第十一話 最後の七十二分
アラームは、突然始まった。
耳をつんざくような警告音が、実験棟のコンクリートの壁を震わせる。蛍光灯が一瞬だけ明滅し、天井スピーカーから機械的な声が落ちてきた。
「換気システム障害。七十二分後に自動補正が実行されます。被験者は指定の位置から移動しないでください。繰り返します──」
黒川凛は反射的に耳を塞いだ。心臓が、アラームと同じリズムで跳ねる。
共有スペースの壁のモニターが一斉に点灯し、赤い数字を表示する。
【72:00】
一秒ごとに、冷酷な音を立てて減っていく。
「……換気システム障害?」
月岡茜が、紙コップを握ったまま立ち上がる。看護師としての嗅覚が、なにか決定的に嫌なものを嗅ぎ取っていた。
「いや、こんなの、絶対『障害』じゃないだろ」
佐久間晶は舌打ちしながら天井を睨んだ。
「ここまで綺麗に『七十二分』なんてキリのいい数字、わざとに決まってる」
「とりあえず、管理室だ」
高科颯太は、誰よりも早く動いた。簡易端末を掴み、椅子を蹴るようにして立ち上がる。
「“自動補正”ってのが何を指してるのか、ログを見れば分かるはずだ」
「行きましょう」
東雲遥がすぐに後を追う。三条真琴も、スーツの裾を払って無言で立ち上がった。
「おい、高科。何か分かったらすぐ言えよ!」
「分かっても分からなくても言いますよ!」
凛はそう叫ぶと、高科たちの後を追った。
◇
管理室に入った途端、アラーム音が少しだけ遠のいた。代わりに、サーバーラックの低い唸りと、モニターの電子的な明滅が耳を支配する。
壁一面のスクリーンには、施設各所の映像と同時に、赤枠の警告が幾つも重なっていた。
『VENTILATION ERROR』
『AUTO-COMPENSATION: T-69:34』
カウントダウンは、すでに三分近くを削っていた。
「……急げってことかよ」
高科は、メインコンソールに座ると、すぐさまキーボードに指を走らせた。
「ログ、ログ……あった」
管理者コンソールの画面が切り替わり、英数字の羅列が流れていく。凛には半分も読めないが、行ごとに挟まれた日本語の注釈が、嫌でも意味を伝えてくる。
「“自動補正プロトコル起動準備”……“対象:実験室A全域”」
東雲が、背後から画面を覗き込みながら訳す。
「“被験者数の急速な削減を通じた環境安定化”……」
「はっきり書いてんな」
佐久間が、乾いた笑いを漏らした。
「『人数減らせば空気が足りるようになります』ってか」
「“被験者数の急速な削減”って、具体的にどうやってですか」
凛の声が、少し裏返る。
「まさか、また一人一人名前を呼んで──」
「いや」
高科は別のタブを開いた。
そこには、ガス制御に関する設定がずらりと並んでいた。
「ここ。“AUTO-COMPENSATION”時の挙動。……あー、クソ」
画面の一文を、日本語に置き換える。
「『実験室A全域を対象とした致死濃度ガス導入。環境内酸素レベルを閾値以下まで低下させることで、短時間で被験者数を最適化します』」
「短時間で“最適化”って……」
月岡が、顔色を失う。
「要するに、二酸化炭素で窒息させるとか、毒ガスで一気に殺すってことじゃないですか」
「そういうことだろうな」
立花が腕を組んだ。額にうっすら汗が光る。
「ガス室に閉じ込めて一人一人殺すのが“実験”で、それが滞ったら“バルク処理”ってわけだ。会社のリストラより容赦ない」
「“七十二分後”ってのは、ガスの準備時間も含めたカウントね」
三条が、冷静に言う。
「システム側はもう、『最後の一人を選ぶゲーム』を諦めて、“まとめて処理”モードに入ろうとしてる」
凛は、モニターの数字を見た。
【66:02】
数字は容赦なく減っていく。
「……このまま何もしなかったら、七十二分後にここ全体がガス室になって、全員死ぬ」
凛は、喉の奥がカラカラになっていくのを感じながら言葉にした。
「ノイズも名前も関係なく。誰かを選ぶプロセスすらなく」
「実験としては“ノイズの収束に失敗しました”って一行で片づけられる」
高科が、歯を噛みしめる。
