第2話 十三人の罪
藤咲ひかりの遺体は、ガス処理室の床の真ん中に倒れていた。
口元には白い泡と、うっすらと紫色の変色。首を両手で抑えたまま固まった指先が、最後の数秒にどれだけ苦しんだかを物語っている。
誰も近づけなかった。足を一歩踏み出すたびに、そこから先は取り返しのつかない領域に足を踏み入れる気がして、靴裏が床に貼り付くようだった。
「……事故、なのか?」
誰かが、自分に言い聞かせるように呟いた。
「そんなわけないだろ」
低く割って入った声は、御子柴慎のものだった。スーツのジャケットは皺だらけで、ネクタイは緩められている。三十代前半くらい。整った顔立ちだが、目の奥にずっと消えない影があった。
「ここまで設備を整えた施設が、『うっかり』誰か一人を窒息させるか? あり得ない。これは……選別だよ」
「選別?」
その言葉に、空気がぴんと張りつめた。
御子柴は、ひかりの遺体から視線をそらし、どこか遠くを見るように目を細める。
「必要な者と、不要な者。そうやって『ふるいにかける』やり方を、俺は嫌というほど見てきた」
言いながら、自分のこめかみを指で押さえた。まるで、そこにべったりと貼り付いた過去の記憶を、無理やり抑え込もうとするみたいに。
「生徒を、成績だの素行だのでランク分けして……『下』のやつをあからさまに切り捨てたこともある。あれも、一種の選別だった。あのときの俺と、ここで俺たちを並べている“誰か”は、そんなに違わないのかもしれない」
自嘲ぎみに笑ったような顔だったが、その目は笑っていなかった。
沈黙。誰も、軽々しく反論できなかった。
その隣で、元刑事の志村はガス処理室の扉と周囲の壁を細かく見て回っていた。膝をつき、指先で溝やネジ穴の感触を確かめる。その仕草は、職業病のように無意識で正確だ。
「中には……」
誰かがおそるおそる聞くと、志村は短くうなずいた。
「内部から開けられるハンドルはない。こっち側から閉じ込められたら、ガスが止まるまで耐えるしかない構造だな」
「じゃあ、ひかりさんは自分から入ったんじゃなく、外から閉じ込められたってことですか?」
問いかけたのは、高科颯太だった。大学生らしいパーカー姿で、いかにも情報系のオタクといった雰囲気をしている。眼鏡の奥の目は赤く、昨夜まともに眠れていないのがわかった。
「ああ。少なくとも、『誤操作で自動的に閉じた』ってレベルの話じゃない」
志村は扉の縁に刻まれた細い擦り傷を指さした。
「ここを見ろ。扉が閉まるときに、何度も同じ角度で鋼板がぶつかった跡だ。システムとして、ここを密閉する動作が何度も繰り返されている。つまり、この部屋は『閉じてガスを流す』ために設計されていて、少なくとも一度きりの事故なんかじゃない」
背筋に冷たいものが走る。ここは、人を助けるための施設ではない。意図的に人を閉じ込め、何かを流し込むための箱だ。
「ガスの系統も、内部には制御パネルが一つもない。制御は、全部外だ」
志村は天井のパイプを睨む。
「誰かが、ここを見下ろすどこかで操作している。人間なのか、プログラムなのかは知らんが……『人間を一人ずつ殺せるスイッチ』を握ってる奴がいる」
喉の奥が渇いた。凛は、唾を飲み込む音すら大げさに響く気がした。
──なら、昨夜のあの声は何だったんだ。
頭の中で言葉が浮かび上がるが、凛はすぐに飲み込んだ。確証がない。だが、黙っているにはあまりにも胸に引っかかっている。
「あの、ちょっといいですか」
ためらいながら、凛は手を挙げた。
「……昨夜、排気口から変なノイズが聞こえました。ザザザっていう、砂嵐みたいな音で。その中に、一瞬だけ……『ひかり』って、誰かの声が混じったんです」
全員の視線が一斉に凛へ向かった。喉が縮むような感覚に、思わず肩がすくむ。
「声?」
