らってみるべきです。ここが『人間の反応を見る実験場』なら、予想を裏切る行動は、観察者にとって最も嫌な展開になるはずです」
「反抗期の生徒に、急にシンパシーを感じる日が来るとはな」
御子柴が、苦笑混じりに肩をすくめた。
「分かった。俺も乗る。どうせ、じっと寝転がっているだけでも悪夢しか見られないんだ。起きて悪夢を見る方が、まだマシだ」
「見張りをつけるべきだな」
志村が言う。
「俺と御子柴で交代で見張ろう。万が一誰かが意識を失っても、揺さぶって起こす。限界まで」
「元刑事と元教師のダブルタッグか。心強いわね」
遥がわずかに微笑んだ。
その笑みは頼もしくもあったが、一方で、どこか悲壮でもあった。
◇
夜。
照明が落ち、非常灯だけが赤く光る時間がやってきた。
「眠ったら、負けだ」
御子柴は、あえて大げさな声で宣言した。
「いいか、お前ら。ここは期末試験前の徹夜合宿だ。寝たやつは容赦なくマーカーで顔に落書きするぞ」
「状況のわりに例えが平和ですね」
凛が苦笑すると、何人かが小さく笑った。その笑いはすぐに消えたが、一瞬だけ空気が軽くなったのも確かだ。
「まずは、体を動かそう」
志村が提案する。
「軽くストレッチして、深呼吸を繰り返す。酸素をしっかり取り込めば、少しは眠気もマシになる」
皆で肩や首を回し、腕を伸ばす。こんな状況でも、体を動かせば少しだけ血の巡りが良くなるのが分かった。
それでも、天井から流れてくるノイズは容赦なく耳を侵食してきた。
ゴォォ……ザザザ……。
まるで「諦めろ」と囁きかけてくるような音だ。
「数字でも数えるか」
御子柴は、床に座り込んだ姿勢のまま、指折り数字を唱え始めた。
「一、二、三……。なあ、司。九九全部言えるか?」
「え、えっと……二の段からでいいですか」
「いいぞ。はい、二一が?」
「二、です」
「声、でかく!」
「二一が二、二二が四、二三が六……!」
夜中の教室のようなやり取りに、凛は思わず吹き出しそうになった。馬鹿みたいな光景だが、それでいい。真面目に恐怖と向き合えば向き合うほど、心が持たない。
高科は端末の前に座り、ノイズの波形をリアルタイムで確認していた。
「さっきより、ノイズの振幅が少し大きくなってる」
「もう睡眠導入ガスが濃くなり始めてるってことか」
「たぶん。心拍数も、さっきより速くなってるはずです。怖さと眠気、両方で」
凛も、ささやかな抵抗として、わざとどうでもいい話題を振った。
「そういえばさ……みんな、外にいたとき、夜通し起きて何してた?」
「ネットゲーム」
すぐに返してきたのは高科だ。
「徹夜でレイド。画面見すぎて目が死んだ」
「私は、レッスン」
蓮がいたら、そう言っただろう。思わず浮かんだイメージを、凛は慌てて振り払った。
駄目だ。もう死んだ人のことを、こんなふうに軽々しく思い出したくない。
「お前は?」
御子柴が尋ねてきた。
「俺? 俺は……」
凛は少し迷ってから、正直に言った。
「受験勉強って建前で、ずっと動画見てました。勉強してるふりして、スマホの画面ばっか見てて」
「あるあるだな」
志村が小さく笑った。
「俺は当直明けに、そのまま捜査で徹夜ってパターンが多かった。頭が回らなくなってくると、自分の判断が信用できなくなる。そういうときに限って、大事な決断を迫られるんだ」
くつくつと苦い笑いが漏れた。
しばらくのあいだ、誰もがそれぞれのやり方で睡魔と戦った。
指をつねる者。頬を叩く者。目薬をさすふりをして、実際は何も入っていない空気だけを目に吹きかける者。
だが、時間が経つにつれて、徐々に会話が途切れがちになっていく。
ノイズが、ささやきを増している。
耳元で、誰かの笑い声や嗚咽が混ざって聞こえるような錯覚。一瞬、隣の人間が何か話したのかと思って顔を向けても、誰も口を開いていない。
「……おい」
志村が声をかけた。
「寝るなよ」
「寝てない……っす」
司が、半分閉じた目で返事をする。
「完全に寝る前に、頭がぼんやりするゾーンが一番危ない。そっから先は、一気に持っていかれる」
そう言いながらも、志村自身のまぶたが重くなり始めていた。
呼吸が浅くなる。頭の奥がズキズキと痛み、視界の端が暗く滲む。
(まだだ)
自分に言い聞かせるように、志村は立ち上がった。立つことで眠気を追い払おうとする。
「御子柴、交代だ。少し歩いてくる」
「おう。任せろ」
御子柴は、テーブルに突っ伏しかけていた身体を起こし、大げさに伸びをした。
「ほら、お前ら、立て。今から『夜の廊下見回り』タイムだ。肝試しつき」
「いらないです、そういうの」