「今まで死んだやつらのデータも、名前を消されたK−09のやつのデータも、全部『失敗例』としてフォルダに放り込まれて終わりだ」
「……ふざけてるわね」
三条が、珍しく感情を露わにした。
「ここまで人を弄んでおいて、最後は『失敗したから全員殺しました』で済ませるつもり?」
「だから、あいつらは保険を用意してる」
立花が、別のタブを開きながら言った。
ガス室制御パネル。
その右下に、赤いボタンが一つだけ浮かんでいる。
『FULL VENT』
凛は、それを見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「……あいつか」
東雲も、小さく息を呑む。
ノイズの設計図に書かれていた、「全名ノイズ化」のトリガー候補。
ガス処理室内のガスを、外部系統へ一気に吐き出すためのボタン。
普段は灰色だったボタンの縁が、今はうっすらと赤く光っている。まるで、「選べ」とあざ笑っているみたいに。
「FULL VENT……」
佐久間が、ぶっきらぼうに読み上げる。
「押せば、ガス処理室にいる俺たちごと、中のガスを外にぶちまける。ここは一時的に空になるかもしれないが、その代わり俺たちは確実に死ぬ」
「しかも」
高科が、設定ファイルから一文を拾い上げる。
「“全被験者が同時にガス処理室内で死亡した場合、全名音響スペクトル統合プロトコルへ移行”」
「つまり、“全名ノイズ化”ね」
東雲が、静かにまとめる。
「実験室の中だけじゃなく、この施設全体、下手をすると外のネットワークにまでノイズが流れ出す可能性がある」
「外の世界にまで、俺たちのザザザを聞かせようってわけか」
佐久間の口調は軽いが、目は笑っていなかった。
凛は、無意識に喉を押さえた。
このまま七十二分を待てば、何も残らない。
ガスが満ちて、全員が黙らされる。ログには「被験者全滅」と一行記されるだけ。ノイズも、うめき声も、排気口のザザザも、ここで終わる。
フルベントを押せば、全員でガス処理室に入り、自分から死ぬことになる。その代わり、最後の瞬間、全員の声が一つのノイズになって世界に流れ出すかもしれない。
どちらにしても、誰かは死ぬ。ここにいる全員が。
「……クソみたいな二択だな」
佐久間が、吐き捨てた。
「『まとめて窒息するか』『自分からガス室に入るか』。どっち選んでも、まともじゃない」
「でも、選ばなきゃいけない」
東雲が、凛たちの顔を一人ずつ見ていく。
「時間は止まらないから」
モニターの数字は、【58:50】を示していた。
◇
共有スペースに戻ると、アラームの音が少しだけ弱まっていた。かわりに、壁のカウントダウンが、じっとこちらを見つめている。
【56:12】
「なに分?」
月岡が、すがるように訊ねる。
「五十六ちょい」
高科が答えると、全員の顔に、目に見える形で影が落ちた。
「“自動補正”ってのが、要するに『全員まとめてガス殺し』だってことは分かった」
佐久間が、ソファの背にもたれながら言う。
「七十二分後、このフロア全部がガス室になる」
「ここだけじゃない可能性もあるわ」
三条が、壁に視線をやった。
「換気システムってことは、上階にも繋がっている。この施設の構造にもよるけど、最悪、他の被験者フロアも巻き込む仕様かもしれない」
「他にも、俺たちみたいな連中がいるってことですか?」
凛が、思わず口にする。
「分からない」
東雲は、首を振った。
「でも、『実験室A』って言い方をしている以上、BもCもある可能性はある。そこに人がいるかどうかまでは、ログからは拾えなかった」
「だとしたらなおさらだ」
立花が、苛立ちを抑えた声で言う。
「俺たちが変なことをすれば、他のフロアまで巻き込む可能性があるってことだ。フルベントを押したら、ガスの行き先はここだけじゃ済まないかもしれない」
「でも何もしなけりゃここで終わり」
佐久間が、テーブルを指で叩く。
「“最後の一人”どころか、“最後の七人”としてきれいに処理される」
「まだ“最後の一人”の可能性は残っているわ」
三条が、静かに反論する。
「『自動補正』が実行される前に、どうにかここから脱出できれば──」
「できると思います?」