「それって、ガスが出る合図ってことか……?」
「いや、合図っていうより……」
凛は記憶を手探りするように、言葉を探した。
「人間の声だったと思います。機械音声じゃなくて……誰かが、名前を呼んでた」
沈黙が落ちる。誰も冗談だと笑わない。笑えない。
「録音は?」
きっぱりとした声がした。高科颯太だ。彼は眉間に皺を寄せ、悔しそうに唇を噛んでいる。
「その声、録音してないんですか?」
「してない。あのときは、まさかこんなことになるなんて……」
「くそ……!」
高科は床を蹴った。乾いた音がコンクリートに響く。
「音の正体さえわかれば、何か手がかりになったかもしれないのに……。スペクトラムを分析すれば合成か生声かくらいは判別できるし、周波数の揺れや残響から、どの位置から流されてるかも多少は推測できる。なのに……」
そこまで言って、高科はふと顔を上げた。
「待てよ。共有スペースのあの端末……」
彼は部屋を飛び出し、隣の共有スペースへ走っていった。数秒遅れて、凛たちもついていく。
共有スペースは、長机とパイプ椅子がいくつか並べられた殺風景な場所だ。その片隅に、小さな卓上端末とマイクが置かれていた。昨日は誰も気にとめなかったもの。
「あれ、記録用の端末ですね」
そう言ったのは、色素の薄い髪を無造作に束ねた青年だった。細身で、フードをかぶっている。情報工学の大学院生を自称した牧野カイだ。
「型は古そうだけど、オーディオインターフェースが生きてるなら、排気口の音くらいは拾えるはず」
「お前、詳しいのか?」
「音声処理が専門です。ノイズの中から音声を抜き出すのは、仕事みたいなもので」
カイは端末を起動し、手際よくメニューを呼び出していく。画面に表示される文字は見慣れないインターフェースだが、彼はほとんど迷う様子もなく操作していた。
「録音ソフト、ありました。マイクの感度も調整できる……。高科さん、これ、今夜から本格的に録りましょう」
「ああ。ノイズの中身を解析できれば、この異常現象のルールに近づけるかもしれない」
高科は頷き、凛の方を見た。
「黒川くん、君は耳がいいみたいだ。昨夜も一番に気づいてた。悪いけど、今夜も様子を見ていてほしい。何か聞こえたらすぐ教えてくれ」
「わかった」
自分の役割ができたことに、ほんの少しだけ恐怖が薄れる。
「じゃあ、俺と牧野で解析班ってことで」
「はい。録音と、簡単な周波数分析まではすぐにできます。高度な解析は、この端末がどこまで許してくれるか次第ですが」
二人は自然と横に並び、仮の「解析班」として動き始めた。
そのとき、共有スペースの中央で、柔らかな声が響いた。
「それと、もう一つ。今のうちにやっておいた方がいいことがあります」
振り向くと、東雲遥が椅子の背にもたれながらこちらを見ていた。落ち着いた雰囲気の女性で、髪は肩で切りそろえられている。年齢は二十代後半くらい。昨日から、感情をあまり表に出さないタイプだと凛は感じていた。
「互いの素性を、ある程度把握しておいた方がいい。ここから先、何が起きるのか分からない以上、『誰と一緒にいるのか』だけでもはっきりさせておくべきだと思います」
「素性って、名前とか?」
「名前と年齢。それと、職業。細かいプライバシーまでは踏み込まない。けれど、『自分がどういう立場の人間だったか』を互いに知っておくことは、きっと後で生きてくるはずです」
遥の声には、妙な説得力があった。その理由は、彼女の職業にあった。
「私は東雲遥、二十九歳。臨床心理士として、カウンセリングルームで働いていました」
ああ、と凛は心の中で納得する。人の心の動きを読む仕事だ。だからこそ、彼女の視線はいつもどこか冷静で、相手の表情の変化に敏感なのだろう。
「だから……少しだけ、皆さんの表情や話し方から、嘘とか、本当とか、抑え込んだ感情とか、そういうものを感じ取ってしまいます」
