第十話 ノイズの設計図
名前の消えた朝から、まだ半日も経っていないのに、実験棟の空気は別の施設みたいに変わっていた。
誰か一人分の痕跡が、きれいに消されていた。
被験者リストの空白行。
ベッドの数。
記憶の穴。
思い出そうとすると、指先がつるりと滑る。そこに確かに「いた」はずなのに、何も掴めない。
その違和感を抱えたまま、黒川凛は管理室の扉を押した。
「……入るたびに、ここ嫌いになるな」
高科颯太が、モニターの明かりに照らされた顔をしかめる。
サーバーラックの低い唸りと、壁のスクリーンに流れるグラフ。ノイズのスペクトログラム。被験者の心拍。ガス濃度。
ここは、彼らの生死をただの数値として並べる場所だった。
「でも、ここしか手がかりはない」
東雲遥が、冷静に言う。
「名前を消された人のことだって、システムを辿れば何か残ってるかもしれない」
「だったら早く探そうぜ。あんな“削除しました”の一行で納得できるかよ」
佐久間晶が、乱暴に椅子を引き寄せた。
モニターのひとつには、まだ空白のK−09の行が点滅している。
——サンプル削除、データ統合。
それだけが、そこにいた「誰か」の代わりだった。
「ログは、一通り見た」
高科が、端末を操作しながら言う。
「ノイズの変化、ガスの濃度、被験者の嫌悪指標。さっきまでに出てきた情報以上のものは、表のインターフェースにはない」
「表、ね」
三条真琴が、その単語を拾う。
「つまり、“裏”があると?」
「そりゃそうだろ」
高科は肩をすくめた。
「だって、ここにあるのは被験者向けの“進捗表示”みたいなもんだ。管理者側が本当に見てる画面が別にあるはずだ」
「さっきから、その“別にあるはず”をずっと言ってるけど」
立花が腕を組む。
「だったらどこにあるか教えてくれ。時間かけてパソコンいじってるだけに見えるぞ」
「今、探してるんですよ」
高科は苦笑しながら、画面の隅に小さく表示されているアイコンをクリックしていく。監視カメラ一覧、ガス制御パネル、ログ閲覧、被験者データ。
どれも、すでに一度は開いた画面だ。
「……なあ、高科」
ふと凛が口を開く。
「“奥に別系統の端末”って、物理的な意味じゃないのか?」
「物理?」
「ほら、こういう施設って、表向きのコンソールと、奥の“本気のやつ”が分かれてること、よくあるって漫画で見た」
「情報源が漫画かよ」
佐久間が呆れた声を出す。
「でも、ありそうではあるわね」
東雲が、部屋を見回す。
「ここって、異様にスペースの使い方が悪いでしょう? モニターとサーバーラックの位置の割に、壁際が妙に空いてる」
言われてみれば、確かにそうだった。
部屋の奥、サーバーラックが並んでいるエリアのさらに向こう側に、わずかに死角になるスペースがある。そこだけ、無駄に空調の音が大きい。
「……見てくる」
凛は、自然と足を踏み出していた。
サーバーラックの間を抜け、奥へ奥へと進む。機械の熱で、空気が生暖かい。
ラックの陰に回り込むと、そこに──
「おい、マジかよ」
凛は、思わず声を上げた。
壁際に、小さな端末が一台だけ、ひっそりと組み込まれていた。
表側のコンソールとは違い、真っ黒な筐体に、キーボードと古めかしいモニターだけ。電源ランプだけが、心臓の鼓動みたいにゆっくり点滅している。
「ほらね」
すぐ後ろに来ていた東雲が、小さく笑う。
「“裏”は、だいたい陰に隠れているものよ」
「こんなの、最初からあったか?」
「ラックを動かさないと見えない位置だな」
高科も追いつき、しゃがみ込んだ。
「電源は……生きてる。こっちの系統は、今まで触られてなかったっぽい」
「触られてなかったってことは、罠の可能性もあるってことだが」
立花は、眉間に皺を寄せる。
「今さらね」
佐久間が鼻で笑う。