凛のツッコミも、どこか間延びしている。
立ち上がった瞬間、足元がふらついた。頭が重い。意識の端で、「これ、もうガス効いてるだろ」と冷静に認識している自分もいた。
睡眠導入ガスは、彼らの意思など関係なく、静かに濃度を上げていく。
深呼吸をするたびに、それを肺いっぱい吸い込んでしまうという矛盾。
「……ダメだな、こりゃ」
御子柴が苦笑した。
「眠気の質が違う。夜更かししてるときのだるさじゃない。頭の芯から、スイッチを切られていく感じだ」
高科も、端末の画面を見つめながら呟いた。
「ノイズの振幅、さっきよりさらに上がってる。俺たちの脳波が変化してるのと、完全に同期してるような……」
「言語化は、そこまででいい」
遥が遮る。
「今は、分析より生存を優先しましょう」
それでも、耐えられる時間には限界があった。
誰からともなく、瞼が閉じていく。
司が、椅子にもたれかかるようにして眠りに落ちた。看護師の女性が、手を組んだまま動かなくなる。管理職の男が、うつ伏せの姿勢でテーブルに顔を埋めた。
「おい、起きろ。おい」
御子柴は、何度も肩を揺さぶる。最初は反応が返ってきたが、やがて揺すっても目を開けない者が増えていった。
「……全員は無理か」
彼は唇を噛んだ。
「あんたは?」
凛が志村を見る。
元刑事は、壁にもたれかかった姿勢でじっと目を閉じていた。呼吸はまだ安定しているが、まぶたは重く固く閉ざされている。
「……起きてるさ」
志村は、かすかな声で返事をした。
「少なくとも、『起きていよう』と頑張ってはいる」
「それはもう半分寝てる人のセリフです」
遥が言った。
自分の頭の重さも、もう誤魔化しようがなかった。凛もふらつきながら、どうにか椅子に腰を下ろした瞬間、世界が傾いた気がした。
(ダメだ、寝ちゃ……)
意識の中で言葉が途切れる。ノイズが、急に近くなった。
耳元で、誰かが囁いている。
誰の声か分からない。全員の声が混ざったような、歪んだハーモニー。
それが、ゆっくりと、一つの名前を形作る。
「……なおや」
その言葉が、はっきりと頭の中に響いた瞬間、凛の意識は深い水の底に沈んでいった。
◇
朝。
誰かに肩を揺さぶられて、凛は目を覚ました。
「黒川、起きろ。朝だ」
御子柴の顔が、すぐ目の前にあった。目の下に隈を作りながらも、どうにか意識を繋ぎ止めている。
「……寝た、のか、俺」
「全員だ。見事に」
御子柴は苦笑した。
「俺も二時過ぎまでは覚えてたんだが、その先が完全に飛んでる。気づいたら、ベッドの上だった」
「ベッド?」
凛は周りを見た。
全員が、それぞれのベッドの上に寝かされていた。昨夜、共有スペースで耐えていたはずなのに、誰もそのことを覚えていない。
「自分で戻った覚えもない。誰かに運ばれた痕跡もない。全員、服も乱れてないしな」
御子柴の声は、乾いた冗談のようだった。
「つまり、『ちゃんと寝かされた』ってことだ。親切な看守さんだよ、まったく」
凛は、自分の頭の中に残っている最後の記憶を必死に辿った。
ノイズ。名前。なおや、という響き。
その瞬間、背筋に氷柱を突き立てられたような感覚が走る。
「志村さんは?」
喉からひねり出した声は、ひどく掠れていた。
答えは、ガス処理室が教えてくれた。
ランプが、赤から青に変わる。
ロックが外れる音。
重い扉が開かれた先に──
「……っ」
凛は、一歩中に踏み込んだ瞬間、足を止めた。
床の中央に、志村直哉が倒れていた。
いつものように背筋を伸ばして立っていた男は、今は仰向けに横たわり、天井を見上げたまま、二度と瞬きをしない。首元には青いあざが浮かび、口元にはうっすらと泡が残っていた。
「なおや、って……」
御子柴が、ひび割れた声で呟く。
「志村直哉、だからかよ……そんな、そんな単純な……」
凛の耳には、あの囁きが蘇っていた。
なおや。
昨夜、ノイズが選んだ名前。
徹夜を試みた、唯一の元刑事。
ルールに逆らおうとした男が、最初に消された。
「抵抗すれば、狙われる……?」
司が、顔面を真っ青にして呟いた。
その言葉は、あっという間に皆の間に広がっていった。
抵抗したから、殺された。
徹夜を試みたから、ターゲットにされた。
そうとしか思えないタイミングだった。
志村の死は、一筋の希望すら「無駄なあがき」として踏みにじった。
誰もが、もう言葉を失っていた。
ガス処理室の天井の排気口からは、今日も変わらずノイズが流れている。
その音は、昨夜よりさらに深く、濃くなっているように聞こえた。
まるで、「抵抗なんて、無意味だ」と、嘲笑うように。