遥は正直に打ち明けた。
「でも、それを今ここで暴くつもりはありません。私だって、全部を話すつもりはない。ただ、お互いに『完全な他人』のままでは、この先きっと壊れてしまう。だから最低限の情報だけ、共有しませんか?」
しばしの沈黙の後、志村が「いいだろう」と頷いた。
「じゃあ、俺からでいいか」
彼は立ち上がり、全員を一瞥した。
「志村誠、四十三歳。元刑事だ。三年前に退職して、今はセキュリティコンサルなんて肩書を名乗っている」
「刑事さん、なんですね」
誰かが小さくつぶやく。頼もしさと、同時にどこか警戒するような目だった。
「詳しくは言えんが……職場で、判断を誤ったことがある。そのせいで死人が出た。責任を取らされて辞めた……まあ、そんなところだ」
淡々とした声の中に、悔恨と自嘲が混じる。遥の視線が一瞬鋭くなったが、すぐにやわらいだ。
「次は俺がやるよ」
御子柴が手を挙げた。
「御子柴慎、三十四歳。元高校教師。今は……無職みたいなもんかな。ちょっと前まで、進学校で担任をしていた」
御子柴は苦笑した。
「さっきも言ったけど、俺は『選別』が得意だった。点数の高い順に生徒を並べて、上から順番に希望を叶え、下に行くほど切り捨てる。そういうやり方を『効率がいい』なんて言って、疑いもしなかった」
彼の目に、一瞬だけ重たいものが浮かぶ。
「で、その結果どうなったかは……あまり思い出したくない。俺が切り捨てたやつの中に、取り返しのつかないことをした子がいた。詳しくは……ごめん。今は無理だ」
誰も無理に追及しなかった。代わりに、高科が手を上げる。
「じゃあ次、自分。高科颯太、二十歳。大学で情報工学専攻してます。得意分野はネットワークと暗号。バイトは、スタートアップの会社でセキュリティ周りを手伝ってました」
高科はそこで言葉を区切り、気まずそうに視線を逸らした。
「……まあ、全部が綺麗な仕事だったわけじゃないです。ユーザーの行動データを、ちょっとグレーな売り方したこともあるし。大炎上まではいかなかったけど、一部のサービスではだいぶ嫌われました」
「炎上?」
若い女の子が興味深そうに首を傾げる。
「ええ。『ユーザーを監視してる』とか『個人情報を売ってる』とか、さんざん叩かれまして。俺は『仕様だから』って開き直ってたけど……今思えば、言い訳ですよね」
少し自嘲気味に笑う。
その後も、順番に名乗りが続いた。
大手企業で「内部告発を握りつぶした」ことを匂わせる管理職の男。
フォロワーを伸ばすために過激な炎上商法を繰り返し、「一人の人生を潰したかもしれない」と呟いたインフルエンサー風の女。
「前の職場でちょっとあって」とだけ濁した看護師。
「人間関係が面倒で退職しただけ」と笑いながら、その実何かを隠しているとしか思えない元フリーター。
誰も、罪をはっきりとは言わない。けれどその表情と、言葉の選び方と、飲み込んだ沈黙の重さが、彼ら一人一人の背負ってきた「他人を犠牲にした選択」を濃く浮かび上がらせていた。
遥は目を閉じ、全員の声を記憶に刻み込むように聞いていた。
この場に、「完全な被害者」はいない。
いまのところ、そう断言はできない。だが職業柄、彼女の直感はそう告げていた。
そんな中で、たった一人だけ、場違いなほど幼く見える少年がいた。
「え、えっと……俺の番、ですよね」
おどおどと手を挙げた少年は、まだ制服のブレザーを着ていた。肩幅も狭く、顔立ちにはあどけなさが残っている。
「北条司、高校二年です。バイトもしてないし、特別なことは何も……。本当に、気づいたらここにいて。マジで、何も知らないんです」
司の声は震えていた。
「ツイッターとかでも炎上とかしてないですし、誰かをいじめたりもしてない……と思います。だから、なんで自分がここにいるのか……」