「施設全体が罠みたいなもんだろ。今更一個増えたところで変わんねえよ」
「それもそうだな」
立花は苦い顔をしながらも、その場を譲った。
「電源、入れるぞ」
高科が、端末の横にあるスイッチを押す。
モニターに、灰色の起動画面が浮かび上がる。見慣れた実験棟のロゴではない。もっと無機質な、アルファベットだけのマーク。
そこに、英数字のログが一瞬流れ──やがて、シンプルなログイン画面に落ち着いた。
——PASSWORD:□
「やっぱりな」
高科が、口の端を上げる。
「管理者用コンソールだ。こっちに、本当の“設計図”があるはずだ」
「とはいえ」
三条が、モニターを覗き込みながら言う。
「パスワードが分からないと話にならないわ」
「総当たりで行けますか?」
凛が訊ねる。
「行けるか行けないかで言えば、行くしかない」
高科は、真顔でキーボードに手を置いた。
「でも、無限に試せるとは限らない。ロック回数が決まってるかもしれないし、変なところを突っつくと“自壊”する可能性もある」
「そんなにやばいシステムだと思うか?」
「名前一人分、きれいに消すような連中だぞ」
高科の返事に、全員黙るしかなかった。
「……じゃあ、考えましょう」
東雲が、静かに口を開く。
「ここを作った人たちが、どんなパスワードを設定しそうか」
「だいたいの会社は、安直な単語の組み合わせですよ」
佐久間が、肩をすくめる。
「“admin”とか“1234”とか、“hate”とか“love”とか」
「いかにもね」
三条は苦笑しつつも、真剣に考え始めた。
「この実験のテーマは、“相互嫌悪”と“選別”。それと、“ノイズ”。論文のタイトルに出てきそうな単語を組み合わせれば、多少は絞れるんじゃない?」
「さすが、論文読み慣れてる人の発想だな」
高科が、楽しそうに打ち込んでいく。
「HATE01。NOISE01。MUTUALHATE。SELECTION。…だめか」
画面右上には、小さく「ATTEMPT:3/10」と表示されていた。
「……やっぱり回数制限はあるみたいですね」
東雲が、目を細める。
「下手に総当たりを続けるのは危険だわ」
「十回でロックされて、そのまま“自動補正”とか洒落になりませんからね」
高科は一度手を離し、深呼吸した。
「ヒントになる情報、何かないか?」
「問診票は?」
凛が、管理室の別の端末に目をやる。
「かつて答えた“心理テスト”の設問や、ラベル。ああいうの、システム用語とリンクしてるかもしれないだろ」
「あるいは、この実験の内部名称」
三条が、頷く。
「論文ならまずタイトルがある。たとえば“相互嫌悪スペクトル実験”とか」
「やってみる価値はある」
高科は、一度ログイン画面を立ち上げ直した。
「あと七回。深呼吸してから行くぞ」
彼は、別端末に保存してあった設問の一覧をざっと目で追い、いくつかの単語をピックアップした。
「HATE-SPECTRUM」
エンター。
——ERROR。
「MUTUAL-SPECTRUM」
——ERROR。
「UNCONSCIOUS-HATE」
——ERROR。
ATTEMPT:6/10
額に汗が滲む。
「やめときましょうか」
月岡茜が、不安そうに言う。
「これ以上は、本当に……」
「いや、まだ行ける」
高科は、首を振った。
「“ノイズ”って言葉、どこかに出てこなかったか?」
「ノイズテスト」とか「ノイズ値」とか──
凛は、前に見たグラフのラベルを思い出していく。
「“NOISE-OUT”って表記があった気がする。『被験者間ノイズ出力』の略って注釈が付いてて」
「それだ」
高科は、素早く打ち込んだ。
NOISE−OUT。
エンター。
ほんの一瞬、時間が伸びたように感じた。
モニターのカーソルが点滅を止め──
——WELCOME, ADMIN.
