第1話 目覚めたガス室
■登場人物
・黒川凛
高校二年生。いじめを見て見ぬふりをしてきた自分を卑怯だと自覚している。
・佐久間晶
二十代前半のフリーター。裏アカでの誹謗中傷が原因で一人を追い詰めた過去を持つ。
・東雲遥
臨床心理士見習い。冷静だが、自身も過去の研究で倫理ギリギリの実験に加担している。
・牧野カイ(まきの カイ)
情報工学系の大学生。ハッカー気質で施設のシステム解析を試みる。
・百瀬蓮
アイドルグループの元メンバー。炎上騒動の火種を自ら作ったことを隠している。
・御子柴慎
元教師。ある生徒を守るために他の生徒を切り捨てた選択がトラウマ。
・月岡朱音
看護師。医療ミスを「事故」として処理させた負い目を抱く。
・立花玲二
ベンチャー企業の若手エンジニア。安全性無視の製品開発に関わり、人身事故の遠因となった。
・三条真琴
法科大学院生。弱い依頼人を切り捨てる弁護士を目指していると公言する皮肉屋。
・高科颯太
大学院で音声工学を研究中。ノイズ解析の中心人物。
・志村直哉
元刑事。冤罪の可能性を知りつつも検挙率を優先した過去がある。
・藤咲ひかり(ふじさき ひかり)
インフルエンサー。フェイク情報を拡散しても「数字がすべて」と割り切ってきた。
・北条司
この中で唯一、事故被験者として本当に何も知らされずに連れて来られたように見える少年。だが実際は……。
誰かの寝息が近い。そんな気配がして、黒川凛はゆっくりと目を開いた。視界に飛び込んできたのは、灰色の天井と、むきだしの配線が這う蛍光灯の白い光だった。
瞬きすると、冷たい空気がまつわりつく。床も壁も天井もコンクリートで固められ、装飾は一切ない。工場の倉庫をそのまま寝室にしたような空間。そこに簡素なスチール製のベッドが整列し、それぞれに人間が寝かされている。
凛は上体を起こし、状況を理解しようとした。しかし頭が重く、記憶に靄がかかっている。どうしてここにいるのか、直前まで何をしていたのか、それすらぼんやりしていた。
周囲でも、同じように次々と人が目を覚まし始める。
「ここ、どこだよ……」
「誘拐か? いや、でも……」
困惑した声、呻き声、ざわめきが部屋中を満たす。凛の隣のベッドでも、女子高生らしき少女が目をこすりながら身を起こした。肩までの黒髪と、寝起きのせいか半分閉じた瞳が印象的な子だ。
「……あれ、凛くん?」
「知り合いだっけ」
「あ、違う。ごめん。同い年くらいかなって」
藤咲ひかりと名乗った少女は、周りを見渡して不安げに眉を寄せた。それは凛も同じだ。十三台のベッド。年齢も性別もバラバラの十三人。
なぜこの十三人なのか。なぜ選ばれたのか。
答えはどこにもなかった。
凛はまず部屋の出口を確かめようとした。扉は一つ。金属板が何重にも重なったような分厚い電子ロック扉だ。外側には取っ手も鍵穴もない。
ドアの上部には、淡い緑のランプが静かに点灯している。
「開かない……」
力の強そうな青年が扉を引いたり押したりしているが、びくともしない。無理に壊せるような造りではなかった。まるで、出ることを最初から許されていない施設のように。
部屋の空気は冷たく、かすかに機械油の匂いがした。その中で一番目立ったのが、天井の排気口から流れ続ける「ゴォォ……」という低いノイズだ。工場の換気システムが動いているような音。
やがて、年配の男が静かに立ち上がった。背筋が伸び、鋭い目つき。後で聞いた話だが、彼は元刑事の志村というらしい。
「まず状況を整理しよう。ここは、個人の犯行の域を超えている。設備の規模が違いすぎる。誘拐だの監禁だの、犯罪じみた匂いは逆にしない」
「じゃあなんなんだよ。国家とか、大企業とか、そういうアレってこと?」
「そういう可能性が高いということだ。目的は不明だが……我々は何らかの“サンプル”扱いかもしれない」
サンプル。被験者。そんな言葉がざわりと全員の背筋を冷やした。
「俺たち、実験動物ってことかよ」
若い男が声を荒げる。中年夫婦らしき二人は肩を寄せ合って震えている。ひかりも不安そうに指を組み、落ち着かずに足元を見つめていた。
そのとき、部屋のスピーカーが突然、機械特有の無機質なブザーを鳴らした。
全員が同時に顔を上げる。
「被験者十三名に告ぐ」
金属をこすったような声が天井から降ってきた。
「現在、施設内の安全が確認されておりません。安全が確保されるまで、被験者十三名は当室にて待機してください。繰り返します──」