その「俺は悪くない」と言わんばかりの被害者然とした態度は、当然といえば当然だろう。けれど、一部の大人たちの苛立ちを確実に刺激した。
「……本当に、何もやましいことはないのか?」
低く問いかけたのは、先ほどの管理職の男だった。
「え、はい……」
「そういう『自分は安全圏』みたいな顔、一番ムカつくんだよなあ」
別の男が吐き捨てるように言う。司は目を丸くし、口をパクパクさせた。
「ちょっとやめましょう」
遥が制した。
「今は互いを責める時間じゃない。北条くんが本当に何もしていないのか、それとも何か隠しているのかは、たぶんこの先、嫌でも明らかになります。今は情報共有だけ」
そう言って、ふっと凛の方を見る。
「黒川くんは?」
「黒川凛、高校三年です。普通科で……特に何も」
そう言いながら、自分の言葉の薄さに嫌気がさす。だが、口が勝手に続けた。
「まあ、その……中学のときに、ちょっとしたいじめに加担したことはあります。直接手は出してないけど、見て見ぬふりをして笑ってた、みたいな」
司がわずかにこちらを見た。何か言いたげだったが、結局何も言わずに俯いた。
ひと通り自己紹介が終わったときには、部屋の空気はさらに重くなっていた。
全員が、どこかで「自分たちは試されている」とうすうす感じ始めていた。
──この十三人は、偶然じゃない。
誰かの都合で集められた「サンプル」であり、「罪」を持った人間たちなのだ、と。
◇
夜が来た。
二度目の夜。今度は誰も、ただじっと寝ているつもりはなかった。
照明が落ち、赤い非常灯だけが残ると、高科と牧野はすぐに動き出した。昼のうちに調整しておいた端末は、排気口の真下に置かれている。マイクは天井に向けて固定され、録音開始ボタンに指がかかっていた。
「じゃあ、ここから先は自動で録るようにします。ノイズが出始めた時点で記録されるはず」
牧野が、少し緊張した声で言う。
「黒川くん、昨日と同じように、何か『言葉』が聞こえたらすぐに教えて」
「うん」
凛は呼吸を整え、耳を研ぎ澄ませた。
天井の排気口から、例の音が流れ始める。ゴォォ……ザザザ……と低く、しかし途切れなく続くノイズ。昼間よりも一段階ボリュームが上がっているように感じた。
部屋のあちこちで、誰かが布団を握りしめる音がした。全員が、耳をそばだてている。誰もが、次に呼ばれる名前が自分でないことを祈りながら。
ノイズは、しばらくはただのノイズのままだった。
ガス処理室の扉の方をちらりと見る。ランプはまだ緑のまま。昨夜のような不気味な色の変化はない。
胸の鼓動がうるさい。自分の心音が邪魔をして、細かな音が聞き取りづらくなる。凛は何度か深呼吸を繰り返し、意識的に心拍数を落とそうとした。
そのとき。
ノイズの波が、一瞬だけ浅くなった。
耳にざらりと引っかかる、違う成分の音。凛は反射的に背筋を伸ばした。
「今……」
言いかけた瞬間だった。
「……カイ」
それは、昨夜よりもはっきりとした声だった。
ささやき声ではある。けれど、確かに言葉として認識できる。短い、たった二音の名前。凛だけでなく、何人かが同時に息を呑む気配がした。
「今、聞こえたか?」
「『カイ』……って」
闇の中で、誰かが震え声を出した。牧野の布団がびくりと揺れるのが視界の端に見えた。
「落ち着け!」
志村の低い声が、何とか空気をつなぎ止める。
「今は動くな。ランプはまだ青じゃない。扉も閉まっていない。勝手にガス処理室に近づくな」
しかし、その理屈が頭でわかっても、身体が震えるのは止められない。
カイの息遣いが速くなるのが、すぐ近くでわかった。彼は自分の名前を呼ばれたのだ。しかも、それが何を意味するか、昨夜のひかりの死が証明している。
「……録れてるか?」
すれ違いざまに、高科が端末を見やる。赤い録音ランプが、暗がりの中で小さく点滅していた。