画面が切り替わった。
「……やった」
月岡が、小さく息を漏らす。
「マジかよ、お前」
佐久間が、半ば呆れたように笑う。
「こんなクソみたいな実験に、“ノイズアウト”なんてダサいパス付けてんじゃねえよ」
「ダサいからこそ、だよ」
高科は、椅子に深く座り直した。
「研究者って、自分で考えた用語をすぐ大事にしたがるからな。まさか被験者に読まれてるとは思ってなかったんだろ」
「さすが情報工学」
東雲が、小さく拍手した。
「じゃあ、見せてもらいましょうか。本当の設計図を」
◇
管理者用コンソールのトップ画面には、いくつかのメニューが並んでいた。
「アルゴリズム設計」「実験プロトコル」「ログ出力」「被験者クラスタリング」。
その中で、ひときわ目を引く項目が一つ。
——NOISE GENERATION ALGORITHM(ノイズ生成アルゴリズム)
「これだな」
高科が、そのタブをクリックする。
画面いっぱいに、英語と専門用語が混じった文章が表示された。論文調の、冷ややかな文体。
凛は、英語の細部までは読めない。だが、ところどころに挟まれた日本語の注釈が、内容の輪郭を嫌でも浮かび上がらせた。
「……なんだよ、これ」
佐久間が、吐き捨てる。
「人の死に関する話を、よくこんなサラッとしたトーンで書けるな」
「読んでいきましょう」
東雲が、目を細めてスクロールを追う。
冒頭には「目的」と「仮説」が簡潔に書かれていた。
——目的:
——相互嫌悪に基づく集団内選別プロセスを、音響スペクトルとして可視化し、そのピーク値を用いたターゲット選定が可能か検証する。
——仮説:
——被験者群に蓄積された「相互嫌悪データ」を夜間ガス刺激下で増幅し、そのスペクトルを排気音として再生することで、集団の無意識における「排除したい固有名詞」を抽出できる。
「……“排除したい固有名詞”」
凛は、そのフレーズにぞっとした。
「つまり、『消えてほしい名前』ってことですよね」
「そういうことだな」
高科が、スクロールを続ける。
「具体的な手順が書いてある」
そこには、淡々とした手順書が並んでいた。
——1:オンライン心理テストおよび問診票により、対象集団の「嫌悪指標」「許容閾値」「攻撃性プロファイル」を収集。
——2:被験者をクラスター化し、相互に「嫌悪が集中しやすい組み合わせ」を抽出。
——3:実験棟に収容後、微量の睡眠導入ガスおよび扁桃体刺激ガスを投与。過去のトラウマ記憶を自動再生させる。
——4:被験者間の会話、視線、距離、表情筋変化をセンサーで計測し、「嫌悪スペクトル」として蓄積。
——5:夜間、排気システムを通じて蓄積データを音響化。スペクトル内のピークとして現れた固有名詞を検出し、当該名を「ターゲット」として選定。
——6:「ターゲット」名が検出された時点で、ガス室への致死ガス導入をトリガー。
「全部、仕組まれてたんだな」
佐久間が、乾いた笑いを漏らす。
「俺たちの会話も、視線も、顔をしかめた回数も、ぜんぶ数値にされて、『この名前が一番ムカつかれてます』って可視化された上で殺されてるってわけだ」
「“みんなの本音”とやらを、排気音に変換してるのね」
三条が、冷えた声で言う。
「加害者の顔を隠したまま、“集団の無意識”なんてかっこいい言葉でごまかして」
スクロールは、まだ続いていた。
——7:周期的な選別の継続により、「被験者群がどのようなパターンで他者を切り捨てていくか」を観測。
——8:選別プロセスが収束する条件を解析し、最終的に残存する「ターゲット群」が1名に収束するか、全名が音響スペクトルとして統合されるまで実験を継続。
「ここだ」
高科が、指で画面をトントンと叩いた。
「“最終条件”」
東雲が、それを日本語に訳す。
「『ターゲット群が一名になるか、全名がノイズ化するまで実験は継続される』」
「ターゲット群が一名、ね」
三条が、眉をひそめる。
「最後の一人、って意味でも読めるし……」
「もっと別の意味にも読める」
立花が、腕を組んだ。
「“ターゲット群”って言い方が気になるな。単なる“生存者”というより、最後まで『嫌悪の矛先になり続けた人間』ってニュアンスを感じる」
「最後まで憎まれ続けた一人?」
凛は、背中に冷たい汗を感じた。
「そんなの──」
「実験者にとっては、最高の“サンプル”なのよ」
三条が、吐き捨てる。
「“最後の一人が生き残るなら、そこに至るまでの死は全て正当化される”。『選別の結果、最適な犠牲者が選ばれました』ってね」