高科が、あえて冷たい口調で遮った。
「外からの管理者権限がないと扉は開かない。セキュリティも、換気も、全部あっち側の手のひらの上。それにこの状況で、実験者がわざわざ“脱出ルート”なんて残してくれると思います?」
「思わないけど、ゼロとは言い切れないでしょう」
三条は食い下がる。
「法律家志望としては、ゼロじゃない可能性に賭けたくなるの。誰か一人でも生き残って、ここで何が行われたかを外に持ち出す。それが、加害者を縛る唯一の手段かもしれない」
「その“誰か一人”って、誰を想定してるんですか」
凛の口から、思わず言葉がこぼれた。
三条は、少しだけ言葉に詰まり、それから肩をすくめた。
「……正直に言えば、私よ」
彼女は、自分で自分を指差す。
「私は、こういう理不尽なシステムを見て見ぬふりができない人間だもの。外に出て訴訟を起こしたい。責任を追及したい。それが、今まで法律を勉強してきた意味だと思ってる」
「その気持ちは分かる」
立花が、低く言う。
「俺だって会社で理不尽なことはいくらでも見てきた。黙って耐えるしかない奴らも大勢いた。だからこそ、“外で戦う人間”の必要性は分かってるつもりだ」
「じゃあ──」
「でも、それとこれとは話が別だ」
立花は、三条の言葉を遮る。
「ここで死ぬか、生き残るか。その選択を“職業意識”だけで決めるのは、さすがに傲慢だと思う」
「……」
三条は、唇を噛んだ。
「俺には会社がある」
立花が続ける。
「部下もいるし、家族もいる。俺がいなくなったら困る人間が、きっと何人かいる」
「自信満々ですね」
佐久間が茶々を入れる。
「うるさい」
立花は一瞥をくれ、そのまま言葉を重ねた。
「だからと言って、『俺だけ生き残るべきだ』なんて言えるほど、俺は図太くない。だけど、心のどこかで『生きて帰りたい』って願ってる自分もいる」
「それは、全員同じです」
月岡が、小さく手を握りしめながら言った。
「私だって、本当は病棟に戻りたい。患者さんのもとに。ここに来る前に担当していた人たちがどうなっているか気になるし、家族にも会いたい」
彼女の頬が、少しだけ震えていた。
「でも──」
月岡は、天井を見上げる。
「私たちがここで死ぬことが、誰かの救いになるなら。外にいる誰かが、同じ目に遭わないための“最初の犠牲”になれるなら……私は、それを選びたいと思ってしまう自分もいます」
「けど、それが本当に救いになるのかは分からない」
高科が、冷静に補足する。
「フルベントを押せば、俺たちのノイズが外のネットワークに乗るかもしれない。実験データとして封じ込められる可能性もあるし、逆に無関係な人間を巻き込む武器として使われる可能性すらある」
「そう。だから迷ってるんです」
月岡は、胸に手を当てる。
「『ここで死ぬことが正しい』なんて、自信を持って言えるわけがない」
「……俺は」
凛は、皆の言葉を聞きながら、頭の中で一つの光景を何度も繰り返していた。
白い天井。排気口。ザザザというノイズ。
そこから流れてきた名前たち。
ひかり。カイ。レン。なおや。つかさ。しん。
それから、呼ばれることすら許されなかった誰か一人。
その全部が、耳鳴りみたいにこびりついている。
「もし、最後の一人だけが生き残ったら」
凛は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「その人の声には、死んでいった全員のノイズがまとわりつくと思います」
全員の視線が、凛に集まる。
「排気口のザザザって音、もう絶対に忘れられない。外に出ても、エアコンの音とか、電車の走行音とか、風の音とか……全部ノイズに聞こえるようになる。誰かの名前が、聞こえるようになる」
凛は、喉の奥が締め付けられるのを感じながら続けた。
「その人は、生涯ずっと、ここで死んだ全員の声を抱え込んで生きることになる。それって、“生き残った人への罰”みたいなもんじゃないですか」
沈黙が落ちた。
「……そうね」
東雲が、静かに言った。
「実験者は、それを“興味深いケース”として喜ぶでしょうね。“極限状況下で他者の死を記憶し続ける個体”として」