「録れてます。波形も出てる。さっきの部分……絶対に残ってる」
牧野は喉を鳴らしながら、画面を指差した。
ノイズは、再びただのノイズへと戻っていた。名前を告げるその一瞬だけ、ノイズの深さが変わり、人の声が浮かび上がる──まるで、水面下に沈んでいた何かが、吐息とともに顔を出すみたいに。
「ねえ、もう、ガス処理室から離れようよ……!」
誰かが半泣きの声をあげる。
「離れたところで、呼ばれたら終わりなんだろ?」
御子柴が苛立ったように吐き捨てた。
「ならせめて、何が起きてるのか突き止めるしかない。声がどこから来てるのか、誰の声なのか……。ビビって耳を塞いでたって、順番を待つだけだ」
冷たい言い方だったが、誰も反論できなかった。
その夜は、誰一人として眠れなかった。排気口のノイズは次第に弱まり、やがて完全に止まった。それでも、頭の中ではずっと「カイ」という囁きがループしていた。
翌朝。
ガス処理室のランプが、またしても赤から青へと変わる。
金属のロックが外れる音がした瞬間、ほとんど全員が悟っていた。中に誰が倒れているのか。
扉が開く。
そこには、牧野カイがいた。
ひかりと同じように、床にうつ伏せに倒れ、首元を押さえたまま動かなくなっている。顔の表情は見えないが、背中の強張った筋肉が、最後の最後まで空気を求めて暴れたことを物語っていた。
「う、そだろ……」
高科の声が、かすれた。
彼は数歩ふらつきながら近づきかけ、志村に肩を掴まれて止められる。
「やめろ。中には入るな。証拠が消える」
「証拠って……誰が、何のためにこんなことを……!」
「それを知るために、冷静になるんだ」
志村の声も、ほんの少し震えていた。それでも、刑事としての習慣が、彼を冷静なポジションから退かせない。
凛は、その場に立ち尽くしていた。喉の奥が焼けるように乾いている。足が、自分のものじゃないみたいに震えていた。
昨夜、確かに聞こえた。カイ、と呼ぶ声が。
それが、ただの運命の悪戯だと信じたかった。だが結果は、このとおりだ。
「……解析班」
遥の声が、背中から飛んできた。
「高科くん、黒川くん。端末を確かめて。昨夜の音声、きっと残っているはず」
その一言で、凛はようやく身体を動かした。高科も歯を食いしばりながら頷き、共有スペースへ走る。
端末の画面には、昨夜の録音ファイルが一覧として並んでいた。時間スタンプが付いている。一番長い波形のファイルを選び、再生ボタンを押す。
スピーカーから、あのノイズが流れ出す。
ゴォォ……ザザザ……という音につられて、周りの全員が無意識に息を詰めた。
一分、二分と経つ。何も起きないただのノイズに、逆に神経がすり減っていく。
そして、あの瞬間が来た。
画面の波形が、一瞬だけ違う形になる。ノイズの谷間に、細い線が立ち上がる。その瞬間に――
「……カイ」
はっきりと、そう聞こえた。
昨夜よりも鮮明に感じるのは、録音データだからか。ノイズが圧縮され、声の成分だけが浮かび上がっているせいか。
「やっぱり……」
凛が呟く。
しかし、その直後に再生されたものが、さらに彼らの血の気を奪った。
カイ、と名前を呼んだその声に、聞き覚えがあったのだ。
「これ……俺の声?」
高科が青ざめた顔でつぶやく。
「いや、違う。ここの、部分は私の声にも聞こえる」
遥が顔をしかめる。
再生を巻き戻し、問題の箇所だけを何度も再生する。ノイズのフィルターを簡易的にかけると、「カイ」と呼ぶ声が、まるで複数の声が重なっているかのように聞こえた。
男の声、女の声、若い声、落ち着いた声。それぞれが少しずつずれて重なり、一つの名前を形作っている。
「……これ、まさか」
志村が、眉をひそめる。
「この声、全部……俺たちの声、か?」
ゾッとした。