「それで論文一本書けるってわけだ」
佐久間が、皮肉たっぷりに笑う。
「『人は最後、一人を選んで切り捨てる』とかなんとか。知らんけど」
「でも──」
立花が、別の行を指差した。
「“全名がノイズ化するまで”っていう条件。ここ、気にならないか」
高科が、スクロールバーを少し戻す。
確かに、そこには分岐条件のような記述があった。
——IF:残存ターゲット数=1 THEN
—— 最終生存者プロトコルへ移行。
——ELSE IF:ALL-NOISE-FLAG=ON THEN
—— 全名音響スペクトル統合プロトコルへ移行。
「“ALL-NOISE-FLAG”……」
東雲が、小さくその単語を繰り返した。
「全名ノイズ化のフラグ」
「ってことはだ」
高科が、真剣な顔になる。
「このシステムは、『最後の一人』で終わるパターンと、『全員まとめてノイズになる』パターンの両方を想定してるってことだ。今までは前者だけ見せられてたが」
「全員まとめてノイズになる、ってどういう状態なんですかね」
凛は、自分でも問うのが怖い質問を口にしていた。
「今までは、一夜ごとに一人の名前を抽出して、その人だけガス室に送ってた。でも“全名ノイズ化”ってことは──」
「誰か一人を“選ぶ”プロセス自体を飛ばすんでしょうね」
東雲が答える。
「ターゲットの絞り込みをせずに、同時に全員の声をノイズとして統合する。『選別』ではなく、『集団消去』」
「それって、もう実験じゃないじゃないですか」
「だからこそ、“補正”とか“例外処理”扱いなんでしょう」
三条が、画面の端にある小さな注釈を指差す。
——※被験者数が閾値を下回った場合、または嫌悪指標の飽和により選別プロセスが進行しない場合、ALL-NOISE-FLAGの発火が許可される。
「つまり、《最後の一人を選ぶゲーム》が詰んだと判断されたときだけ、“全名ノイズ化”ルートに入る」
「でも、今のところ、そのフラグはオフのままってことだよな」
佐久間が、画面のステータス欄を覗き込む。
そこには、現在の各種フラグの状態が一覧になっていた。
——HATE-SELECTION:ON
——TARGET-COUNT:7
——ALL-NOISE-FLAG:OFF
「……OFF」
凛は、その表示を見つめた。
まだ、「全員ノイズ化」ルートには入っていない。
今のところシステムは、「最後の一人」を目指して動き続けるつもりだ。
「このまま行けば、七人の中からさらに六人がガス室送りになって、最後に残った一人が──」
「“最終生存者プロトコル”に回される」
高科が、苦々しそうに言う。
「その人間のデータだけが別枠で保存されて、『極限状況下で他者を切り捨て続けた個体』として分析されるわけだ」
「嫌な未来しか見えないわね」
三条が、肩をすくめる。
「私、そんな被験者No.1みたいな扱い、死んでもごめんだわ」
「死んでもごめんって言いながら、その前提がもう面倒くさいけどな」
佐久間がぼそっと突っ込む。
凛は、自分の胸の奥に湧き上がるイメージを振り払うことができなかった。
最後の一人として、ここを出る自分。
排気口のザザザという音と、夜ごとに呼ばれた名前たち。
ひかり。カイ。レン。なおや。つかさ。しん。
それから──名前を消された誰か。
その全部が、耳鳴りみたいにこびりついて、一生離れない。
外の世界に戻っても、空調の音を聞くたびに、誰かの名前が聞こえるのだろう。
それを「生き残った代償」として抱え込む。
そんな人生を、本当に誰かに押しつけたいのか。
「……無理だ」
思わず、声に出ていた。
「俺、そんなの無理です」
全員の視線が集まる。
「“最後の一人”がいる限り、それまでの死は『仕方なかった』ってことにされる。実験者にとっては。『選別の結果です』って」
凛は、拳を握りしめた。
「でも、こっちからしたら違う。誰一人、『正しく選ばれて死んだ』わけじゃない。ガスを流すボタンを押したのも、全部こっちの気持ちを勝手に掘り返したこの装置だ」
「同意するわ」
三条が、静かに言う。
「裁判だったら、そんな“選別プロセス”に正当性なんて与えない。加害者が責任を隠して、“みんなの無意識がそう望んだんです”なんて言い訳するのは最悪のパターンよ」
「じゃあ、どうする」
立花が、重い声で問う。
「このまま最後の一人になるまで互いを憎み合いながら生き残りを目指すのか。それとも──」
彼は、コンソールの別タブを開いた。
ガス室制御パネル。
