猫になった
私は、窓ガラスに反射した自分の姿をまじまじと見つめた。
頭には三角の耳がピンと立ち、意志を持ったようなしっぽはくにゃりと曲がる。
身体は茶色く、手足だけ靴下を履いたように白い。
首元には、先程まで頭に付けていた赤のリボンが首輪のように巻かれてある。
瞳は――猫になっても、チョコレートのような深い茶色だった。
「え……猫なんですけど……」
「だっておまえ、猫になりたいと言っていただろう」
「言ったけど……」
「お望みどおり、猫の姿だ。気に入ったか」
お兄様は満足げに微笑んでいる。
一瞬で私を猫にしてしまうなんて兄はやっぱり天才だ。変人だけど。
…………。
「いやあ!!」
「なんだ!?」
私は叫んだ。
まさか本当に猫になるなんて思わなかったのだ。猫になりたいだなんて、ただボヤいただけだった。愚痴のようなものだ。それを本気にして、妹を猫にしてしまうなんてどうかしてる。正気の沙汰ではない。
「こ、これっ、元に戻るのよね?」
「元に……? 戻りたいのか?」
「当たり前でしょ!? 猫のままで、明日からどうやって生きていくのよ」
嫌な予感がした私は、ふと周りを見渡した。我が家の猫達が、新参猫の私を遠巻きに警戒している。
彼らの顔に浮かぶのは「あれは誰だ」と言わんばかりの表情。地味に傷つく。さっきまであれだけ私の上に乗っていたのに……
そのうち、いちばん大きなボス猫――古参猫が、私にじわじわと威嚇を始めた。低く唸る声に、剥き出しのキバ。本能的な恐怖を感じる。
こうして猫になって見ると、彼は異様に大きかった。小柄なメス猫の私には勝てる気がしない。
「ひぃ……ちょっと、お兄様! 助けてよ!」
「おお、ロミナも猫達に嫌われてるな! 俺の気持ちがわかったか?」
「嫌われているどころじゃないわ! 命の危険を感じているのよ! お願い、なんとかして……!」
「そうだなあ」
一旦、私は兄にひょいと抱き抱えられた。これで命の危機からは回避された。
しかし問題はここからだ。下から感じる、猫達の鋭い視線。早く元に戻してもらわなければ、私は死と隣り合わせで生きていく羽目になる。
「早く……! 戻し方、その本に書いてあるんでしょ?」
「書いてはいない」
「え?」
「戻し方は――分からない!」
兄は悪びれるでもなく、事実のみを高らかに答えた。
え……今、戻し方は分からないと……そう言ったの?
「こ、困るんですけど……?」
「でもロミナ。消えたい、猫になりたいと言っていたじゃないか。願い叶ってなぜ困る? 兄はおまえの望みを叶えただけなのに」
「この変人!」
「よく言われる」
だめだ、兄では話にならない。なぜ神はこんな変人に魔術の才能を与えてしまったのか。
兄がだめなら、他の誰かに魔術を解いてもらうしかない。兄と同じく魔術に長けていて、こんな馬鹿げたお願いを聞き入れてくれそうな人物。そんな人いるだろうか。
「――オルランドに頼むか」
「え」
「あいつ、猫を飼いたいと言っていたし」
「オルランドって、あのオルランド・クルス様?」
オルランド・クルス様。
兄の幼馴染であり、学友であり、ともに魔術師団へ入団した秀才だ。そして、真面目で優しい常識人。なぜこの兄と幼馴染でいて下さるのか分からない。
「だ、だめよ」
「なぜだ。あいつなら安心してロミナを任せられる。魔術の解除も得意だというし」
「こんな馬鹿げたことにオルランド様を巻き込まないでよお……」
オルランド様は、私の憧れの人なのだ。
名家クルス侯爵家のご令息なのに、それを鼻にかけない穏やかなお人柄。加えて、美しい黒髪に神秘的な青い瞳を持ち、その麗しい見た目は世の女子達を虜にした。学園卒業時には、見送る女子学生達で花道が出来たという伝説も残っている。そんな雲の上の人なのだ。
一方、私ときたら……婚約者に浮気された挙句に婚約解消を言い渡され、その拍子に転けて怪我をし、卒業試験は失敗、魔術師団への道は絶望的、ショックで落ち込んでいたら変人の兄の魔術で猫にされてしまうという……不幸を通り越してただの変な女なのである。
「ぜ、絶対にやめて」
「行くぞ、クルス侯爵家に」
「お兄様、話聞いてる?」
暴れる私を抱き上げたまま、お兄様は問答無用で歩き出した。
いくら腕の中から逃げ出そうとしても、お兄様の大きな手にするりと掴み取られてしまう。さすが猫好きなだけある。この日ほど、お兄様の妹として生まれたことを呪ったことは無い。
「大丈夫、オルランドは……おまえには優しくしてくれる」
「オルランド様が優しいだなんて分かってるわよそんなことは! こんな私を見せたくないって言ってるの!」
「術が解けなくても、オルランドのところで飼ってもらえばいい。そうしよう」
「話を聞けって言ってるでしょ!?」
兄に話が通じない。前々からまともな会話はできない人ではあったけど、今日は特に私の声が聞こえていない。見上げた兄の顔は、猫を抱いて満足そうだ。
(いやだ……こんな姿でオルランド様に会うなんて!)
全力の抵抗もむなしく、私はされるがまま馬車に乗せられてしまったのだった。