慣れない日常(2)
土曜日。部活の見学に行くついでに学校の敷地を見てみようと思ったのがいけなかった。グラウンドは学校と反対方向にあるといわれ、そちらに向かってみたのだが、少し寮から離れるとそこは天然の森になっていた。
学校の敷地に森とは恐れ入るが、とにかく馬鹿みたいに広いのは確かだ。道がついていたので、つい散歩気分で進んでいたら完全に方向を見失って迷子になってしまった。
道が切れてぽっかりあいた広場のような空間で、恭介は立ち止まり周りを見渡した。背の高い木が周りをすっぽり覆っていて、その向こうにあるものは全く見えない。来たほうへ引き返してきたつもりだが、全く検討違いの方へ歩いていたらしく、同じ道には二度と出ない。
そういえば、方向音痴だったことを思い出して、恭介は少し落ち込んだ。
しばし、立ち尽くし、耳を澄ますと水音が聞こえた。
水の音なら噴水か、川かとにかく開けて見通しもあるかと恭介は水音のするほうへ歩いていく。かなり細い道を五分ほど行くと、東屋のような場所に出た。水音は、その後ろから聞こえるようだ。木でできた5本の柱に5角形の屋根がついていて、各辺に木のベンチがついている。池や湖は見えないので、川があるのかと予想して、恭介はその東屋に入ってみた。
人だ。
恭介は、驚いて一瞬後ろに下がった。入って左手のベンチに人が寝転がっていた。長いまつげが驚くほど白い肌に影を落とし、栗色の髪はかすかにウェーブがかかっている。鼻筋が通り、あごが細く小さい。これで、目を開けたら瞳が緑でも驚かない。
まるで、ギリシャの塑像のような美しい顔と寝ていてもわかるその細くしなやかな肢体に見とれてしまった。寝ているのだろうが、生きているのかと疑いたくなるように全く動かない。
この学校の生徒だよな。
私服姿なので、よくわからないが、敷地内にいるのだから、生徒なのだろう。起こしてはいけないと恭介は後ずさった。
そのとき、床に落ちていた木の枝を踏んだ。枝が床板をすべり、恭介はくずれた体制を立て直すべく、足を踏ん張った。
ばんっっ!
威勢のよい床板を踏む音が東屋に谺した。
やばいと思ったときには後の祭りで、ギリシャ神話の少年神のような少年がゆっくり目を開き、けだるそうにその髪をかきあげた。
その様があまりにも怠惰で妖艶に見え、恭介はごくりと喉をならした。
「だれ?」
開いた瞳は、黒かったが光の加減で左目が赤、右目が緑かかっている。綺麗なアーモンド形の目に射抜かれて、恭介は声も出せなかった。一瞬、その少年の後ろに金色の羽が舞う幻を見た気がする。
「あ、新入りの一年だ」
このような反応には慣れっこなのか、とくに嫌な顔もせず、恭介を見ていった。
「す、す、すいません。起こすつもりはなかったんです」
ぺこりと頭を下げる。なんだか、恥ずかしくて顔に朱が上る。
「道に迷ってしまって。部のグラウンドに行きたかったんですが」
恭介の言葉にくすくすと嗤う声が重なった。顔を上げると昏く、嗤う様が妙に退廃的でどきりとする。
「グラウンドは、まったく方向が違うよ」
するりとベンチから降りて、恭介のそばに近づいた。思ったより背が高い。恭介と変わらない身長がある。
「ここに僕がいることは誰にも言わないで欲しいんだけど」
真正面から見つめられ、どぎまぎする。
「といわれても、僕はあなたを知らないのですが」
声も心なしか小さくなってしまう。
「おやおや、僕を知らないの。もう5日もここにいるのに?」
知ってて当たり前のように言われるが、これだけ綺麗なら確かに知らないほうがどうかしているかもしれない。しかし、寮で見かけたことはない。
「僕は、2年の似鳥 玲。君は、確か恭介だよね」
知らない人にいきなり名前で呼ばれてしまった。しかし、相手は先輩で文句も言えず、首を縦に振る。
「ふうん、恭ってよく見るとかわいい顔している」
そんなことを言われ、頬に沿って指を這わされて、恭介は体をこわばらせた。確かに女顔で、性別は良く間違えられるが、男に可愛いとか言われたくない。
「あの、グラウンドの行き方を教えてくだされば、退散します・・」
蛇ににらまれたかえるのように指一本動かせず、恭介は、なんとかここから離れようと道を尋ねた。
「どうしようね。君に僕の居場所を話されると困るんだよ。ずっとここにいてもらおうかな」
よくわからないが、物騒なことを言ってくれる。
「似鳥さん、ふざけてないで教えてください。昼寝の邪魔をしたのは本当に申し訳ありませんが」
「そうだね。それもあった。じゃあ、これで勘弁してあげるよ」
そういうなり、似鳥は、恭介の頬に唇を寄せ、軽く音をたててキスをした。
何をされたか瞬間わからず、理解したときには顔に血が上る。真っ赤になった恭介を面白そうに見つめる。
「グラウンドは、ここの道を戻って、寮の北の出口から出てすぐだよ」
要するに寮の出口からして間違っていたらしい。
「だれにも言わないでね。気が向いたらまたおいで」
耳元で囁くように念を押され、最後に耳に息を吹きかけられて、その耳を押さえると飛び退った。
それをみて似鳥はまた笑うと、くるりと背をむけ、もとのベンチにごろりと横になった。
恭介は、そのままずるずる後ずさって、東屋を抜けると一目散に駆け出した。
頭の中は真っ白だ。からかわれたのはわかるが、なんでキスなんて。
思っただけで、顔に朱がさし、恥ずかしさで身がすくみそうだ。
全力疾走で、言われた道を一直線に駆け抜けると寮が見えた。入り口に来るとひざに手をつき、肩で息をしたが、ひどくほっとした。
見知った場所で、息を整えていると先ほどのことが、夢みたいに思えてくる。それもたちの悪い夢。
揶われただけだと自分に言い聞かせ、恭介は寮の中へと戻った。