そこには「通常運転」「ターゲット導入」と並んで、普段は灰色に沈んでいるボタンが一つだけあった。
赤い枠で囲まれた、そのボタン。
ラベルには、こう刻まれている。
——FULL VENT
「……何だよ、それ」
佐久間が、目を丸くする。
「初めて見たぞ、そんなボタン」
「今までは、こっちのコンソールからしか見えない設定だったのかもしれないわね」
東雲が、画面に顔を近づける。
「説明文は?」
高科が、ボタンにカーソルを合わせる。小さなポップアップが表示された。
——フルベント:ガス処理室内の各種ガス流入を停止し、室内ガスを外部系統へ強制排出します。
——※実行時、被験者がガス処理室内に存在する場合、死亡のリスクがあります。
「死亡のリスク、ね」
佐久間が、鼻で笑った。
「“リスク”どころか、ほぼ確定だろ」
「でも、今までの“ターゲット導入”とは違う」
東雲が言う。
「これは、通常の選別プロセスとは別枠の動き。『ガス処理室に自分から入って、外部系統に繋ぐ』という条件」
「それが、“全名ノイズ化”に繋がる可能性があるってことか」
立花が、画面の隅にある小さなフラグ欄を指差した。
——ALL-NOISE-FLAG:OFF
——FULL-VENT-AVAILABLE:ON
「フルベント実行中に、全被験者がガス処理室内にいる場合……」
高科が、別の設定ファイルを開く。
そこにも、冷淡な一文があった。
——※全被験者が同時にガス処理室内で死亡した場合、「全名音響スペクトル統合プロトコル」へ移行します。
「……やっぱり」
東雲が、目を閉じた。
「フルベントは、“全名ノイズ化”のトリガーになりうる」
「つまり、こうだ」
佐久間が、指を一本立てる。
「選択肢は二つ」
彼は、空中に数字を描いた。
「一つ、今まで通り“名前を呼ぶゲーム”を続ける。誰かが誰かを嫌いになって、ノイズに名前が浮かんで、そのたびに一人ずつ死んでいく。最後の一人が生き残るかどうかは、システム次第」
指が二本になる。
「もう一つ、全員でガス処理室に入り、フルベントを押す。“選別”に乗っかるのをやめて、全員まとめてノイズになる」
「どっちもロクでもないわね」
三条が、肩をすくめた。
「片方は、『最後の一人のために死ぬ』ゲーム。もう片方は、『誰のためでもなく死ぬ』ゲーム」
「どっちにしても死ぬんじゃないですか」
月岡が、潤んだ目で言う。
「私たちにとっての“生き残り”は、もう前提にないんですね」
「……そう見えるな」
高科が、コンソールから目を離した。
「少なくとも、システムの設計図の上では」
沈黙が落ちる。
排気口からは、昼間だというのにかすかなノイズが漏れていた。ザザザ、と、遠くのラジオみたいな音。
そのざわめきが、今この瞬間も彼らの感情を撫で回し、グラフの上に「嫌悪スペクトル」として積み上がっているのだろう。
「……東雲さん」
凛は、彼女の横顔を見た。
「あなたなら、どっちを選びますか」
「私?」
東雲は、少しだけ考えるように目を伏せ、それから視線を上げた。
「私は、こう思うの」
彼女は、コンソール画面と、そこに映る「FULL VENT」の赤いボタンを見比べながら言った。
「この実験は、最初から“最後の一人”を求めているわけじゃない。“最後に残るのは、みんなの憎しみを一身に集めた誰かだ”という前提に、私たちを押し込めたいだけ」
彼女の声には、少しだけ怒りが混じっていた。
「でも、本当にそうなのかしら。私たちの中に、『誰か一人を責め続けて終わる未来』しかないのかしら」
凛は、息を呑む。
「……違う未来も、あるってことですか」
「あるかどうかを、“選べる”のは、たぶん今だけよ」
東雲は本気の表情になった。
「このまま最後の一人になるまで互いを憎み合いながら生き残りを目指すのか。それとも、“全員ノイズ化”という形で実験をぶっ壊すのか」
彼女は、振り返って全員を見渡す。
「選択を迫られているのよ、私たち」
「でも、“全員ノイズ化”って、要は全員で死ぬってことですよね」
月岡が、震える声で言う。
「それだって、“実験の一部”なんじゃ……」
「そうかもしれない」
東雲は否定しなかった。
「実験者は、『全名統合』というデータも欲しがっている。だからこそ、このフラグを用意した」
「だったら、やる意味なんか──」
「でもね」
彼女は、ゆっくり首を横に振る。
「少なくとも、その場合、『最後の一人』は存在しない。誰か一人に罪とノイズを押しつけることにはならない」