被験者の一語で、凛の心臓は嫌な跳ね方をした。
誰もが凍りついたまま、スピーカーの続きを待った。しかし、それ以上の説明はなく、音声は遮断された。
「ふざけんな……どういう意味だ」
「安全? 何が危険なんだよ」
混乱がさらに膨らむ。が、その中で志村だけは、どこか達観した目をしていた。
「あの声から察するに……これは、単純なイタズラや犯罪ではない。規模も、設備も、整いすぎている。公的な研究施設か、それに近い組織が関わっている可能性が高い」
「つまり、誰かに観察されてるってこと……?」
ひかりの声は震えていた。
そのとき、部屋の隅にある別の扉が目に入った。こちらは横幅が大きく、まるで銀行の金庫のような鋼鉄の塊だ。そして、その扉には白い字でこう書かれていた。
「ガス処理室……?」
凛がつぶやくと、周りの数人も同時に顔を向けた。
「なんだそれ。ガスって、毒とか、殺虫とか……」
「冗談やめろよ。こんなもん本当に使われるわけ──」
しかし冗談で済ませる空気ではなかった。扉には緑色の警告灯が灯り、上部には太いパイプと排気用のダクトが複雑に絡み合っている。どう見ても危険物を扱う区画にしか見えなかった。
誰も近づこうとはしなかった。
その日の夜、部屋の照明が自動的に落ちた。直前まで無機質な白光だった蛍光灯が沈み込み、赤い非常灯だけがぼんやりと床を照らす。
眠れるはずもない。不安と恐怖がまとわりつき、誰もが目を閉じるのをためらっていた。だが、疲れていたのか、やがて部屋のあちこちで寝息が響くようになった。
凛も横になったものの、睡魔は遠かった。
それに、気になる音があった。
天井の排気口から聞こえる、あの低いノイズ。昼間よりも暗くなると、不思議とその音が大きく聞こえる。まるで、耳元でささやかれているような気味の悪さを含んでいた。
「なあ、ひかり。なんか変な音、聞こえない?」
隣のベッドのひかりにそっと声をかける。しかし、ひかりは布団にくるまりながら、半分寝た声で答えた。
「聞こえないよ……。もう寝たい……」
「いや、本当に……なんか、声みたいな──」
その瞬間だった。
ノイズが、ふっと途切れた。
ほんの一秒か二秒。しかし、その一瞬がやけに長く感じた。
そして。
「……ひかり」
確かに、誰かの人間的な声が混じった。
ささやきでも、幻聴でもない。凛は反射的に跳ね起きた。背筋が冷たくなり、心臓が跳ねる。
しかし、次の瞬間にはもう、ノイズが元の砂嵐のような音に戻っていた。
「今……聞こえたよな? ひかり?」
だが彼女はすでにすやすやと寝息を立てていた。どうやら本当に聞こえていなかったらしい。
凛は自分の耳を疑う。しかし、あれは確かに、誰かが「ひかり」と呼んだ声だった。
気味が悪い。だが同時に、胸の奥で嫌な予感が疼いていた。
今のは偶然ではない。意味のある“名前”だった。
翌朝、凛は不安な面持ちで点呼を取るメンバーに加わった。眠気と疲労が溜まり、全員の顔はひどく青ざめている。だが凛はある人物の名前が呼ばれるのを心臓を締めつけられる思いで待った。
「藤咲ひかり……?」
沈黙が落ちた。
「ひ、ひかり? どこ行ったの?」
「女子が一人いないぞ」
凛の胸が一気に冷たくなる。まさか。まさか昨夜の……。
探し回るものの、ひかりの姿はどこにもなかった。トイレも部屋の隅も、どこにも。消えたように。
そのとき、ガス処理室のランプが、緑から赤に変わり、次に──青へと変わった。
金属音が響く。解錠の音だ。
全員が恐怖の顔で扉を見つめた。
誰かが震える手で扉を押し開ける。冷気と、金属臭の混じった空気が流れ出てくる。
「……っ」
床に、ひかりが倒れていた。
死んでいる。顔は苦痛にゆがみ、口元には泡のような跡が残っていた。窒息死のような形。
凛の膝が震えた。
天井の排気口からは、相変わらず一定のノイズが続いている。
まるで、何事もなかったように。
しかし凛には、確信に近いものが芽生えていた。
あのノイズはただの音じゃない。
名前を呼んだ。
ひかりの名前を。
そして今、ひかりは死んだ。
誰かが呼べば、誰かが死ぬ。そんな理屈の通らない恐怖が、凛の喉をゆっくりと締め付けた。
いや、それだけではない。もっと恐ろしい現実が背後に潜んでいる気がしてならない。
あの声は──俺たち自身の声に似ていた。
気のせいじゃなければ。
次に名前を呼ばれるのは、誰だ。




