文化祭準備(2)
文化祭までの1週間は、恭介にとっても後で思い出したくもないものだった。
「嫌だ。もうできない。はなせっ」
手を振りほどき、恭介は床に崩れ落ちる。
目の前に立つ月嶋の目線が痛い。
かがみこんで、腕を取られる。
「もう、時間がないんだ」
「だからって、こんなの。もう、嫌だ」
腰に手を回され立たされる。反対の手で、顎を捉えられ、目線を合わせられた。
「いや。もう、できない」
そんな至近距離で睨まれてもできないものはできない。
「甘えたこと言ってるんじゃない。踊れないのは、お前だけなんだぞ」
月嶋の部屋で夜な夜な繰り広げられるワルツの特訓にすでに恭介は何度目かわからない音を上げた。
去年の成果とかで、生徒会室で見せてもらった玲のダンスは溜息が出るくらい綺麗で、簡単そうだったのに。
「三拍子で足を移動させるだけなのに、なんでできないんだ」
「そんなの俺がききたい」
月嶋が大きくため息を吐く。
「運動神経はいいはずなのに」
身体を離して、月嶋は再度溜息をついた。
「僕のリードに逆らわなくていいんだから」
確かに、男性リードの足さばきに素直についていけばいいのだが、月嶋に身体を支えられて、見つめられると身体がこわばって、うまく動けない。
「羽賀と練習した時は、なんとなくできたんですけど」
フォークダンスかと周りから揶揄われたことは黙っておく。
「じゃあ、なんで僕とだとできないの」
緊張してなんて言えない。
黙っていると月嶋はつかつか寄ってきて、また顎を掬われた。
「困った子だね。僕が怖い?」
そうやってアップで迫らないで欲しい。黒い瞳が至近距離で瞬く。
鼓動がとくんと跳ね上がった。顔が近付いてくる。
キスされるっ!
とっさに目を閉じた。
「抵抗しないんだね」
なにもされず言われた言葉に目を開けると、さらに近いところから見つめられていた。
そうだよ。抵抗しないと。嫌だって言えばいいんだ。
頭の中で言葉が回るが口からはなにも出てこない。身体が硬直したままで、まるで自分じゃないみたいだ。
この瞳で見つめられると嫌だと言えない。どうしよう。
視線を逸らして、俯こうとするが、顎を長い指で固定されてそれは許されない。
俺、このままこの人にキスされてもいいのかな。
自問するが答えはない。
身動きできない恭介を月嶋はいきなり離した。上から大きなため息が聞こえる。
「今夜はおしまいにしよう」
がっかりさせた、恭介は哀しそうに月嶋を見る。
「恭介。もう少し、僕を信用してくれないか」
「してます」
他にすがるところはないのだから。
「そうかな。僕は君の望むままにと言ったはず。だけど、きみはそれを信じていない。それとも僕が好きで嫌われたくないという理由ならそう云って欲しい」
俺が月嶋さんを好き?それもそういう意味で。これにも答えは返らない。
「考えておいて。練習はまた明日」
促されて、部屋を出る。
後ろ手に扉を閉めたら、涙が出た。
「遅かったな」
扉をそっと閉めたが、ベッドに横になってこちらに背を向けて寝ていると思った風見が言葉を投げる。
「すいません、起こしてしまいましたか」
声が掠れないように気をつける。
風見は、くるりと身体を反転させ、こちらを向いて起き上がる。
「そんなこと気にしなくていい。何かあったのか」
「ワルツが踊れなくて」
泣いた後だと悟られたくない。できるだけ平坦に答える。
「静は厳しいからな。俺でよかったら練習付き合おうか」
風見さんは優しい。僕がこの人の気持ちを受け入れられないのを知っているというのに。
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですから」
ここで甘えたらもっと風見さんを傷つける。だから、できるだけそっけなく言う。
「そうか。あんなもの形だけなんだから、適当でいいんだ。静は完ぺき主義者だからいろいろ喧しくいうんだろうが。気負わなくていいんだからな」
本気で心配してくれる気持ちが嬉しくて痛い。
いい先輩だと思っていられたら良かったのに。
駄目だ、涙が出るかも。俺、最近なんだかとても気弱になっていて絶対おかしい。こんなに他人を頼る性格じゃなかったはず。
「遅くに起こしてしまってすみません。俺ももう寝ます・・・」
言ったところで、そばまで寄って来た風見に頭を前に倒された。額が風見の胸に当たる。
「泣きたいときは泣けよ」
抱きしめるわけでもなく、自分の前に立って胸を貸してくれる風見に堪えていた涙が止まらなくなる。何が哀しいわけでもないのに涙は止まらない。
この人たちの優しさが哀しいのか、それとも月嶋さんを満足させられないからなのか。
「お前さ。自分が大変な時に、他人の気持ちなんて考えなくていいんだ」
恭介の身体がピクリと揺れる。
「俺はお前に告げたことは後悔してないけど、それは、俺が勝手に思っていただけなんだから」
何にこだわっているか、完全にばれてる。それに今過去形だった。
「自分のことだけ考えてろよ。それでいいんだ」
言葉が心にしみて、さらに涙が出る。どうにもならないほど恭介はしばらく泣き続けた。
何も言わず、どこにも触れずに風見はただ恭介が頭を預ける胸を貸し、そのまま佇み続けた。
しばらく、そのまま思い切り泣いた。こんなに泣いたのは思い出せないほどだ。それも他人の前で。
恭介はそっと風見の胸を平手で押し、頭を離す。
「風見さん、すみません。ありがとうございました」
腕で涙を拭って笑って見せる。
「なんか泣いたらすっきりしました」
「おまえなあ。まあ、いいか。少しは自分の心と向き合って生きないとそのうち息もできなくなるぞ。辛い時は泣くか怒る。楽しい時は笑う。そうしないとどこか壊れるからな」
「はい」
答えてまた笑う。この人と二人きりなのに、普通に笑える自分がいるなら大丈夫かもしれない。
「それなら、寝るぞ。明日も早いんだよな。だろ?鬼の会長さんが手ぐすね引いてやがるし」
「い、言わないでください・・・」
「あと、3日で文化祭だ。それも2日。今週が終わったらこんな生活とはおさらばだから、がんばろうな」
逃げ腰になったところを笑われ、笑顔で励まされて、恭介は思い切り頷いた。