凛の胸に、その言葉が刺さった。
「今まで私たちが感じてきたことを思い出して」
東雲は続ける。
「藤咲さんが死ぬときも、牧野くんが死ぬときも、百瀬さんが死ぬときも、志村さんが死ぬときも、北条くんが死ぬときも、御子柴さんが死ぬときも……そのたびに、誰かが“あのとき自分がああ思わなければ”って自分を責めてきた」
それは、自分も含めた「誰か」だった。
「このまま最後の一人になるルートを選べば、その“自分を責める声”が全部一人に集まる。それは、実験者が望んでいる『理想的なサンプル』かもしれないけれど──人間としては、あまりに残酷だわ」
「……」
凛は、言葉を失っていた。
自分が最後の一人になる未来を想像する。
自分が誰かを選んだわけじゃないのに、自分の名前以外の全てがノイズに溶けていく。その罪悪感を、一生背負って生きる。
それが「生き残り」だと言われても、到底頷けない。
「一方で、“全員ノイズ化”を選べば」
東雲は、続ける。
「私たちは全員、等しくノイズになる。誰か一人を特別扱いしない。実験者からすれば、選別プロセスは途中で崩壊する。『最後の一人を選ぶ』という目的は、達成されない」
「それが、実験を“壊す”ことになる、と?」
「完全に壊せるとは限らない。でも、少なくとも『この実験は必ず最後の一人に収束する』という前提に、ノイズを走らせることはできる」
東雲は、赤いボタンから視線を外さない。
「全名ノイズ化──全員分の声が、一度に排気音に溶ける。そのノイズが外の世界に何をもたらすかは分からない。被害を広げるだけかもしれないし、真相を露わにするトリガーになるかもしれない」
「賭け、ってことね」
三条が、静かにまとめる。
「“最後の一人”に賭けるか、“全員のノイズ”に賭けるか」
「そう」
東雲は、頷いた。
「どっちも正解じゃない。でも、“選ばなかった側”が自動的に採用されるわけじゃない。システムは、私たちが何もしなくても、“最後の一人”ルートに進むようにできている」
「つまり」
凛は、喉の奥の乾きを感じながら言った。
「何もしないってことは、『最後の一人を認める』ってことですよね」
「ええ」
東雲は、まっすぐ彼を見る。
「だからこそ、考えなきゃいけない。『誰か一人が生き残る世界』を残すのか、『全員がノイズになる世界』を残すのか」
ノイズが、すぐ頭上から染み込んでくるように聞こえた。
ザザザ──。
そこにはまだ、誰の名前も浮かんでいない。
だからこそ、今ここで交わされている会話が、そのままスペクトルとして積もっていくのだろう。
「……俺は」
高科が、ぽつりと言った。
「直感的に、あのボタンが嫌いだ」
凛も、同じ感覚を抱いていた。
赤く光るFULL VENT。
それが、まるで「早く押せ」と誘っているみたいに見える。
「でも同時に、あれが“全名ノイズ化”の引き金でもある気がしてる」
高科は、自分の胸に手を当てた。
「今までの“選別”ルールは、全部あいつらが決めたものだ。俺たちはそれに乗っかるしかなかった。けど、あのボタンだけは、“こっちから押すかどうかを選べる”」
それは、唯一自分たちの手に残された選択肢だと言ってもいい。
「選択肢は二つ、ってことか」
佐久間が、ゆっくり確認するように言った。
「このまま最後の一人になるまで互いを憎み合いながら生き残りを目指すか。それとも、全員でガス処理室に入ってフルベントを押すか」
「そのどちらかを、近いうちに決めなきゃいけない」
東雲が、静かに言い切る。
「名前を消された人のことも含めて、ね」
凛は、空白のK−09の行を思い出した。
あの人には、「最後の一人」になるチャンスすら与えられなかった。
悼まれることもなく、名前を呼ばれることすらなく、消された。
その理不尽に、言葉が出ない。
「……ごめんな」
誰に向かってなのか、自分でも分からないまま、凛は小さく呟いた。
コンソールの上では、赤いボタンが静かに光っている。
ノイズの設計図は、冷たく「どちらでもいい」と言っているようだった。
ターゲット群が一名になるまで続けるか。
全名がノイズ化するまで続けるか。
決めるのは、お前たちだよ──と。
その夜、誰もすぐには結論を出せなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていたのは。
どちらのルートを選んでも、「誰か一人だけを生かして終わる」という甘いエンディングは、もうどこにも用意されていない、ということだった。