「でも、俺たちからしたら、ただの地獄です」
凛は、きつく拳を握りしめる。
「誰か一人にそんなもの押しつけて、『他の全員は実験のために死にました』って納得しろって言われても、無理です」
それは、ずっと胸の奥で溜め込んでいた感情だった。
ここでの死が、ただ「最終生存者プロトコル」のための踏み台にされること。
最後の一人が、その全てを背負って生きていく未来。
考えれば考えるほど、吐き気がした。
「……だから佐久間さんは、“フルベントのほうがまだマシだ”って言ったんですね」
凛が、佐久間を見る。
佐久間は、肩をすくめた。
「まあ、そんなところだな」
彼は、テーブルの上を指でなぞる。
「俺だって死にたくないけどよ。“最後の一人のために他の誰かが死ぬゲーム”は、もう飽き飽きなんだよ」
その言葉には、ここまで何度も名前を聞き、何度も誰かを喪った怒りが詰まっていた。
「俺たちの誰か一人のために、残りが死ぬ。それを、“人の本性”だなんて言葉で片づけられるのは、胸糞悪すぎる」
「だからって、“全員ノイズ化”が正しいとも言えない」
高科が、静かに言う。
「フルベントを押せば、外の世界に何かが起きるかもしれない。俺たちは、それをコントロールできない」
「コントロールなんて、最初からできてない」
佐久間が、鼻で笑う。
「俺たちはずっと装置にいじられてきただけだ。嫌悪を掘り返されて、ガスを吸わされて、名前を選ばれて。今さら『外への影響ガー』って言い出したって、説得力ねえよ」
「それでも、悩んでしまうのが人間なのよ」
三条が、額に手を当てる。
「“自分の死”より、“他人を巻き込む可能性”のほうが怖いと思ってしまう。特に、医療従事者や教師や弁護士志望みたいな、“誰かを守ろうとしてきた側”はね」
月岡、東雲、御子柴──そして自分。
いなくなった人たちの顔が、一瞬だけよぎる。
「……東雲さん」
凛は、彼女に視線を向けた。
「さっき、『選択を迫られている』って言ってましたよね」
「ええ」
東雲は、凛をまっすぐ見た。
「このまま七十二分を待てば、自動補正で全員殺される。“最後の一人”ルートも、“全名ノイズ化”ルートも発動しない。ただの“実験失敗”として処理される」
「それが、一番“何も残らない”」
「そう」
東雲は頷く。
「外に何も届かない。私たちの声も、罪悪感も、怒りも、全部このコンクリートの箱の中で終わる。実験者は、“この条件ではうまくいきませんでした”って論文の一行を増やすだけ」
「じゃあ、残ってるのは」
凛は、声を震わせながら言う。
「“最後の一人”を選ぶルートか、“全員ノイズ化”を選ぶルートか」
「そういうことになるわね」
三条が、苦笑した。
「クソみたいな二択しかない中で、どのクソを選ぶかって話」
「クソはクソでも、まだマシなほうを選びたいところだが」
立花が、ため息をついた。
「問題は、自分が本当に“マシ”だと思ってるほうに賭けられるかどうかだ」
モニターの数字が、じわじわと減っていく。
【39:20】
残り四十分を切った。
凛は、自分の胸に手を当てた。
怖い。死ぬのが怖い。息ができなくなるのはもっと怖い。知らない誰かを巻き込むかもしれないのも怖い。
でも──
誰か一人だけを、生涯ノイズまみれの人生に放り出すのは、もっと嫌だった。
「……一つだけ、はっきりしてることがあると思います」
気づけば、凛は前に出ていた。
「何だ」
佐久間が、目で促す。
「“自分だけ生き残ろう”と考えた瞬間、その人の名前がノイズに選ばれる」
全員の喉が、ごくりと鳴った。
それは、この施設で何度も見せつけられてきたパターンだった。
誰かが心のどこかで、「こいつが死ねばいい」と思ったとき。
誰かが、自分だけ助かりたいと願ったとき。
その瞬間、排気口から、名前が落ちてきた。
「この装置は、俺たちの嫌悪だけじゃなくて、自己保身も数えてる。『誰かを切り捨てて自分を守りたい』って気持ちを、全部グラフにして、名前の形にしてぶつけてきた」
凛は拳を握る。
「だったら、逆に考えるしかないんじゃないでしょうか」
「逆?」
東雲が、少し身を乗り出す。
「自分だけ生き残ろうと考えた瞬間、ノイズがその人を指差すんだとしたら──」