凛は自分の喉に手を当てた。自分が出す声の響きと、録音の中のどこかの音色が、かすかに重なる。
高科の声も混じっている。遥の声も。御子柴の低い響きも。司の少しかん高い声も。
全員の声紋が、ノイズの中に溶けて、混ざって、名前を呼んでいる。
カイ、と。
「どういうことだよ、これ……!」
高科が半ば叫び、端末の画面を掴んだ。指先が白くなる。
「俺たちが、誰かを殺せっていうのか? 勝手に声を合成して、責任を押しつけて……!」
「落ち着けと言ってるだろう」
志村が割って入る。
「少なくとも、誰か一人がこっそり録音して加工したってレベルの話じゃない。これは、外側から俺たちの声を全部拾って、何らかのアルゴリズムで混ぜてる。そうでもなきゃ、こんな自然な重なり方はしない」
御子柴も、顔を引きつらせながら画面を見つめる。
「つまり……この施設を作った連中は、俺たちの声を素材にして、名前を呼んでるってことか」
「被験者同士に、互いに疑心暗鬼を抱かせるために?」
遥が低く言った。
「もしも、『自分の声が誰かの死を呼ぶ』って思い込ませることができたら、どうなるでしょう。誰も、安易に他人の名前を呼べなくなる。会話そのものが、凶器になる」
想像しただけで、喉が縮こまった。
名前を呼ぶ。たったそれだけの行為が、誰かの命を奪うかもしれない。そう思えば、誰もが沈黙するしかなくなる。
「……十三人の罪、ってことか」
ぼそりと御子柴がつぶやいた。
「俺たちは、今まで何気なく人の名前を呼んで、切り捨てて、選別してきた。直接手を下したわけじゃなくても、結果的に誰かを追い詰めたことがある」
彼は自分の手を見下ろし、ゆっくりと握りしめた。
「ここは、その責任を『ちゃんと自覚させる場所』なのかもしれない。自分たちの声で、自分たちの仲間の名前が呼ばれて、その度に誰かが死ぬ。……こんな風にな」
誰かが喉を鳴らした。誰かが泣き出しそうな顔で口を押さえた。
北条司は、青ざめた顔で端末の画面と皆の顔を交互に見ていた。
「俺、本当に……何もしてないですよ……。そんな、誰かを追い詰めるようなこと」
弱々しい抗弁は、空気の中で簡単にかき消された。
遥の視線が、一瞬だけ鋭く司を射抜く。しかし、何も言わない。
代わりに、凛の胸の奥がズキリと痛んだ。
中学の教室。机を蹴られたクラスメイト。名前を囃し立てた笑い声。その輪の中で、一度も止めなかった自分。
あのとき、誰かが俺のことを「加害者」と呼んだら、俺は絶対に否定しただろう。
──北条司も、きっとそうだ。
「一つ確かなことがある」
志村が言った。
「このまま黙っていても、名前は呼ばれ続ける。次は誰か。俺かもしれないし、お前かもしれない。だが、呼ばれる順番を変えられる可能性があるとしたら、それは……」
「ルールを見つけること、ですね」
高科がかろうじて声を絞り出した。
「ノイズに含まれている情報、名前の選ばれ方、時間帯。全部、データとして集めるしかない。『これは偶然じゃない』って証明して、逆にそこから抜け道を探す」
牧野カイはいない。解析班の半分が、もうガス処理室の床に横たわっている。
その現実が、あまりにも重くのしかかる。
それでも、高科は端末の画面を睨みつけたまま、拳を固く握った。
「カイの死を、意味のないものにしたくない。絶対に、この現象のルールを暴いてやる」
凛は、その横顔を見つめながら、自分の喉元をそっと押さえた。
今はまだ、自分の名前は呼ばれていない。
けれど、この十三人の中にいる限り、誰も例外ではない。
十三人の罪。
ここは、きっと、それをあぶり出すために作られた部屋だ。
名前を呼ぶのは、排気口の向こう側の「何か」か。
それとも──俺たち自身なのか。
ガス処理室の厚い扉は、何も答えない。ただ、次のターンを静かに待っているように見えた。




