私、人間なんです
シンと静かな暗闇の中、どこからかオルランド様の低い声がする。
『危ないことはしないで、って言ったよね?』
振り向いてみると、深い闇の中にオルランド様が佇んでいた。いつも穏やかなその顔は、見たこともないほど険しく冷たい。
それもそうだ、私が約束を破ったのだから。
『制止も聞かず屋敷を飛び出て、町をうろうろ出歩いて……挙句の果てにアルマディウス殿下へ説教したそうじゃないか』
『勝手なことをしてすみません……でも聞いてください、私はあの子が殿下だなんて気付かなくて――』
『言い訳は聞きたくない。君には失望したよ。フェリックスの妹だからうちで預かってあげたのに』
それだけ言うと、オルランド様は私に背を向けて遠ざかっていく。暗闇の中へ吸い込まれるように。
『ま、待ってください! 私は』
『じゃあね。約束を破るような猫とは二度と会いたくないな』
『オルランド様――――!』
(オルランド様!)
暗闇の中、私は悪夢で飛び起きた。
あたりはまだ真っ暗だ。私はバクバクと波打つ胸を肉球で抑えながら、まだ遠い夜明けを待つ。
(今のは夢……?)
「はあっ、はあっ…………」
嫌な夢を見た。妙にリアルだった。
まあ、近いうち現実になるかもしれない夢だけども。
(ああ……本当にオルランド様から見放されたらどうしよう……)
実は今、私は城にいる。ここはクラリオン城の一室。隣ですやすやと眠るのはアルマディウス殿下――私が、城下町で助けた少年だ。
昨日、騎士に捜索されていたアルマディウス殿下は、すぐに城へと戻された。ただし、私を抱えたまま。
私は腕の中から逃げ出すこともできず、そのままアルマディウス殿下と一緒に国王様の説教を受ける羽目になってしまった。
荘厳な謁見の間で、国王様の対面に座る王子と猫。
私、同席する必要はあっただろうか。
『よいか、アルマディウス。私が子供の頃はな――』
『はい、父上』
『(私、ここにいていいのかしら……)』
国王様から王子としての自覚を懇々と説かれ、なぜか一緒に頭を下げ、ひとまず国王様からは開放されたものの――その後は私まで殿下の自室に軟禁されている。
(こ、こんなはずでは……)
ただし、軟禁といってもこれ以上ない高待遇だ。
殿下の恩人ということで私をこの上なく大切にしてくれるし、「何をしてでも逃がさない」という皆の気概を肌で感じる。
そのひとつが、アルマディウス殿下の部屋に私専用のソファが備え付けられたことだった。明らかに高級な革張りのソファだ。こんな、得体の知れない猫のために。
圧倒され続け、流されるまま一晩を過ごしてしまったけれど、これではいけない。どうにか城から逃げなければ。クルス侯爵家を留守にしてしまい、屋敷の皆には心配させたままだ。
オルランド様が任務から戻られるまで、最短であと五日ほど。それまでになんとしてもクルス侯爵家に帰りたいと思うのに――
「おはよう、神使様」
アルマディウス殿下は、一夜明けても私を神の使いだと信じ込んだままだった。
「神使様より遅くまで寝ていては失礼ですから」と、早くに起きて私の目覚めを待っていたようである。
(本当に……しっかりした子供だわ)
こうして見れば、彼はどこからどう見ても王子だった。
アルマディウス・ルミナス・ド・クラリオン六歳。クラリオン王国の第一王子であり、このままいけば次期国王になるであろう人物。
まだ幼いのに堂々とした立ち振る舞い、ハキハキとした受け答え。一流品ばかりを身につけたその姿は、このきらびやかな部屋に馴染んでいて……子供相手に、私は完全に萎縮した。
「よく眠れましたか」
「は、はい。おはようございます、アルマディウス殿下」
「よかった。僕と同じ部屋で、神使様に非礼ではなかったか不安だったのです。神使様が落ち着けるような環境を至急整えてますので、どうか少々お待ちを」
「えっ……?!」
私の知らぬところで、どんどん話が進んでしまう。殿下、六歳なのに仕事が早過ぎないだろうか? とんでもない男だわ。
王子相手にどう断ればいいのか、私は頭を抱えた。すでに私のソファまで用意されたし、さらには私のためのなにかが至急整えられているらしい。もう、何も言わずに逃げ切ることは不可能である。
罪悪感で苦しい。ここで正直に言わなければ更にまずいことになる。正体を明かしたくはなかったけれど……もうプライドなんて捨ててしまえ!
「あの! 私は神の使いなんかじゃないのです。ですからもう、家へ帰していただきたいのですが」
「何をいいますか。どう見てもあなたは特別な存在……ただの猫はこうして喋ったりしませんし、不思議な力も使いません」
「ですからあれは不思議な力なんかじゃ無くて、誰にでも使える初級魔術なのです。なぜか威力は強くなりましたけど、私は――」
私は腹をくくり、アルマディウス殿下をキッと見上げた。
「私は、ただの人間なんです」
「人間?」
殿下と私の視線がぶつかり、部屋に静寂が訪れる。
つかの間の静けさも心臓に悪くて、私にはとても長く感じられた。