凛は、一人一人の顔を見る。
「誰も、自分だけ生き残ろうと考えない状態を作るしかない」
空気が、張り詰めた。
「全員が同じ方向を向いてる状態。『俺だけ』『私だけ』を捨てて、同じ結末を選ぶ状態。そうすれば、少なくとも“裏切り”に対するノイズの矢印は立たない」
「……きれい事だな」
佐久間が、ぼそっと言う。
「でも、嫌いじゃない」
「きれい事なのは分かってます」
凛は苦笑する。
「正直、俺だって本当は生きたい。外に出て、普通の生活に戻りたい。でも、この状況で『自分だけ』って言葉を飲み込めないなら、最初からあのフロアに閉じ込められてないと思うんです」
「罪悪感持ちのゴミ箱みたいな連中ばっかり集められたもんな」
佐久間が、肩をすくめる。
「だったら、最後くらい、その“罪悪感”を有効活用してやろうぜってか」
「……東雲さん」
凛は、頼るように彼女を見る。
「さっき、『全員で実験をぶっ壊すかどうか』って言ってたの、あれ、本気ですよね」
「もちろん」
東雲は、目を細めた。
「私は、“最後の一人”なんていらないと思ってる。『誰かを選んで終わる』っていうシナリオそのものを、ノイズにしてやりたい」
「だったら、提案があります」
凛が続けようとすると、それを制するように、東雲が一歩前に出た。
「それは、私から言わせて」
彼女は、小さく息を吸い込む。
「──全員で、同時にボタンを押しに行きましょう」
床が、一瞬きしんだように錯覚した。
「……は?」
佐久間が、目を瞬く。
「フルベントのことです」
東雲は、真剣な目で言った。
「七十二分を待たずに、もっと短い時間で、自分たちの意思でガス処理室に入る。全員で同じ場所に立って、同じタイミングでフルベントを押す」
「それってつまり──」
月岡が、言い淀む。
「全員で死にに行く、ってことですよね」
「そうなります」
東雲は否定しなかった。
「でも、そのときに大事なのは、『誰一人、自分だけ生き残ろうと思っていない状態で行く』ってことです」
凛は、飲み込んだ唾が変なところに入るかと思うほど、喉を締め付けられた。
「もしそこで、誰か一人でも心のどこかで『やっぱり怖い、逃げたい』って思ったら──その瞬間、その人の名前がノイズに選ばれる」
それは、これまでの経験からも容易に想像できる。
「だから、必要なんです」
東雲は、皆の手元を見た。
「物理的に、手を繋ぐことが」
「手を……?」
「そう」
彼女は、自分の右手をそっと差し出した。
「ガス処理室に向かうまで、ずっと。誰か一人でも手を離したら、その瞬間にノイズがそっちを向くかもしれない。だったら、繋いでいくしかない」
三条が、口角を上げた。
「自己誓約と集団契約、ね。悪くないわ」
「また法律用語だ」
佐久間が苦笑する。
「具体的には?」
「こう言うの」
東雲は、皆を見回す。
「『自分だけ生き残ろうとした瞬間、私は自分の名前をノイズに投げる』って」
「……自分でかよ」
佐久間が目を丸くする。
「そうです」
東雲は真顔だった。
「裏切りそうになった自分を、自分で罰する。その覚悟を持った上で、それでも全員で同じ方向に歩く。それができれば、少なくとも“無意識の裏切り”は起こりにくい」
「バカみたいだけど、いいかもしれない」
月岡が、小さく笑った。
「手を繋ぐの、ちょっと子どもっぽいですけど……今さら格好つけても仕方ないですしね」
「……立花さん」
凛は、最後に彼に視線を向けた。
「あなたは、どうしますか」
立花は、長い沈黙のあと、深く息を吐いた。
「俺はな」
彼は、天井の換気口を見上げる。
「正直、最後まで迷ってる。会社に戻りたい気持ちもあるし、家族の顔も浮かぶ。『こんなところで死んでたまるか』って思いも、消せない」
「はい」
凛は、逃げずに聞いた。
「でも同時に、ここまで見せつけられてきた“選別”を、このまま認めて終わるのも……胸くそ悪い」
立花は、視線を凛に戻す。
「誰か一人に全部押しつけて、『あいつが生き残ってくれてよかった』なんて顔をする未来は、耐えられそうにない」
彼は、小さく笑った。
