お屋敷へ帰りたい
「私は、ただの人間なんです」
少しだけ声は小さくなってしまったけれど…私、は正直に打ち明けた。
「人間……? 猫なのに?」
「魔術で、猫の姿になっているだけなのです」
「そんなことって……」
アルマディウス殿下は、呆然とした様子でこちらを見下ろしている。ショックだったのかな。神の使いと思っていた猫が、ただの人間だったのだから。
幻滅するだろうか。でも仕方がないこと。殿下がわたしに幻滅すれば、私がここにいる理由もなくなる。お役御免となって、すぐにでもここから解放されるだろう。
(そうなったら急いでクルス侯爵家へ帰らなきゃ……! オルランド様が任務から帰ってくる前に!)
「――名前は」
「えっ?」
「人間なら、名前があるでしょう?」
殿下は私の名を気にしている。
もしかして、名前を覚えられてしまう? 王子を欺いた不届き者として、記録されてしまうのかもしれない。しかしこうなった以上、名乗らないわけにもいかず……私はやむを得ず口を開いた。
「ロミナ・モントンと申します」
「モントン……もしかして、魔術師フェリックス・モントンのご兄妹ですか」
「はい。妹でございます。その……兄の魔術で猫にされまして」
「歳は?」
年齢まで聞かれるとは思わず、私は一瞬たじろいだ。
「えっ……十八でございます」
「なぜ、昨日はあの場所に?」
「殿下のお声が聞こえて……駆けつけたまでです」
「あのように強力な魔術が使えるのはどうして?」
「それが私にもよく分からないのです……猫になって、魔力が強くなったのかも」
殿下からの質問攻めに、私は嘘偽りなく必死に答え続けた。本当に人間なのかどうか、まだ疑う余地があるのだろうか。これで気が済んで下さればいいのだが。
「……まさか、神使様が人間だったなんて」
「殿下のご期待に添えず申し訳ありませんでした。けれど、殿下にはきっとこれから運命のお導きによる出会いがたくさんおありでしょう。どうか気を落とされず……」
「いえ、やはりこれは運命の出会いです」
「はい?」
殿下は私を抱き上げた。その瞳はキラキラと輝き、猫をまっすぐに見つめている。なぜ?
「僕は王族……皆と違う自分に、強い孤独を感じていました。けれど昨日、自分より異質な存在に出会えた。ロミナ、あなたです」
「い、異質」
殿下は私を貶しているのだろうか。
その顔に悪気はなさそうだけれども。
「ロミナは僕を『普通の子供』だと言ってくれた。生まれて初めて、ロミナの前でだけ……僕は普通になれたのです」
「いえ、それは殿下の正体に気付かなかっただけで」
「王子を『普通』だなんて言えるのは神の使いくらいかと思いましたが、あなたはちゃんと人間だった。ロミナ……僕の恩人。どうかずっとそばにいてくれませんか。あなたがいれば、孤独なんてきっと吹き飛んでしまう。僕には、ロミナが必要なのです」
「ええ……」
困ったことになった。私としては一刻も早くクルス侯爵家に帰らなければならないのに、まさかさらに引き止められてしまうなんて。
しかも殿下の言い分をざっくりまとめると、『自分より異質な存在がいると安心するからずっとここにいて欲しい』――そういうことである。
王子としての孤独や普通への憧れを聞いて、つい絆されそうになっていたけれど……冷静に考えればちょっと、いや、私ってかなりみじめだな。
「……殿下、申し訳ありません。ずっとここにはいられません」
「ロミナ……」
「私には帰らなければならない場所があるのです。私を待つ人がいます。きっと今も、私のことを心配しておりまして」
思えば、クルス侯爵家は本当にいい人達ばかりだ。
ただ“可愛い”と、それだけの理由で私を可愛がってくれている。あの人達の中にいると、いつの間にか不安もなくなった。猫である私の居場所はクルス侯爵家なのだ。城じゃない。
「どうか帰らせてください。お願いします」
「待つ人……それは、ロミナにとっての大切な人?」
「大切? そ、そうですね、大切です」
「どうしても帰るの?」
「は、はい。帰ります」
私達の間に沈黙が流れる。
たとえ殿下相手であっても引く訳にはいかない。
オルランド様も、シェリーさん達メイドも、今の私にとってとても大切な存在だ。早く帰って、みんなを安心させたい。
私の意思が固いとわかると、アルマディウス殿下はやっと諦めてくれたようだった。悔しげに口をキュッと結び、観念したように私の前へと屈み込む。
「……わかった、下まで送りましょう」
「あ、ありがとうございます!!」
「でもお願いです、時々こうして会ってくれませんか。僕はロミナの存在にとっても救われたから……」
「……時々で構わないのであれば」
「ありがとう、ロミナ……!」
私が頷くと、アルマディウス殿下の顔にはやっと子供らしい笑顔が戻った。そんなに、私の存在が嬉しかったのか。
(……やっぱり、こういうところは“普通の子供”なのだわ)
殿下は、約束どおり私を下まで見送ってくれた。
城のエントランスでは、騎士や文官、侍女達などがせわしなく行き交っている。時折、ローブを羽織った魔術師も通り過ぎた。オルランド様と同じローブ――私の憧れ、魔術師団の方だろう。
「ロミナの魔術は素晴らしいですが、魔術師団に入らないのですか?」
「うーん……入りたいのは山々なのですが、入団は狭き門なのですよ。私みたいに卒業試験に失敗していたら、入りたくても入れません」
「そうなのですか……ロミナほどの実力があっても、厳しいのですね……」
(そもそも、今は猫だしね)
いつ人間に戻れるかも分からないし……
目の前を通り過ぎる魔術師達を、私と殿下は羨望の目で見送る。
「ロミナなら、いつか魔術師になれますよ」
「そ、そうでしょうか?」
「ええ、きっと」
そう言って、アルマディウス殿下は深く頷いた。
幼い彼の言葉は何の保証にもならないけれど、殿下がそう言ってくださるだけで少し勇気が湧いてくる。誰かに認められるって嬉しいことだ。
私もいつか……何年かかってもいいから、あのローブを着て歩く日が来るだろうか。何度でも試験を受けるから。
(卒業試験は失敗してしまったけど、入団試験には挑戦してみようかな)
少し前向きになった私は、機嫌良く城のエントランスを後にする。
と、その時。
「……ロミナ?」
おかしい。いるはずのない人の声がする。
ぎこちなく振り向いた先、そこには……ローブをまとったオルランド様が、静かにこちらを見つめていた。