「だから──クソみたいな選択肢の中から、クソの種類を選ぶとしたら」
その目は、もう迷っていなかった。
「俺は、お前たちと同じクソを選ぶよ」
「……ありがとうございます」
凛は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
「決まりね」
三条が、立ち上がった。
「じゃあ、契約の時間といきましょうか」
「契約って言うな」
佐久間が、笑いながらもつられて立ち上がる。
モニターの数字は、【17:05】。
時間は、もうあまり残っていない。
◇
共有スペースの真ん中に、七人が円になるように立った。
高科が、東雲の右側に。
その隣に凛。
そこから時計回りに、月岡、立花、三条、佐久間。
七つの手が、順番に繋がっていく。
掌の温度、指先の震え、汗ばみ。どれも、妙にリアルだった。
「……手、冷たいですね」
凛が思わず呟くと、隣の高科が小さく笑った。
「お前の手もだよ」
「うるさいです」
そんな何気ないやり取りが、不思議と心を落ち着かせた。
「じゃあ、言いましょうか」
東雲が、小さく息を吸う。
「せーの、で」
凛は、掌に力を込めた。
誰の手も、離さないように。
「せーの」
「「「裏切ったら、自分の名前を呼ぶ」」」
七つの声が重なる。
天井の排気口から、かすかなノイズが返事をした気がした。
ザザザ──。
でも、まだ名前は混じっていない。
「行こう」
高科が、短く言った。
「最後の七十二分──いや、もう十分ちょっとだけどな」
佐久間が、口角を上げる。
「どうせなら、派手に締めくくろうぜ」
「派手かどうかは分からないけど」
月岡が、目元を指で拭う。
「静かに処理されて終わるよりは、ずっとましよね」
「泣きたい人は、歩きながら泣いてください」
三条が、冗談めかして言う。
「ここで転んで頭打って死ぬとか、一番笑えないから」
「そこまで行く前にノイズに名前呼ばれそうですけどね」
凛は、少しだけ笑った。
怖い。怖いに決まっている。
でも、全員の手の温度が、その怖さを少しずつ薄めていく。
「……じゃあ、行きましょう」
東雲が、一歩目を踏み出した。
七人は、輪を崩さないように、ゆっくりと歩き始める。
廊下に出ると、アラームの音がまた近くなった。赤い非常灯が、間隔を置いて点滅している。
天井の排気口から、ノイズが追いかけてきた。
ザザザザザ──。
さっきより、少しだけ音が大きい。
「……まだ、誰の名前も聞こえない」
凛が、耳を澄ませながら言う。
「聞こえないままで行こう」
高科が、前を見据えたまま答える。
「あとちょっとだ」
ガス処理室の重い扉が、廊下の突き当たりに口を開けている。
今まで何度も、あの向こうから遺体を運び出してきた。
藤咲ひかり。牧野カイ。百瀬蓮。志村直哉。北条司。御子柴慎。
名前を呼ばれた者たち。
それから、呼ばれることすら許されず、記録ごと削除された誰か。
今度は、自分たちが、その向こう側に入る番だ。
「……なあ」
佐久間が、ぼそりと言った。
「二度と戻ってこれない場所に歩いてるってのに、こうして手繋いでると、なんか修学旅行の班行動みたいに見えね?」
「比喩のセンスが最悪ですね」
凛は、笑いながらも、目頭が熱くなるのを感じた。
「でも、嫌いじゃないです」
「だろ?」
佐久間も、鼻をすすりながら笑う。
「俺ら、最後まで『いい子』にはなれなかったけどよ。最後の最後でくらい、まともな選び方してやろうぜ」
ガス処理室の扉の前に立つ。
無骨な鋼鉄。緑から赤に変わる警告灯。見慣れた光景なのに、今までとは違って見えた。
「開けるぞ」
高科が、左手で扉のハンドルを掴む。右手は、しっかりと凛と繋いだまま。
「全員、いいな」
凛は、ぐっと手に力を込めた。
誰も、離さない。
誰も、「自分だけ」と思わない。
「……行こう」
高科が、低く呟いた。
鋼鉄の扉が、ゆっくりと開いていく。
冷たく無機質なガス処理室の空気が、彼らを迎え入れた。
排気口から、ノイズが一段と大きくなる。
ザザザザザ──。
それでも、まだ名前は聞こえない。
七人は、手を取り合ったまま、一歩、また一歩と、ガス室の中へ足を踏み入れていった。




